お風呂あがりのギャランドゥ

映画と本とお肉をたくさんたべる

きらくなひとり

 

 

 

悲しみというものは理解されて然るべきと思っていたフシがある

こんなに悲しいのだからそれなりの待遇をしてもらいたいと思っていたフシがある

 

まあほぼ 過去形ですらない "思っている"に限りなく近い"思っていた"だが

誰に対して、というわけではなく 世界に対してそう思っていたフシがある

のだけども

 

悲しみは自分だけのものだと 前から口にして(口にしてというのはこの場合文章にしてという意味で)はいたものの、本当に心からはそう思えていなかった 現実に適応できていなかった

 

でもなんとなくほんとにそうやということが最近わかってきた気がするのでこれからは悲しみは自分だけのものだということを 肝に銘じてやっていきたい。

 

悲しいときはひとりぼっちで泣くしかないのだ。

理由のない悲しみや 孤独感による寂しさには となりに人がいるということは プラスに作用するのだろうけど

理由のある悲しみや 本質的な孤独感には 他人は関係がないのだろう。隣に人がいたって 困らせるだけであるし、事情を知っていることと 実際に経験していることはまったく違う。

 

 

 

 

ところでまあ最近わたしソイラテにはまっててスタバにわりと行くのですけど

自分がソイラテなどと、ソイ!などというものにはまるとは思ってもみなかった。だってソイッやで?そんなパリピみたいなもんにはまると思うか?わたしインキャですよ。インキャがソイラテにはまるなんて思ってもみない

でもソイッにはまったんですよね〜。

それで今日、家から出る予定がゼロ(全然珍しいことでもなんでもないねんけども)やったので、これはいかんな〜、なにしろ ワックスが足に落ちて来て バチバチにキレていったぁーーーー!!って叫んだぐらいしか口を開いてないわけで、いかんいかんせめて店員さんとぐらいは、話しとかなな、と思って 近所のスタバに行ったわけですよ。

すっぴんで。でも髪の毛は、ちゃんと、ヘアアイロンあてたから セーフかなと思ってるんですけど、セーフかなと思ってるくせに、すっぴんだったら人と目を合わせられないんですよね。スタバの店員さんなんて 「あっち側」じゃないですか。インキャには わかると思うんやけど、明らかに「こっち側」ではない人間たちやからなおさら、まあきょどりましたね〜。きょどるぐらいやったら、お化粧していけやと思う限りなんですが

まあ 一人で 窓際のソファ席に座って そこは 窓に向かって一人がけソファが置いてある、お一人様にもお二人様にも使っていただける席なんですけど、それでまあブラインドも下がってて、だからわりとゆったりと、座ってるわけなんですけど

気持ちが 緩んできて初めて、カバンを、その、斜めがけのやつなんですけど、外して 徐々に、上着を脱いで、膝にかけて、それでやっとまあ一息ついて ソイラテを口に運んだり ぼーっとしたり ケータイを触ったり 荒野行動(スマホシューティングゲーム)をしたり できるわけなんですよね。

そんで、やっとくつろいだと思ったら 店員さんが すいませーん、って言いながらブラインドあげて、しかもなんでかわたしの前のブラインドだけ、ね、なんで?あれなんでやったんかなあ、帰って欲しかったんかなあ、と思うわけなんですけど、なんであげたんかな。あれ。すいませーん、て言ってたけど、こっちに拒否権はなかったんかな。

まあそのー、窓の外に植木あるとは言え、夜でしょ?いや、夜だったんですよ。夜ってほどの時間ではないけど冬は暗くなるのが早いじゃないですか、ほんで夜ってだって、室内は明るく、室外は暗いわけじゃないですか。そしたら 室内が室外から よく見えるわけじゃないですか。そやのに、なんでわたしの前のブラインドだけあげたんかなあ。別に 見られる!キャー! とか思うわけじゃないけど、なんか 嫌なんですよ、なんか、ね?嫌だ…嫌じゃない?

