おとなピーターパン

傷つくことを回避するすべを豊富に持つ人間のことを「大人」と呼ぶのならもうずいぶんまえからそれに片足を突っ込んでいる。

大人というのは優しい。優しいのは傷つきたくないからだろう。人を傷つけることで自分も傷ついてしまう、それなら、人を傷つけることさえも自分ごととして全力で回避する。

涙を流すのは共感するから。映画や小説に感動させられるのは私たちのどこかの部分になにかがかぶさって、抽斗の奥の感情を引っ張りだされて他人事のままで終わらせてくれないからだ。

ほとんど全てが近い。そのせいでほとんど全てが意味を持つ。ほとんど全てに語る言葉を見出してしまう。

 

「あんな大人になりたくない」、教師を見ては思った。

「そんな苦しい思いをするなら大人になりたくない」、母親を見て思った。

「あんなふうな大人になるのはいやだ」、サラリーマン像を漠然と見て思った。

彼らは役割を果たしていた。彼らにも無邪気な面というのはあるのだろう。

しかし、でも、大人という服を着なければならないときがもしくるとして、それを脱ぎたくても脱げなくなったら終わりだろうと思う。

ものを考えるとき、裸のままの自分がびりびりとむくむくと出てくることがなくなればもう終わりだろう。

 

大人という服はじゅうぶんに柔らかく、分厚い。相手を傷つけず、自分も守るために。

私だってその服を着てバイトに行っている。それは興味のない人間にあなたに興味がないですと剥き身の自分が言ってしまうこと それ自体によって傷つけ傷つけられることを避けるためやし、家庭の問題を全面に写した鏡みたいに澄んだ自分の本性にスモークをかけるため、ひとりのつまらない人間になるため、、、

くそみたいなコミュニケーションを終えて中身が息苦しそうに顔を外に出したときに最初に出る軽蔑や見下しは純粋な幼児性を持っているので危険なのだ。

私というのは友人のまえで失言が多い。油断したら自分と違うものをナチュラルに否定している。悪意なく。子どもっぽいということはそれ自体が人を傷つける鋭利な石なのだ。

 

もしもあなたが私と同じように、あなたの友人たちと剥き身で付き合っているなら、周囲から見たそのグループあるいは二人組というのは感じが悪いだろう。

私たちはすでに言葉を持っていて、ほとんど完成された語彙でつくった世界のなかにいるのだから。ほんとの小さいころのように、言葉なしの世界で、知らない場所からきたその場限りの他の集団と溶け合うことはできない。

 

友情ってものは必ずしも美しいってわけじゃないと思う。他人から理解不明であるという時点で、普遍的な概念じゃないもの。

それはそのまま恋愛が美しくないことに繋がる。私のなかでは恋愛と友情は地続きだ、、、もちろん両方ともから通行可というわけにはいかないが。

恋愛は友情抜きには成立しえない。恋人は親友でもなくてはいけない。そうして親友同士は排他的で、はたからみたら意地悪だ。

 

 

話がそれたけども

望まない大人に、もし私がなるとしたら子どもに接するときだと思う。

(とはいえ私は小・中・高時代の教師たち、塾講師たち と いま、大人としてお酒を飲みたいなんて決して思わない。彼らが私に子どもにするようには接さなくなったとしても、ふつうに人間として興味がないから。)

子ども時代の私にしたら大人はとても理不尽で、自分勝手で、無力で、思いやりがなかった。何事をも私のためにはしてくれなかった。彼らの腰は重かった。

それはもしかしたら、大人になる過程で獲得した ある種のズルを使っては子どもにはなにも伝わらなかったからかもしれない。二次方程式を習ったあとで、エックスを使わずに計算式を解くのが難しかったように。

あらゆることが潤滑にすすむのは柔らかい服の外側を物事がするすると滑っていくからだというのに、剥き身の子どもにはそんな服の摩擦なんてなくてぜんぶが肌に刺さるのに。

 

親になるのがじゃあ恐ろしいだろう。

私が息子に、娘に、「いまお母さんの機嫌悪いからあとにしよう」なんて思わせるときがきたらと思うともうそれだけで泣きたくなる。

 

