お昼ごはんは ぎゃらんどぅー

映画と本とお肉をたくさんたべる

文学…とは?

 

 

今日の文学論(大学の講義)おもしろかったな〜今までで一番おもしろかったんですよ

 

 

未曾有の事態になると必ず 詩が詠まれるらしい。

 

日本史上初めて編まれた詩集が 市民一丸となって日本国を守るという意識を持たせるため、つまり戦争の道具やったわけで

文学はマインドコントロールの手段として使われるツールなんですよね。

だから 戦時中は市民を鼓舞して国のために死なせるために文学人に詩を書かせ、核で攻撃を受けたら 反核の詩を文学人は書くんです、それらは純粋な叫びであるから市民は 正しく賛同する。

 

東日本大地震のときも 福島に住んでる詩人が 迅速に しかも現代的にtwitterで 140字以内の詩をたくさん書いて(打って?)発信した。直感のままに文字を打って人々に短い詩をたくさん届けた。やっぱり 自然災害という圧倒的なものを前には日本人は魂の言葉として詩を使って発信するっていうのは、SNS時代の今も変わらんのやなあと感心するわけですが

その なんていうか キャッチーな、時に数十文字の、悲痛で純粋な叫びっていうのは みんな賛同せざるを得ないじゃないですか。入って来やすいし馬鹿でもわかるし題材が題材やし。

別にフォロワー数を増やすために 地震を被災を別れを詩にするわけではないから、まったくの純粋な詩人としての使命百パーセントでtwitterに、その詩人は、投稿して。

それを絶対にわたし達は否定できずに 全部丸呑みに肯定して感動させられる。全員が絶対に頷くしかないもの。

それが文学のめちゃめちゃ危険なところなんですって。そういう 目立った直感的な絶対に否定できないもの、受け入れざるを得ない力が働くから。

 

めちゃめちゃ面白いなあと思って、だってこの世の中、知名度のある 社会に影響のある 人が最もらしいことを言えば絶対にある程度の人数がついてくるし twitterやってたらわかるやん、ほんまにジャンキーに文字を摂取してるなあって思いませんか?

わかりやすい意見や 感情やを バリボリろくに噛まず飲み下してる感じがいつもとてもする。

言葉にできない部分は言葉にされないままみんなにわかるように短い文章で書かれる詩は本当に詩なのかと。

それらを打ち込んで実際に世の中に発信するまでの間に その文章は本当に吟味されたのか?と。

そもそもがtwitterの使い方として直感的な発信をすることが正しい。

そんなツールに、人々の否定を許さないような文章を投稿してもいいのか?

圧倒的な悲しみや苦しみや自然の脅威を、そんな感覚だけで人に訴えてしまってもいいのか?

と、考えさせられましたね。

 

大体がでもこのブログだっていっつも直感で文字を打ってるわけで脳みその投影でしかないわけですから 文学ではないわけです。

言葉を辞書的な意味のまま使って並べてどこにでもあるような月並みな主張をするオリジナリティのかけらもない。

でもねわたし 詩って苦手なんですよね〜。誰にでも理解できるように作られていない、誰かにわかればよい表現、辞書的な意味から離れたところで使われる言葉は魅力的やけど。

そんなん自己満やん!って思ってまう自分がおるわけですよ。

 

文学は美しさ?

その人にしかできない言葉の組み合わせで世界を作る。

小説が高尚な文学ではないことはわたしにもわかる。

でもじゃあ詩と純文学小説とは何が違うんやろう?