 

とか言いながらまあ一杯のソイラテトール(ホットで。)で2時間粘ったんですけど。シースルーの窓の前で。

思ったのが、一人って楽やなあ ってことで、多分そうは見えないと思うんですけど、一人って楽やなあって思ったんですよ。

だって 一人でいたら 相手に何も求めなくていいじゃないですか。まずもって相手がいないから。

例えば 誰かと二人でスタバ行って 相手がずっとスマホ触ってたら寂しいし嫌な気分になる。暇やし。手持ち無沙汰なるし。「ずっとスマホ触んのやめてくれへん?」って言える相手であれば、今相手がやりたいことを否定することになるし、否定してまで相手とやりたいことも別にあるわけではなく。言えない相手ならば我慢してまた嫌に退屈な時間を過ごすしかなく。

どっちにしろ 苦痛なわけで。いやそういうあれがない人となら いいですよ、そりゃあ、何ってないこと喋ったりできたならそれが一番いいですけどね。

でもまあ、求めたくないんですよ。求められたくもないし。

求めたくないのは、相手の負担になって嫌われたくないからで、求められたくないのは、相手の期待に自分がそえないからなんですけど。

だからまあ、一人焼肉も いつかできる日がくるのかもしれないなと、思うわけですよ。

おひとりさま、いいじゃないですか。やっと本当の意味でおひとりさまを理解できた気がした日でした。いい日。

あまりの寒さとおまけして小雨に、スタバに向かってチャリ漕ぎながらちょっとニヤケてもうたけど、ニヤケの内訳は「なんで用事もないのにこのクソみたいな天候の中チャリ漕いで一人でスタバいっとんねん」って感じです。でも、それでも、まあ行ってよかったということですね。

別に初めてスタバ一人で行ったわけじゃないですよ!一人で、牛丼屋さんまでは行ったことあるし、カラオケなんて 高校生の時から一人で、行ってるし!!できるし一人でなんでも!!!!!!!!

 

とか言ってるわけですけども

なんやらすごいなあわたしって。イベントがゼロの日やのに 2500文字も文章を書いている。軽いレポートやな。もはやこれ。内容はないようですけど…ん?

ほいでまあ明日はバイトなんですけど、最近暇すぎてもはやバイトですら楽しみです。暇ってすごい。

 

じゃあみなさん、今日一日きっと大いに活動されたでしょうし、なにしろ華金ですからね、インスタとかを大いに更新されたでしょう、おつかれさまです。

おやすみなさあい

 

 

 

毎日がクリスマス

 

 

 

今日 授業で代理出産の話をやったんですけど。

なぁーんか人類って命を弄んでるよなあって思ったな〜

弄んでるし 持て余してるし やっぱりちょっと なんか…

生きていくことって、変に頭良かったら難しいんやなって思います。頭良かったら、というか 応用力があったら?人間にはあって、動物にはない脳ミソのシワ。

そゆの、無い方が幸せに生きられるよね。

受け入れることしか する必要はないと思う。個体としての個性、性別や障害や性格や特性やら。

 

そう、冬がね。いよいよといいますか とうとうといいますか きましたね。

外に出るときの もういや! ってなるくらいの寒さ。これを求めてた。求めてたくせに外出るの嫌になってるのはこれどういうことやと聞きたいところですが

冬は研ぎ澄まされる。頭が冴えるから、記憶が蘇りやすい。いろんなことを思い出す(思い出してしまう)。

空気が鋭くて、それが肌を刺すから、女の子は肌の白さが増して可愛くなる。頰がしもやけで赤くなって可愛くなる。

クリスマスの歌は 嫌でも足取りを軽くさせるけれどあれは一種の、というか紛れも無い、洗脳だ。

パブロフの犬だ。we wish a merry christmasと聞こえればなにかを考える前に同調し口ずさんで足はスキップする。それによって強制的に楽しい気分になり こんなに楽しいなら何か服でも買おうかなという気持ちにさせられる。そういえばクリスマスの置物とかも見に行こかなと思わされ、行けばまた新手のクリスマスソングが延々と流されているためさらに楽しくさせられる。そして結果的に 赤色と緑色の置物や、白いニットや黒いブーツなどを買ってしまうのだ。