自分が傷つかないために=(恋愛+結婚+出産+子育て)×しない

それが大人になるってことなら!完全にくそだね。

 

すべては新鮮であるべきで

新しいことは楽しくあるべき

飛び込む恐怖は常に好奇心にとってかわられるのだ

私たち そうあるべきだ そうやろう

 

 

 

そう、もう女友達は私を傷つけないことがわかっている。親しくない友人、興味のない人たち、男の人たちこそが私を傷つけるのだ。

外側のドンギバシな世界は 傷つけてきても大人の服で防げばよいが 男の人に対してはそうはいかない。

新しく男の人と知り合うというのはだからほとんど いちばん大変な仕事だろう。そこでしか深くは傷つかないようになった、ある程度大人の私。

 

 

あー、「わかるわかる」と思ってもらえる話しようと思ったのに結局自分の話になっちゃった

 

Don't give a shit though😆

 

 

待ち合わせ革命

 

 

 

「待ち合わせ」ってものが苦手だった。

まあ今だってちょっと苦手。なにしろ普段から継続的に会う友達がいないから、みんな大なり小なり久しぶり。そういうコンタクトというのは緊張するから。

でも、苦手だった理由は別にある。

 

けっこう厳しいほうだった。相手の遅刻に。

自分はちょびっと遅刻するくせに。

なんでなんかなあって改めて考えてみると、私は待ち合わせを「〇〇時にどこどこに行く」というスケジュールだと定義していたからだとわかった。

だから、〇〇時にどこどこにいない友達に腹を立てたし、ちゃんと自分は〇〇時に着いてるのに、なんであんたは遅れてくるわけ?と思っていた。

 

でも、待ち合わせって違うんだった。

その人と会うために 暫定的に書き込まれる予定なのだった。ということが最近わかった。

会えるならべつにどこでもいいのだ。

ぶらぶらしてたところに 友達が不意に合流するのだって待ち合わせのうちのひとつだし、その後にどこに行くかに 予定というのは 依る。

 

もう待ち合わせの与えるプレッシャーったらなかったけれども そう考えるともっと気軽なものに思えた。

物事は 見る角度によって変わるんやなあ。

 

 

これが自分のなかで最近起こった、待ち合わせ革命の話。

 

 

 

 

 

あともうひとつ。

私の好きな英語の言葉はだんぜん「Don't give a shit!!」(=気にしねえ、関係ねえ、クソどうでもええ、みたいな心意気の意味)なのやけど。

カナダにいるときに元恋人に教えてもらった言葉で、私はその言葉を聞いた瞬間から大層気に入った。

I don't give a shit whatever they said to me!!って感じで、それまでの私にしっくりきたし、そこから日本に帰ってしばらくの間の私にも馴染んだ。

みんなが大事なものと自分の大事なものに相違があってもドンギバシ(Don't give a shit)やんかって思ってた。

でも 最近ずっと ドンギバシって言えなかった。そんな勇気なかった。give a shitしまくってた。

みんなが大事にしてるものを大事にできない自分がシット、くそやんかって思っちゃった。

そう思っちゃったことを自覚してたし、そんな自分を否定した。

元恋人と完全に別れたのが大きかったのかもしれない。彼はドンギバシな私が好きやったし、ぜんぶ受け入れてくれてたから。

 

でも なんか昨日ぐらいから ひとりでもドンギバシに戻りつつある気がする。

自分のペースが、とか 今は休眠期間、とかももうドンギバシ。

クリスマス一緒に過ごす恋人がいない、とか ひとりで眠る夜は寂しい、とかももうドンギバシ。

いやクリスマスはじゃっかんドンギバシじゃないかも。

新しいブログのタイトルにしたほど、スウィッチのアカウント名に設定したほど、大好きな言葉 DONGIVASHIを 私は自分のもとに取り戻しつつあるんじゃないか?