 

 

 

大抵の利器は戦争から生まれますが

文学もまた戦争と切り離せない場所で育って来たのだと思うと脱力してしまいます。

言葉を使ってしか話せないし書けないし読めないのやから、仕方ないことなのでしょうけど。

 

おやすみなさあい

 

 

 

彼氏が風邪をひくと必ず貰ってしまうという話

 

 

 

わたしは 精神的にはめちゃめちゃ弱い でも身体はわりと強い、ただし胃腸は弱い。

森山くんは 精神的にはそんな弱くない でも身体がめちゃめちゃに弱い。しょっちゅう風邪をひく。

 

わたしは 風邪なんてひかないから 風邪をひいてても森山くんと普段の距離で一緒にいる。

今回もそうだった。でもやっと気づいた、毎回高い確率で 風邪をもらってることに。

森山くんが治りかけるタイミングでわたしも風邪をひく。

でも、森山くんが治りきる前にわたしが治る。

森山くんが治すのに1週間かける風邪をわたしは2日で消費してしまう。

 

風邪をひくことは わたしにとって苦ではない。一緒にいれないことの方がよっぽど苦だと思う。

それに、風邪をひくとみんなが優しくしてくれるでしょう。ママンがお粥を作ってくれたり 森山くんがポカリを買って来てくれたり(一緒にふせっている確率の方が高いので滅多にないけど)するのは嬉しい。

 

風邪やインフルエンザで、単純に子どもの頃を思い出すのはわたしだけですか?

小さい時は病気をすると素直にずっと眠って。ふと夕方に目覚めた時の心細さったらなくて、でも階下に降りたら母と妹は普通にテレビ見てて。

詰まってて効かない鼻と ぼーっとする頭に冷えピタ。

おはよう、大丈夫?お腹すいた?って聞いてくれる母。冷えピタの上から頭を触って熱があるか確かめて、熱はないね!お粥食べる?って…

でも、妹にうつるからマスクしなさいってちょっと厳しく言われたり

 

今では 熱があるかないかなんて自分でわかるし、風邪をひきそうになったら風邪薬を事前に飲むこともできるし、眠らないとだめやのにずっとケータイ触ったり本を読んだりで それで怒られないやり方も知ってて

寂しいんだよな〜〜〜〜〜〜

独立なんてまったくしてない親離れのできないわたしやけど 確実に昔よりは一人で判断して行動することは増えてるし 寂しいよな〜

時間って進むことを心から求めてないのにどうして止まってくれへんのやろ

 

結局いつも昔に戻りたい話になる。

悲しいなあ

お粥ってそんなに美味しいものではないのにたまに食べるとごっつ美味しない?

このところ自分のためだけにお料理をして一人でお部屋で 美味しっ!やばっ! と叫んでもくもくと食べる生活が続いてて寂しい。

美味しいものを食べても 「でも、一人じゃなあ……」となるのは美味しいものに対してもとても失礼だ。

早く大学を卒業してママンと暮らさねば。

 

よく、「70くらいの母親と50くらいの娘の二人暮らし」という字面を見て 微妙な気持ちになっていたけど 今では それもいいやん全然それでわたしは幸せよ と思える。

母の方から多分願い下げやろうけど。笑

授業で 人生の折れ線グラフ的なやつを書かされて 一人で受ける授業なので思うまま書いてみると、2年前の圧倒的マイナスから死ぬ予定の70歳までなだらかにプラスマイナスゼロに向かう表になって 自分で引いた。

わたしの人生これから幸せ満杯のプラス軸になることってないんかあ ってさ

 

風邪の話からまた飛躍したぜ 鳥人かわたしは

笑い飯のネタで一番好きやったのは鳥人でした。

明日は9時に起きねばなりません。6時間睡眠はわたしには足りません。

頑張るぞ。

頑張るぞと書いてみたけどそんなこと思ってなかった。

おやすみなさあい

 

 

 

 

ココットの中のカスタード

 

 

 

彼氏の、自分の一個前の彼女が五年とか十年モノやったら どう思いますか?

 

わたしは 嫌やなあ だって 絶対に何もかもで比べられるやろうし。

一年とか二年とかなら、すぐに忘れそうな小さな癖とか習慣や言い回しでも 五年とか十年とか積み重ねたものはそう簡単に失くしてしまえないもの。

 

でもそれは わたしに 五年とか十年も人と付き合った経験がないからなのだと思う。

2ちゃんねらー処女厨が多いのは まさしく2ちゃんねらーの童貞率が高いからだと考えられるのと同じように。

自分に過去があるからこそ、「彼にも過去があって、それは私達の間には関係がない」なんて言えるのだ。

 