これは陰謀だ。全ての企業の、国を巻き込んだ陰謀だ。国は巻き込まれてないか。

だから正気の人間は 街に繰り出さないようにする。家にこもるべきなのである。しかしそれにも対策は既に練られている。私たちには逃げ場はなく、企業に死角はないのである。女はキラキラしたものが好きなのだ。キラキラしたものは冬のツンとした空気に良く合う。余計にキラキラが綺麗に見えるのである。それを見に行くために女たちは都会に繰り出す。さながら誘蛾灯である。バチンッと殺されはしないながらも十分に搾取される。

 

 

 

 

まあ。

クリスマスは好きなんですけど。普通に。

大学とかキラキラしてるし。夜になると。

いいじゃないですか、ねえ?キラキラしてることはキラキラしてないことよりいいでしょ?たぶん。

それでいうとまあ、周りの大学生たちが体に電飾ぐるぐる巻き、競うようにキラキラしているというのに わたしは下を向いて常にスイッチオフなわけなんですが。

キラキラ、したくねえなあ。したくねえからしてねえわけだが 望むと望まざるとにかかわらず、光っているものは眩しいのである。

光らないと見つけてもらえないなら見つけてもらえなくて結構。元来誰の目にもつくように光るつもりもない。

 

とかいって尖ってるふり。キラキラする勇気も燃料も、ないだけだぜ。

逆に負のオーラ放つ。ブラックホールはみんなを吸い込めるからいいよな。ホワイトホールは全部吐き出せるからいいよな。

存在するだけで肯定をされたいというのは常日頃わたしが言っていることではありますが

そんなこと。あるはずもなく。

 

誰かにとってプラスでないと 存在は肯定してもらえないのです。

イルミネーションのキラキラは、誰かが綺麗だと思ってくれるからこそ 毎年毎年設置されるんでしょ。キラキラしてるだけで 有り難がられるわけではないし。キラキラすることでなんらかのメリットがないとだめでしょ。

 

でもわたしたちのプラスって別に お金でもコネクションでもなくて ただ一緒にいて楽しいと思ってもらえれば肯定される

けど楽しくなければデリートされるし楽しい人間じゃないとね。

ご機嫌な人でないといけない だって いくらほんとは楽しくない人間、不機嫌な人間であったとしても そんな人とは誰も一緒にいたくないもんね。

ありのままを誰かに受け入れてもらう、なんて、根っこのドスぐらい人間には絶対に無理だから絶対に望んではいけないことだ。

ご機嫌な人でいなくてはいけないのですよ。

 

っていうのはこれ自分に言ってるわけなんですけども

ご機嫌な人でいられないなら その期間は誰かと一緒にいてはいけないよね。

 

わたしね 黄色という色は全然好きじゃないけどイチョウの黄色は好きなんだ〜

秋の空の青とイチョウの黄色はほんとに組み合わせとしてこの上ないほどグッドだ!

あれは自然界の色の美しさを痛感するよな〜。

世界遺産では、ワールドヘリテージでは、自然遺産より圧倒的に人工物の方が好き。

 

好きなことをやってたいと思うけど好きなことが特にないから 四肢を投げ出して肉体を放り出してふかふかのふわふわの何かの上で陽光を浴びたい。春。七分袖と七分丈で。

 

 

 

おやすみなさあい

 

 

 

えむわんかんそうだらだらかいたよ

 

 

 

 

 

M-1おもしろかったなあ。

1回目のジャルジャルが わたし的に 『M-1グランプリ2017』という番組のなかで 折れ線グラフの頂点やと思いました。

やりきったジャルジャル。悔しくて髪の毛くしゃくしゃの福徳くん、喋れへん福徳くんをフォローするかのごとくボケる後藤。

ネタ自体も 一番爆笑したし。もともとジャルジャルが好きなのは そうなんやけど。

松っちゃん、別に好きじゃないねんけど ツボがわりと同じやから ジャルジャルに95点つけててやっぱ松っちゃんわかってるわ となったし 巨人が「アホにはわからんネタですね」って言ってたし、実質優勝ちゃうん?