その言葉を見るたびに、自分はもうドンギバシじゃないのに、って ドンギバシやった自分が羨ましかったけど。

また ドンギバシに戻れるかなあ。戻れたらいいなあ。と思い中……これ自分の言ってる意味読んでくれてる人に伝わってんのかな?

ドンギバシって書きすぎてわけわからんくなってるね。

ドンギバシがそもそも、固有の言葉すぎるしな。

 

まあいいや、ダイエット頑張ってもっと魅力的になって、もっともっとドンギバシしてやるんじゃ👌

いまはとりあえず、いまはね、そういう気持ち。

 

 

 

豆大福頬張ってそうて言われるの

 

 

よく考えたら悪くないな

幸福そうな人間に見えてるってことやもん

うまくやれてるってことやしな

甘いもん与えてくれるおばあちゃんなんかいーひんし

ダイエットしてるから甘いもん食べたくないけど

和菓子食べる若者ってなんか印象良さそうやし

 

 

両手におばあちゃんにもらった豆大福持って頬張ってて欲しいって言われた

 

 

 

ねえそれって褒めてんの? 馬鹿にしてんの?

少なくとも前者ではないね

 

 

 

性について考えてみただけなので数日で消すよ!

 

 

性的なものアラート発令します

そーゆー話が嫌な人は読まないでください しかもかなり個人的ですよ⚠️

まあ 嫌いな人がおるってことを わかってきたって時点で 成長してますね 私は あーよかった少なくとも成長してて

 

 

 

 

 

 

 

あなたは 下ネタを好きですか?

私はもちろん好きです。

うんこちんこで笑っちゃうレベルです。

小学生レベルの下ネタから、ほんまに下世話でパブリックにすべきでない下ネタまで 好きです。

ただし ゲロとかゲップとか実際のうんちとか 海外のアニメによくあるタイプの下ネタは嫌いです。

だいいち うんこちんこは、語感と 「言ったらあかんことを言ってる」ってところが面白いのであって、その言葉が指す物質を好きなわけでもないわけですからね。

とは言いつつ おなら はめちゃくちゃ面白いと思います。

おならって最強です。「あ、屁出た」って言われたらほとんど100%笑っちゃいます。テレビのなかでも実際にも、まあ男の人が言ったらですけど(これがもう既に差別?😞)。

「おなら」ってまずもって その間抜けな平仮名が面白いですね。

出る音も間抜けやし、なによりも無害なことがいちばん面白い。

強制的にくさい臭いを嗅がされることもありますが、臭いは一瞬で消えますし、なによりくさいということも もはや面白いですね。くさい臭いを理不尽にも強制的に嗅がされているという状況が面白いです。

そして おならをしてしまう状態に相手が(もしくはテレビタレントが)あるということも面白い。どんだけ気抜けてんねんと思うと笑けてきますね。お尻の穴ゆるゆるかい ってつっこみ(物理ではない)たくなるし。

こっちが喋ってるときにおならされたらもう脱力もんですよね。笑うしかないしね。今も書きながら笑っています。

 

そら見知らぬ人のおならやったら 全くもって許容しませんが。ほんで自分は人前ではしませんが。

 

ぜんぜん おならについて語るつもりじゃなかったのに 語ってしまった……。

とはいえ あんまり おならをぽんぽこする男の人というのはいませんね。

されたら 気まずい感じになるんかなあ、まあ私 男友達が あんまりいないので わからんのですが。

 

いやまだおならの話してるんかい。

 

放屁って単語さえも面白いですね。なにその気を抜かさせるためのハ行の組み合わせ。

 

いやまだやめへんのかい。

やめます。

 

性的なものってなんで駄目なんでしょうか。

なんで隠されるべきで、性欲の強い人は それを隠さないといけないんでしょうか。

 

ほとんどの人に 性欲というのはあります。逆にいうと、ほとんどの人に 性欲がなければ 人間は生物として遺伝子を残せませんもんね。

そこが悪いのでしょうか。

性欲を持つ人間が、マジョリティであることが 性について語られるべきでないってことの理由でしょうか。

 