人なんて狭量だ。自分に許せることしか相手に許せない。

苦労した人間は 相手にも自分と同じだけの苦労を求めるらしい。

身をもって納得できる。わたしは不幸だからみんな不幸になればよいと思う。

自分の経験した内でしか物事が測れないのは当たり前のことだ。幸せな人間には相手が幸せでないことなんて想像もつかない。やっぱり知らないことは、良いことだと思う。

 

 

 

 

 

 

わたしにとって ケータイ(ガラケー世代なのでスマホをケータイと呼ぶのは相応しくないとわかっててもこの端末をケータイと呼ばないと気が済まない!)は小銃。

汚い、攻撃的な、言葉をバンバンネット社会に、彼氏に、撃ち出す凶器だ。

こんなもの、ブルーライトは出しよるし、繋がりがかえって孤独を際立たせて寂しいし、害でしかない。

それやのにこの持ち重りのする大きいのか小さいのかわからない機械を手放すわけにはいかない。

とにかく現世に依存しなければ。思考の海で記憶も、大切なものもそうでないものも一緒くたに輪郭を失ってドロドロと漂っている。

見えないものは見えないままでいいのに。変に可視化されてしまって見るべきでないものまで見てしまう。それも気味の悪いことに自ら選択した形で。

 

何もかも隠して生きていけたならいいのに。

誰も何も晒さずに。

知る必要なんてないのに、なんで好奇心や知識欲や 無駄なものが備わってるんや。

一緒に時間を過ごすのに、相手の家族構成を知ることは必要ないし、内面の激しさも、理解を求める寂しさも、知る必要ない。

だからやっぱり、何にも依存せず健康ですよという顔をして平気で外を歩く方が異常やねん。

こんなにみんな 病んでるのに。

 

 

 

 

今日は二部制でお送りしました。

途中に行間を開けたからいつもより話題転換がわかりやすくなってる気がします。

また、朝です。五時半です。わたしは一睡もしていません。

眠るために流していた映画版シャーロックホームズに、もう五回くらい観たことがあるというのに見入っていたせいでしょうか。

はたまた人と会話しなかった(正確にはウォーキング中チャリンコを転倒させたお婆さんの散歩していた猫が逃げ出したのでそのリードを走って捕まえてお婆さんにお礼を言われていいえとかなんとか言った)からでしょうか。

どっちでもいいから 眠いし寝たいわ。

ブルーライト、この、クソが。

おやすみなさあい

 

 

まっしろしろ

 

 

 

 

大切な人を亡くすってことは 自分のうちの一部も一緒に失くすってことやというのはわたしが常に提唱している説なんですけど

 

何かを知ったり、経験したりすれば 知る前や経験する前の状態には戻れないじゃないですか。

それって 知る前の自分を失うってことやと思うんですよね。

 

いろんなことを 悲しいことや楽しいことを 一度経験したら その前には戻れなくて 知らなかった頃には戻れなくて 少しであってもどこかが絶対に変わってしまう。

それが いいことである時ももちろんあるけど、悪いことでもあるかもしれないよね。

 

小説とかでよくある、「今まで一人で平気だったのに彼が私と居てくれた幸せを知ってしまったから もう一人になれない」とかもそれですよね。

ペットを飼うことも そうで、もう、新しい命と出会うことは その命の終わりまで引き受けるってことになる。ペットは 大抵 飼い主より先に死ぬから。

そしたらもう 新しくペットを飼う事は その生き物の死まで一緒に迎え入れるってことのしんどさを知ってしまうから、躊躇する、無邪気に子犬を家に連れて帰るときの自分には戻れない。

生まれた瞬間に、死ぬことは決まる。得るってことは同時にそれ以上を失うことだ

一緒に楽しい時間を過ごすことの、代償は、あまりに大きくないですか。

だからわたしは もう ペットはこの先できるだけ飼いたくないな。

 

大切なものは 増えれば増えるほど 失う時の悲しみを経験する数は増えるんですよ。

それなのにみんな、平気な顔をして生きてさ。

嫌んなっちゃうな〜ほんとに

 