 

でも 敗者復活戦みたら 三四郎天竺鼠が面白すぎて 決勝出てたら優勝してたやろと思いましたけどね。

マヂカルラブリーの枠さあ、、、スーマラに回してたらよかったやんって思ってさあ

みんな 漫才に王道を求めるくせに 邪道で、かつ、単純に面白いと感じる人の少ない マヂカルラブリーがなんで決勝行ったのか謎やわあ〜

挨拶だけは好きやけど。「野田です。のーだーです、野田です。」

 

個人的には 敗者復活のメンツだけみたら 絶対霜降り明星がくるやろうなあと信じて疑わなかったんですけど

今日 実際見てみたら 全然おもんなかったどころか、前に見たことあるわりと有名なネタを改悪してやってて なんか間も悪くて 緊張してたんかなあってなりました、残念やったなあ〜でもまだ芸歴浅いからまだまだ出るよね〜

 

とかなんとか 感想を述べてるわけなんですけど

お笑いなんて それこそ 好き嫌いやし より多くの人に好かれる人が 優勝するんかなあと思うわけで

とすると 松っちゃんみたいに好みのはっきりしてる人や 大吉と礼二みたいに現役で漫才やってて 漫才とはこうや!みたいなものを持ってる人が審査員したら いかんのでは?と思うな。

 

まあ、たかがテレビ番組に いろいろ言うなって話なんですけどもね

 

それにしても優勝 とろサーモンて おめでたいけども ぜったい和牛でしたよね。

だって 和牛も 俺らやん!って 思ってたもんぜったいあれ。ネタやった直後から絶対思ってたわ。

優勝者決まった時の水田くんの顔ったらない。あんなん見てられへんわあって思いました。

とろサーモン面白いけど 一本目の方が面白かったし、なんか、2回目のん、「優勝したネタ!」って感じじゃなくなあい?ってこれもわたしという好みの偏りまくった一個人の感想でしかないんですけども

 

個人的に優勝はジャルジャル、優勝すべきだったのは和牛、敗者復活を勝ったのが天竺鼠三四郎やったらもっと波乱の大会になったやろ!! などと思いました。

 

 

 

最終的に、お笑いも 歌も 1つの基準に当てはまるべきではない、自由で解放されたところでみんなが楽しむべきもの やと思いますねえ

でもお笑い賞レースは楽しいから すっき!

人を笑わせられるのってすごいし。M-1面白かったあ〜〜

 

 

おやすみなさあい

 

 

反省だ…。

 

 

わたしってもうめちゃめちゃに都合のいい思考回路をしてましてさあ

このブログ 万人受けする内容ではまったくないから、そんなに周りの人に見られてると思ってなかったんやよな〜

文章って なによりも 書く人の中身が見えてまうものやと 思うんですけども だから どこまでをかいていいのか どこからがかいたらあかんのか 全然わかってなかったんですよね〜

とかいろいろ なんか 言い訳してますけど、、、この、ネットに対して全部を晒しといて みんといてみんといてほっといてーーー!!って言ってる状態なんですよ…この、今の心情。

読者が干渉してくるとは思ってなかった!というか、、、

 