または、すべてを性的なものにつなげるということがいけないんでしょうか。

とても多くの文学作品、映像作品において 性描写というのは出てきますね。まるでそれがひとつの到達点かのように。必ず食わないといけない道草のように。

 

私は とくに性欲が強いわけではありません。めちゃくちゃ普通です。まあ普通とかないかそういうのに。普通ってなんや?とにかく、

私が誰かと付き合いたいと思うとき、付き合う前に この人に恋している と思うとき(ほんとうにもう数年ないが)、この人はかっこいい と思うとき、なんとなくいいなと思うとき、イケメンやなあ と思うとき、この人と話がしたいな と思うとき。

この人とセックスがしたい なんて思ったことはありません。ただの一度も。

私と話したことのある人は 意外やと思うでしょうけれども。

見知らぬ人とそういうことをしたことも一度もありませんし。

 

同時に、誰かを可愛いと言っている男の人が その人と寝たい と思っているとはまったく思いません。

誰かをかっこいいと言っている女の人にも然り。

もしかしたら かっこいい、や、可愛い、付き合いたい、などには性的な意味が含まれているかもしれません。

世の中には 「男が 可愛い って言ったらそれはもうヤリたいって意味や」という考え方を採択している女の人もいます。

「可愛い」と言うことを その日、ヤレるという成果を出すための手段として使う男の人もいるのでしょう。

「男の言う可愛い=ヤリたい」論を唱える女の人の周りには、そういう男の人が多いのですかね。

 

言葉の意味というのは ほんとうにいろいろあって、すべて一義的ではないですね。

だから どこかで使われる「可愛い」という言葉は「ヤリたい」かもしれません。文脈や 言葉を使う人間に依りますもんね。

でもなんか、性的なことに関しては ぐにゃぐにゃじゃないですか? なんかとても面倒くさいですよね。

 

誰かが誰かに欲望を持っているということがまるで恥であるかのようになりますね。

もし その欲望がきちんと持ち主によって秘められていた場合、それが暴かれてしまうと もうその人のプライドというのはズタボロですし。

 

そもそも 欲望というのは一方的であればあるほど気持ち悪いものになります、もちろん、向けられる側から。欲望の対象者から。

だからこそ 私は おっぱいの謎に強調されたアニメキャラを気持ち悪いなあと思うわけですし。

ん?なんで、ちょっと待てよ。

 

グラビアアイドルの 大きな胸の強調された服や 水着姿というのを私は 気分悪いなあと思って見ません。

しかし アニメキャラはキモいなあと思います。

これはオタクに対する差別感情からなのでしょうか?

うーん……グラビアアイドルは お金を稼ぐため、ある業界でのし上がっていくために肌を晒していますよね。そこには意思があるわけですね。水着姿になればなんらかのお仕事に繋がる、知名度があがる、などのメリットがあります。

それは たぶん 女のアイドルだけではなくて、男のアイドルも 知名度を上げたり ファンに対するサービスのために 裸同然の姿でメディアに出ますよね。

でもなー、べつにそれを「強制されていない」とは断ずることはできませんね。

嫌々やる人も当然ながらいるでしょう。「脱がないんだったら売れませんよ」と言われて仕方なく脱ぐ人もいるんでしょう……。

 

あー、だから性的なものは秘められていないといけないのかあ?

 

私は 性的なものは単純に面白いと思います。

おならや 下品な言葉を面白がることと根本は一緒なのかもしれません。

だからこそ 秘宝館 好きですし(淡路島の秘宝館で 大木から削り取られた巨大な 例のぶつの彫刻作品に跨ったのは傑作でした)。

性が 軽い冗談として語られる空間が好きですし。

なんかでも 性的なものを面白いと感じない人の前でそういう話をしたらあかんってことか。

誰にでもタブーはありますもんね。

 

性的なことは 秘宝館が各地に作られた時代には いちばん普遍的な話題だったのでしょう。

でも、今は違うのか。というか 私は 昭和に生きたことがないので、本来なら 「違う」側の今の人間として話をしないといけないんでしょうね。

 