でも 悲しいことに 妹を亡くしたわたしは、妹を失うことに怯えなくていいんですよ。

恐ろしいことは、起こる前より起こった後の方が安らかであることは、あるんですよね。

 

それなのにでも大事な人は絶対に死んで欲しくない。

死んで欲しくないけど、大事な人の死を目の当たりにしないためには当たり前やけど自分が先に死ぬしかない。

そしたら 自分の死を 家族に 大事な人に 味わわせなくてはならない。

どうやったって 生きてることは 悲しみに直結するんですよ、こんなん、おかしいやんか。

 

そしたらもうね、生まれた瞬間にね、一人にして家族だけじゃなく他人にも会わずずっとずっと一人で生きさせてくれたらいいって話ですよ。

でもそしたら大事な人を失う辛さを知らないから逆に孤独で死にそうになるわけでしょ!?

 

なんやな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜だからこんなにどうしたって生きることは苦痛なんやったら、もうね、常に泥酔状態やら薬でラリってる状態の人の方が、当たり前の生に対する反応をしてるでしょ!!

ってこれ前も書いてたよな。同じことばっかり言うてるやないか。

 

 

別の話をしましょうねしたことないやつね、あの〜〜わたしめっちゃH&M好きなんですよね。

誰が着んのこれ!?っていう意味不明な服置いてるとことか、安いけどそんな安く見えへん服置いてるとことか、サイズ展開が多いとことか。

服からチープな匂いがするとことか。

安くで色んなことができる世の中ですね。

昔の若者の貧乏旅行より 今の若者の貧乏旅行の方が同じ価格帯でも遥かに豊かですよね。

恵まれているなあ。

その代わり、自由ではないけどね。監視されている。しかも自ら望んで😩

世の中って世界って生き辛いんだよな〜どうにかならんかな

日本人向いてないんかな日本人らしい性格してるけど。

 

閉鎖的なのは開放的になっていろいろ舞い込んでくることが恐ろしいからなんです。

やっぱり得ること=失うことというのを知る前に戻りたいな、そうしたらまた失って悲しくなる繰り返し。

馬鹿みたいやけど馬鹿みたいな方が生きられるよね。

お鍋で火傷する嫌さを忘れないとお鍋に近づけなくて料理できなくなっちゃうし、、、

それはまた違うか。

 

はあ、、、

おやすみなさあい

 

 

 

のろけなの?そんなことないよ

 

 

わたしは昨日、森山くんとおうちで映画を観ながらふと思ったんです

どうして他人なのにこんなに一緒にいられるんだろうと。

そうしてそれを言葉にしたら、「夫婦だからだよ」って返してきて よく意味がわからなかったから 「?笑」って返しました。

そしたら「あやちゃんが喜ぶと思ったのに!」って言われました。

でも わたしは 捻くれまくっているので、思ってもないことを喜ばせるために言って、挙句それをネタバレするなんて酷いな、と思いました。

 

わたし達はいつもこんな調子ですれ違っているように思います。

たぶん、わたしのひん曲がり方がものすごいからなんでしょうね。

そしてそのひん曲がり方を未だに彼には理解できないからだし、彼には理解できないということをわたしが受け入れられないからなんでしょう。

 

わたしは 人に好かれることに 変な言い方をするけれど、慣れています。

母から愛されて育ったし、友達もわたしを好いてくれているから遊ぼと言ってくれるはずです。そこを疑いようはありません。

でもだからこそ、恋愛となると 思考停止が起こります。

好いてもらえることは、わかります。それが友情であれ家族愛であれ、好かれる経験はあるから。でも、恋愛というのは 男女の関係(同性間の恋愛を否定するのではなく単純に男女間の恋愛の話においての)であるわけで、そうするとわたしは女として見られるわけで。

森山くんと1年以上付き合わせていただいているのに、そこに未だに確たるものがないというか。

自分以上に、ただ単に女としての魅力のある人は掃いて捨てるほどいる、それらを見て見ぬ振りをして自分を選んでくれている 意味がわからないんです。

友達は たくさん持てるし、家族は 唯一無二の時間を過ごした絆がある、友情と家族愛には嫉妬や他人の介入が ないと言っていいほど少ない、でも、恋愛って一度に1つしかできないしそれなのに代わりはいくらでもいる、離れようと思えば簡単に離れられて 一緒にいたいという感情が一時のものなのかそうでないのかさえ恋愛の渦中にいればわからない。

なんて不確かなの?