このブログ、自分が思ってることを 整理するためにあって、アウトプットの手段なのです、わたしにとって。

言葉で誰かに聞いてもらえるわけない話を ぶちまける場で、人に喋ってるときに 言ってから あ、こう思ってたんや自分!って思うこと 多分みんなあると思うんやけど それが わたしには このブログでさあ、、つまり、これは日記ではなくて、誰かに聞いてほしい話で、わたしは自己顕示欲がものすごいので 誰かに聞いてもらえへんかったら、独り言じゃあほんとのことを呟かれへん人間で、でもその誰かは限定できなくて、だからこのブログに書くと…

そんで書いてるうちに あ、自分こう思ってたんや!と知ることは多々あって、そんくらい深いところを晒してるわけなんやけど、やっぱりあんまり見えすぎる位置に置いてはいけんかったな。

というか、見える位置に置くならば、たとえ自分に一番近い人のことであったとしても、自分を語る上でその人が必要不可欠やとしても、自分以外の人のことについて書くべきではなかったんですね。

いやあ、彼には申し訳ないことをしました、、、

晒してる以上 みんといてほっといてー! は、見当違いなので、わたし、気をつけます。これから。

誰かに文句言われたとか注意されたとかやないんやけど。

反省だ〜

 

 

そういえば最近長編小説をかこうと頑張ってるんやけどめちゃくちゃ難しくて心折れそう。

全然進まへん。

誰かに聞いてほしいがために書くことと、誰かを楽しませるために書くこととは、まったく違うということを 当たり前のことやねんけど、改めて感じる日々。

 

大学生になると標準装備として麻雀ができるようになると思っていた。

できないままもう三回生。

窮屈だ、、、

 

 

 

 

おやすみなさあい

 

 

かるとてきな

 

 

 

ゼミで、幼児誘拐の映画をみました。まだ前半だけ。幼児誘拐は中国の社会問題らしい、人権もクソもあったもんじゃないな。

前半しかみてないのに ぼろっぼろに泣いた。だって、友達が言ってて そうだなあと思ったんだけれど、「中国の社会問題である幼児誘拐」という文字やニュースでは絶対に伝わらない圧倒的なリアルが(映画は虚構であるにもかかわらず)そこにはあった。

悲しみ、やるせなさ、どうしてうちの子なのっていう虚無感、全部、痛いほどわかる。

そして、わたしが特に注目し、興味深く思ったのは、「子どもを誘拐された親達の会合」の存在だ。勇気付け合うのももちろん、お酒を飲んで楽しく過ごすのも、笑うのも泣くのも、日常生活では最早できなくなってしまったことすべて、その集団の中でならできる。逆に、その集団の中でしかできない。圧倒的な悲しみを受けた人は、同じ立場の人でしか自分を理解し得ないと思うからだ。他の人のことは、いくら優しくしてくれたって、突っぱねる、お前に理解できるわけがない!

これも本当にわかる、というかわたしにおいては共有できる人がいないし、多分できる場も探せばある(近親者を亡くした私たちの会…とか?笑)のだろうけど、決して参加しようとは思わない。共有したから何になるの?わたしが今回みた映画で一番 おえっ と思ったのは、誘拐された親達の会合のリーダーが「さあ、〇〇さんを応援しましょう、フレ!フレ!」だとか「さあ、手を繋いで悲しみを分かち合いましょう」だとか言って教祖じみた指揮をとっていたシーンだ。おえ。なんやそれ。きもちわる、でもその嫌悪の根底にあるものがなんなのかはわからない。

とにかく共有することなんて意味ないとわたしは思っている。したら楽なのだろうなとも。でも、やっぱり共有するとしても、相手はおんなじ 家族を亡くした人でしかあり得ない。同じ悲しみを受けた人。同じ気苦労を受けた人。

そこまで行かなくたって、上手くいっている家庭で育っていないわたしは、祖父祖母父母兄弟、みんな仲良し!という、上手くいっている家庭で育った人とは やっぱり違うなあ、と思う。そして、それは多分わたしだけではなくて、上手くいっていない家庭で育った人は、ほとんどそうだと思う。常にある負い目。それは好き嫌いや合う合わないではなくて、圧倒的に違うな、という、時に重大で時に些細なステイタスだ。