でも 恋愛や 性の話をタブーにして欲しくないなあ、世の中に。

いつでも どんな人かを知るためのきっかけとして 私は使ってきましたし。

恋愛や性的なことごとというのは、人と人が一対一でやるものなので、その人が100%反映されるわけですよね。

だからこそ「自分は人を好きにならない人間なんですよね〜」と言われたときに 一瞬だけ 困ってしまうわけなんですが(断っておきますが私は絶対にそれを否定しません)。

「告白されたつぎの瞬間 その人に対して うえってなっちゃう」という友達もいて、性対象として見られたら嫌って気持ちはわからんくもないけど 女として見られたからといって 人間として見られてないわけじゃないのになあ とも思います。

でもそれって励ましになるんでしょうか?もはや否定になってしまうんでしょうか。

たぶん根本からの理解はできないんやろうな。否定は絶対にしませんけど!

わからんなら触ってはいけないでしょうか。

 

女として見る、という言葉はよく聞きますが 自分が女であることを前提として性格を形成してきた私には それがマイナスの言葉には見えません。

これは不思議なことですね。

自分が女として生まれたことに強烈な疑問を持っている人からしたら最大の侮辱のはずですもんね。

ますます 言葉の不思議を体感しますね。

 

立ち止まると、私はほんとうに理解できないことが多いですね。

性的なことを楽しむスタンスの私からしたら そうでない人たちの気持ちはたぶん一生わからないんでしょう。

でも それによって 相手を傷つけたくはありません。

理解したいと思うのですが そう思うこともたぶん 迷惑で ナイフになり得るのでしょうね……。

 

私は 性的な話をおもろいと思ってしてるんやから許してや〜ガハハ とは言いたくありません。「ええとおもてしてる」を許容させるのは セクハラする人と同じやり方ですもんね。

でもだからといって「あの人かっこいい」と言うことをやめられません。それに性的な意味、後ろ暗いところは まったくないのですから。こちら側からは。

 

ううううう、なんやこれは!!

人に関して口をつぐむべきなんでしょうか。

受け取る側の人となりを知らないうちからあーやこーや言ったらあかんという当たり前の結論ですね、うんうん、みんなにとって当たり前のことですね……。

 

性の話題に関して無頓着な人は 現代では 後進人間ですね。私もそうです、マジョリティということはそれだけで悪なのかもしれませんね。マイノリティを傷つけるのですから。

傷つかないで欲しい、と思っても傷つけてしまいますもんね。

でもなんとなくですが自分は先進人間にはなれない気もします。

後進人間とかは後進国・先進国、のノリで作った造語です。

 

でも自分にはマイノリティの部分(性の話題からはまったく関係なく)もあって、自分がマイノリティであることで その話題を封じてしまうのは なんというか 独裁者的で 恐ろしいことだとも感じるのです。自分がマイノリティ側に立ったときには、マジョリティを悪だとは思いませんし そんなのはおかしいと思います。

私は マイノリティを振りかざせば 自分の周りの人間から 一切の家族の話を 締め出すことができるでしょう。

でもそれって怖いことですね。家族の話題や恋愛ばなしは あんまりにも基礎的すぎますね。

 

自分が マイノリティを振りかざさないからといって 他の人にそれを求めようと思っているわけではないです。

でも振りかざされたら困っちゃうかも。

 

なんというか どうしたらいいでしょう。

人と どうやってリンクしていけばいいでしょう。

けっきょくは、恋話仲間を増やしていけばいいということなんでしょうか。

性的な話はこれからもっと面白さや開けっぴろげさをなくしていくんやろうな。

そのほうが 人を傷つけなくて済みますもんね。

 

4000文字以上書いてけっきょくよくわからないことになりました。

なんてことない色狂いの 人並み以下の思考でした。✌︎

 

 

コミュニケイトしようよ!