それなのにこの先も死ぬまでずっと一緒にいたいと願っちゃうし、安易に口に出せてしまうんですよ。

わたしは恋愛が恐ろしい。

 

昔思ってたんです、「恋愛のために全てを捨てられる人は悲しい」って。

恋愛とその他の環境を天秤にかけて恋愛が勝るほど環境に恵まれていないその人は悲しいと。

今はでももうわかりません。それを二人が満場一致でできるほど愛し合っているならそれ以上の幸せなんてないのではとも思えるし、友達や家族を捨てるなんて惨いことをどうしてできるのとも思える。

 

それに、誰かとずっと一緒にいられると信じられる人は 他の誰かとも一緒にいられるんちゃうの?とも思います。

一人でずっといたい人や みんなでずっといたい人以外は 絶対的な一人としか二人でいられない人なんていないのではと。

選択肢は いくらでもあって あなたと出会わない可能性も十分にあって、でも出会ってしまって一緒にいるという未来を選択して一緒にいて。じゃあ出会わない世界線を選んだわたしはあなたとは違う人と一緒にいるんだろう。

過去のどこかでの選択の結果あなたと出会う未来を進んできたわたしが言うのもナンセンスではあるんやけど。

その 選択肢さえ嫌やったんです。こないだまでは。わたしといない選択もできて、それなのにわたしといることをわざわざ選んでわたしといる。ってことは わたし以外の人といる時にはわたしといないことを選択してわたしといないということでしょう。

そういう当たり前のことが どうしてか 嫌だったんですよね〜。

「お前を選んでやってる」って思われてるのがゲロが出てくるくらい嫌で。

今はもうわかんないけど、もしかしたら今もまだ嫌なのかもしれない。

 

他の女の子と恋愛をするという選択肢をかなぐり捨ててまで一緒にいてくれる

その素晴らしさ?貴重さ?がわたしにはまだ信じられないんだよな〜

そんなことしてくれるわけ、ないやん!!!って思ってしまうな。

そんなほどの面白さも優しさもユニークさもおっぱいも持ち合わせていないわたしを とくべつの一人にしてくれるなんて、本当によくわからない。

それでもわたしは森山くんを好きなのでもやもやしながら一緒にいるのである。

もう一緒にいるのはやめてしまおう!と何回も何回も今まで言ってきたし実現しかけたことも二、三回あるけれど 今んとこ一緒にいるし、これから先も何回も言うのだろうけど実現する時がこない限り一緒にいるのでしょう。

 

わたしといる時の彼が好きで彼といる時のわたしが好き それが友達のときから二人だけでしかどうしたっていられなかった理由なのかな。

なんか惚気?惚気ですかこれは?ごめんなさいね。今日で一年と三ヶ月なの。一緒にいるのが当たり前になってきたけれどこの先もきっと色々あるのだろうな。

どうにかこうにか二人のベストの形をその時々で選択して楽しくいられますように、できれば別れても完全に離れてしまわないように。

 

おやすみなさあい

 

 

 

芸能人は人間ではない

 

 

 

アイドルの熱愛は ファンから叩かれるけど、わたし俳優女優の熱愛も離婚も不倫も、嫌悪感でもって 知りたくないんですよね。

だって エンターテイナーじゃないですか、それらの人たちって。

俳優女優は 物語を 文字から映像にするときの 依り代…って言葉が正しいんかわからんけど、最近日本語が正しく使えなくて困ってるんやけど、まあ…言うなれば偶像なわけじゃないですか。

映画に登場するのは、例えば斎藤工その人ではないし藤原竜也その人ではなくて、北野先生でありカイジであって。

だから、嫌なんですよつまり、その俳優の生活が透けて見えるのって。

性癖とか 不倫とか そういうマイナスイメージって例えば「この俳優は猫が好きってバラエティで言ってたな」とか「この女優はメガネをめちゃ持ってるらしいな」とかいう 小さな特徴より遥かに上回ってその人のイメージになって、だから、CMとかも すぐ降ろされちゃうんでしょうね、なんか何言ってるかよくわかんなくなってきたけど…

 

だから 自分と同じ日本人である俳優が 自分と同じように恋愛をして 同じようにコンビニに行って とかの姿は 例えば週刊誌に撮られたりしたら特に、想像したくないけどできるじゃないですか

でも、できる時点で その人ってだめじゃない?って思うんやけど…

庶民派女優とか庶民派アイドルって、いやいやいや、それじゃあかんやん!って思うんですよ。

親しみを感じられたら 芸能人て だめやん、だって、じゃあその人が出演する映画はその人の人となりを通してみてしまって、そんなん映画に失礼やん。

なんか言いたいことがイマイチまとまらない日です今日は…

 

つまりだから キャラクターでいてほしいんですよ。

キティちゃんに、トイレの描写要らないでしょ?ミッキーマウスとミニーマウスのセックスシーンを想像する人はいないじゃないですか。いや、いるのか?いたら多分めちゃめちゃ少数派やと思うんやけど。

映画にドラマに出る人に、人間を求めてないんですつまり。

だから、ゴシップとか、なんのためにあるん?って思うんやけど…

どうして 芸能人に人間としての背景をつけてしまうのか。

 

その点で言えば ハリウッド俳優とかは いいんですよわたしにとって、顔のつくりも人種も違うし住む世界があまりにも違いすぎるし、よほどのビッグカップルでなければ知ろうとしないとゴシップなんて知らずに済むし。

わたしにとって 彼らは 人間ではないと もはや言い切れる人たちで。

だから 洋画は 安心してみられるというか 邦画より キラキラしてみえるんですよね〜

 

とは言え日本にも素晴らしい俳優女優はいて、だからそういう人たちの 映画はたくさんみたいですね。

思想も宗教も性生活も関係のないところで、純粋に映画の登場人物という虚構として二次元に現れる人たち。

そんなもの、生身の人間に求める方がおかしいって言われたらそれまでなんですけどね、でもそういう職業ではないの?と思ってまいます。

 

では 新しく手に入れた江國香織を読みます。

わたし最近 江國香織の本しか読破できない病気にかかって 読みかけの本が溢れてます。やばいんやけど。

おつかれさまあ

 

 

 

その業界の人にとっては人の死は商売であるということ

 

 

 

お通夜からなる一連の お葬式やら一周忌やら、が大嫌いだ。

亡くなった人を思い出すことは 儀式じゃない。

一年ごとに お偉いお坊さんがする 真面目くさった上から目線の(亡くなった方を思い出して笑顔で集まるのですよ、など)説教を聞くのはほんとうに反吐がでる。

こちとら 故人を忘れた日はない。どうして他人から「死というものはおしなべて…」などと聞かされなくてはならないのだ。

お経なんて 意味を持たない文字の羅列だ。素人のラップの方がまだ聞いてられる、なんて言ってるかところどころ理解できるから。

 

だいたいが 外面を良くするための儀式なんだろうなと思う。

伝統や格式、なんてものは。

そりゃあ 大事にした方がいいものはごまんとある、昔からの技術とか 工芸品とか 大切なものはたくさんある。

でも、昔人間の「世間様にどう見られるか」に第一義を置く考え方はほんとに ゲロを吐きかけてやろうかと思うな。

「どういう人間か」より「どういう人間に見られるか」が勝つ、その腐った常識は気持ちが悪いものだ。

 

東京ビッグサイトで、「エンディング産業展」なるものが開かれたらしい。

葬儀・埋葬・供養などの終活に関する設備・機器・サービスが一堂に会する専門展示会

であるという。

最近は、"個性的なお葬式"ができるそうだ。

ニュースでは、畳敷きの棺桶にリポーターが入って「あ、い草のいい香りがしますね」と、ご丁寧に蓋まで閉めて話していた。

カラフルで柄物の骨壷、スマートフォンをお墓にかざせば故人がこっちに手を振っている映像が見られる。

そうか、人の死は最早産業なのか。いや、そりゃ昔から 墓石屋や葬式屋など 産業としてあるけど、それとはまた違ってきている気がする。

死というのは 誰しもに訪れる当たり前の出来事だ、だから1つの流れが確立されて産業となるのも自然なことやろう。

 

でも、「個性的なお葬式」ってなに?