 

 

 

カフェでアルバイトをしているフリーターです。

お客さんは いろいろ来ます。

もちろん、お気に入りのお客さんというのがいます。

ほんとうに一瞬のコミュニケーションを通して、わたし達 店員はお客さんの表情を見、アイコンタクトを交わそうとし、素性を想像し、お気に入りを決めます。

奇妙なものです。たかが1分にも満たないやり取りで、お客さんに対してなんかいいな と思ったり きらぁいこの人 と思ったりできちゃうのですから。

 

私としましては、いつもアイスコーヒーのグランデサイズを頼むおっちゃんが好きです。

夏場は アイスクリームも一緒に頼んでいたのですが 秋口からピタリとやめてしまいました。

私がおっちゃんを好きな理由は もっぱら その注文方法にあります。

「アイスコーヒーいっちゃんおっきいのー」

と言うのです。アイスコーヒーのグランデサイズを。

アイスクリームを頼む夏の日々のなかで 今日はアイスクリーム要らんな という日は当然あり、そのときのやり方は

「今日はアイスコーヒーいっちゃんおっきいのだけでーす」

なのです。

低い声で、けっこうきつめの斜視のおっちゃん。強面です。阪神の服を着ています。

決して「アイスコーヒーグランデで」とは言わないのです。

自分の流儀で、横文字を使わないステレオタイプで、でもちゃんと相手に伝わる言い方。

そのどっしり構えた なんというか おっちゃん特有の 歳をある程度重ねた人にだけ宿る 冷静さ。あれには安心できると思うのです。

 

好きな理由のふたつめは、窓際の ある席に座るところ。その席には お店で一揃いしかない 重心低めの椅子・机セットが置かれているのです。

そしてそこが占有されていた場合、すぐそばの、その席が見える椅子にその席に向かって座ります。

なんかお茶目でしょう。

お気に入りの席が窓際というところもお茶目やし、空いてなかったらその席を見られる位置に座るなんて。

だからといって別に お気に入りの席が空いたら移動する ということはしないってところも そのおっちゃんの好きなポイントです。

物事に程よくこだわりを持ち、でも執着しすぎない。

 

他のバイトの人によると、そのおっちゃんは近くの回転寿司屋の人だそうです。

あー、なんか 職人ぽーい。

やっぱり寡黙な雰囲気の男の人というのは安心感があっていいですね。

 

ところでスタバの店員さんというのはどうしてああも 感じいい人と感じ悪い人 両極端しかいないんでしょうね。

感じいい人は めちゃくちゃ感じいいので 私はぜったいに笑顔で接します。

しかし感じ悪い人というのは 「ありがとうございました」すらいいませんね。コンビニ店員や牛丼屋の店員の感じの悪さと違うんですよ。

めちゃくちゃ上から目線なんですよ。

「ミルク入れてください」って頼んだら まったくにこりともせずに「氷いったん捨てます?」とか言ってくるとかね。

言い方もきついんですよ。あと 勝手にわたしの頼むメニュー覚えてカスタマイズも勝手にやっといて「〇〇しときました。いつも美味しいです?」とか聞いてきたりね。

ララランドで ミアが「バリスタやってるの」と言ったとき 「ああ だからそんな上から目線な感じなんか」とセブが返したことが思われます。

上から目線の店員というのは鬱陶しいですね。

 

わたしはそうなってなかったらいいんですけど、なんし日本人の客は目を合わしませんからね。

目があったらめちゃくちゃ特上のスマイルをご提供してるんですが。ってこれがもう上から目線か。

上目遣いで媚びるのだけは上手いので、上から目線と思われてなかったらいいなあ。

 

ほんまに日本人というのは目を合わしませんね。

あと 挨拶も返しませんね。

店員が投げかける挨拶(おはようございます、こんにちはなど)は いらっしゃいませと一緒やとおもてんのかな。

かくいう私はカフェでもスーパーでもちゃんと返します。

だって挨拶ってリプライあってこそのコミュニケーションですもんね。

 

まあ、おきにのおっちゃんも挨拶返さへんけど。

それとこれとはべつ、てきな。

好きな人間は けっこうなにがあっても好きやし、逆もまた然りなのです。

友達になるまえからいけ好かんなって思ってた人は、友達になった後でもいけ好かんし、友達じゃなくなってからも まあ最初からいけ好かんかったしな ってなります。

好きな人は けっこうなにされても好きです。

いつも片思いのつもりで。

 