どうしてお葬式に インパクトを求めるのか。

そうでもしなくちゃ思い出してもらえないのか?

お葬式をカスタマイズできるのなんて、生き過ぎた老人だけだろう。

まだ生きてる友達に「〇〇さんとこのお葬式は すごかったね未だに覚えてるわ!」などと お葬式があるたびに思い出されるのを望んでるわけですか?

違うやん、「〇〇さんは楽しい人だった」とか「〇〇さんと行った旅行楽しかったな」とか 人柄や思い出で思い出されなきゃ意味ないやん。

 

それに、死っていうのは 絶対的に永遠にその人を失う出来事やのに それを偲ぶ会やったり石碑やのにそんな 馬鹿みたいな なんて言うんやろうコントロールできるもののように、楽しんでカスタマイズして、1つの 楽しいイベントみたいに、ハロウィンやクリスマスみたいに、しないでよ と 思うんですけど…

あらかじめ 死ぬ前に 老人にお金を使わせるには そういう 終活というのは いいのかもしれませんね。

いろいろ 周りが決めるのも あれですもんね。「安いやつにしといてください…」なんて言われへんし 全部当人が決めてお金払っといてくれたら楽ですし。

死でさえ備えられるほど生きるなんて生きすぎやとは思いますけどね、死ねないんやからしゃあない。

 

まあね、いろいろ言ったけどね、

若い人のお葬式と 老衰で死ぬ人のお葬式じゃ まったく違うんですもんね。

わたしはまだ 老衰で死ぬ人のお葬式に行ったことがないのでわからないけど。

 

周りにろくな老人がいなくて、だから「祖父母=優しい、お小遣いくれる、なんやかんや死んだら悲しい」みたいな世間の人々が本当に羨ましいんですよね〜。

老人が トラウマ的に嫌いなんですけどわたし、老人嫌いって多分男ウケも悪そうやないですか?女の子も いい気しないでしょうけど。てゆうか嫌いなのを表に出さなければいい話なんですけどね、無理なんですよね素直な人間なので。

理由があっても受け入れられ難い老人嫌い、やっぱり世間の老人は優しいんかなあ〜孫世代には。

 

わたしはねえ理解なんてされるわけないからしなくていいよ って ドンっと突き放すんですけどほんとのところは まじで理解されたがりなのでね。

「自分とは違うし受け入れはできないけど理解はできるよ、君はこうなんだね」と言ってくれたなら誰かが、言ってくれたならすごく嬉しいな〜と思いますね。

 

みんなは、死ぬのは怖いですか?

死に方が怖いんかな、やっぱり交通事故とか病気とか戦争とか そういう死の匂いのするものは痛そうやし悲しそうやし恐ろしいですね。

でもねえやっぱり、自分が死ぬのより周りの大事な人が死ぬことの方がよっぽど恐ろしいし、そういう恐ろしい悲しい気持ちに周りの人をさせないためにできるだけ死なないべきですね。

自分が世界から外れて、穴が空くのは自分じゃなくて世界なわけやからね。

単純に、苦しんでるその人を見たり、動かなく目を覚まさなくなったその人を見たり、その人に二度と会えないってことやったり、は、単純に、悲しいもんね。

 

恐ろしいなあ

必ずみんなが 大切な人たちも 例外なく 死に向かってるという事実。

それを味わわないには、自分が死ぬしかなくて、自分が死んだら 悲しい気持ちを代わりに自分の大切な人たちに味わわせることになる。

必ず誰かが絶対に悲しいって、ほんまに怖いなあ。

 

はあ………

今日も背徳の薔薇を聴いてから寝ます。このところ毎日です。

おやすみなさあい