あ、そういえば芸人さんは目を合わしてくれる人が多いです。笑顔こそ見せなくても。

そゆとこ見るだけで 応援しよーって なりますよね。笑いかけてくれるなら 老若男女どんな客にも芸人にも好感を持てます。

自分が 店員から不当な扱いを受けてると思うなら、自分から笑いかけてみたらなにか変わるかもしれませんね。

 

ま、どーでもいいんですけどね、日常のうち0.01%くらいしか占めない店員とのコミュニケーション(笑)なんて。

 

 

 

アフター

 

 

 

夜中の十二時やそれ以降に 改造されたバイクが唸る。

朝はたまに七時から(たぶんなにかに反している)街頭演説が始まる。

酔っ払った人かなにかが大声をあげるのが聞こえる。

そんな場所に私はいま住んでいる。

 

寂しくて仕方ないときに見下ろすと文明がぎらぎらに輝いて忙しなく地面にへばりついてさわさわと移動して、あちらからこちらそちらからあちらへ びゅんびゅんと、いるのが見えるので紛らわすことができる 代わりに静寂を捨てた。

 

決して交わらず、近づけば視線はいっさい合わさらず、でも近くに人間がいる。

集合住宅ってなんて素敵なんでしょう。

挨拶を投げかけても投げかけられても、彼らはぜったいに私の目を見るという不注意、あるいは失礼を犯したりはしないのだ。

 

本質的な寂しさの 数ミリ外側をなでくりなでくりして痛いの痛いの飛んで行けってしてたらやり過ごせちゃうわけです。

 

きょう、久しぶりに酔っ払ったよ。

元恋人が引っ越し祝いと言って置いて行ったお酒を飲んで。

ひとつ飲み干してほろ酔いになったらもっと酔いたくなってもうひとつ飲み干した。

酔っ払うというのは楽しいね。忘れてたな。二日酔いを恐れるあまりに。

 

生活というのは尊いね。ほんとうに。億年先、滅びた私たちの残りかすを他の生命体が発見したなら楽しいやろうな。

どんだけ 利便性追求しててんって思うかな。

商店的な遺跡ありすぎやろって。

お医者さん多すぎて医療機器のこと医療機器てわからんやろな。

あんまりにも住居跡が多すぎて、どんだけ人多かってん!?て思うやろな。一人暮らしってめちゃくちゃ効率悪いから、ひとつの住居にひとりずつ住んでたケースの多さが発見されたらびびるやろな。

でもまあ集合住宅に関してはすごーって思うかもな。それぞれの個室に飯場があってお風呂があってってどんだけ人類ってコミュニケーション嫌いやってん!?て思うかもな。

そうしてそこには私の孤独の欠片ももう残ってはいない。

私がひとりぼっちで過ごした夜の化石なんて風化して判別できなくなってインターネットの彼方。

 

ぜんぶなくなって 崩れていったあとの乾燥した大地をおもう。

素敵。

呼吸をするたびに鼻の奥が痛みそう。

風の音が頬を打つんだろう。ひょっとしたら砂や埃のせいで裸眼ではいられないかもしれない。

干上がった淀川の底を歩きたい。

ひび割れて二度と車なんて通れない道路を注意深く歩こう。

そんな終わりの向こう側で音楽を聴けたら楽しいやろうなあ。

もう二度と新しい音楽が生まれない世界で最後のうちのひとつを選んで。

寒いんやろうか、暑いんやろうか。

 

静寂ってものはもしかしたらとってもいいものなんかもしれへんな。

うるさい道路を気に入ってるなんて頭がいかれてる状態なんかも。

 

今夜の雲の向こうでは星が降っているらしい。

こわ。

実際には終わってるのに光がめちゃくちゃ遅れてきてそれを今晩私たちが見れるなんて怖すぎる。

でも星は綺麗から好きなんですけど〜。

 

寝なきゃ。

おやすま