 

さて。世の中には「悲しい思いをした人ほど優しくなれる」という言葉がある。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」だとか、マイナスな経験を美化する言葉がごまんとある。

…??? である。

そんなわけないやろう。こういうことを言う人はきっと、本当に悲しい思いをしたことがないのだろうな。

悲しい思いをした人間は 苦しい思いをした人間は 相手にも同じ悲しみの 苦しみの 経験を求める。

小学二年生の頃 夜10時からのドラマを見せてもらえなかったわたしは、妹がその歳になったとき自分と一緒に夜10時からのドラマを見るのを許せないのである。

…それはまた違うか。

 

まあでもあれやんね やっぱり 子どもを誘拐された親達の会合が宗教じみてたのは、その集団が排他的で 狂気的だったからなのかなと思う。悲しみに耐えるために なんとかかんとかしのぐために 狂気的になるのは 当たり前の反応といえる。排他的になるのも、やっぱり仕方ないことやし。

他の人からみて 宗教じみてるかどうか、ましてやほんまに宗教にはまって 胡散臭く見えたりするかどうか、なんて関係ないもんね。なりふりかまってられへんし、、、

そういうのは ちょっとなあ、と思うか思わないか、どこで持ち直すか持ち直さないまま死ぬのか、それぞれの自由やしなあ

悲しみとか苦しみはそれを受けてない人とは共有不可能、でも同じ集団で普通に過ごしてるし。共有させようと強制したり わからんでしょ!って八つ当たりしたりするのは 見当違いやからしてはいけないし、、

じゃあ人々の負の感情はどこに行くんやろうなあ、、、

 

とにかくゼミでみる映画は全部きっつい!しんどいやつばっかり!それほど感動させられる映画ばかりやし、それを選ばはる先生がすごいんやけどさ!

ああ来週もキツイなあ、、、

おつかれさまあ

 

 

 

 

言葉

 

 

 

「僕らはいつも以心伝心♪」

「言葉などなくたって分かり合えるから♪」

 

などなど、「言葉で伝え合う必要のない絆が二人の間にはある」ことを讃える歌ってたくさんありますよね。

しかも、みんな それに憧れもする。だって魅力的、いちいち思ってることを言語化せんでも伝わるなら、そりゃあその方が効率的に決まってる!

 

でもさ、以心伝心なんて必要ですか?

言葉で伝え合うことを省くのってほんとに大事なんかなあ。

 

スポーツ⚽️🎾や 喧嘩🤜🤛には必要やと思う。どっちもまともにやったことないけど。

ダブルスで 味方の考えを読んで ボールを打ち返す!とか、喧嘩?闘争?で、味方に背中を預けてたたかうときとか(わたしは最近キングダムにはまっている)。

 

でも、通常時の人と人との二人の関係をつくっていくときに、言葉にしなくていいことなんてない。と思う。

"嫌い"は 言葉にしなくても伝わるけど、"好き"は伝わらない。感じ取ることができたとしても、大人になればなるほど人は臆病になるから、相手から染み出すプラスの気持ちなんて簡単に信じられない。

考え方だって 一人一人ほんまに違うんですよ。びっくりするほど違う。え、ここからこう思うの!?ってことは その人ときっと何年一緒にいてもたくさん出てくるやろうと思うわけで。

AということからBという印象を持つ人がいれば、Mという結果を導きだす人もいるしSという結論に至る人もいる。それらは、いくら一緒にいても完全には理解し合えないところにあるし、いくら近くにいても考えを擦り合わせていっても、言葉無しで伝わるわけがないじゃないですか。

人と人とが考えを場に出して理解し合うことまでに、効率化を持ち出したら終わりやと思うんですよ。

一緒にずっといたら、そりゃあパターンは見えてくるでしょう。でも、そのパターンは 冷静なときには見えてるけど、感情的になったら 自分とは違う思考回路で導き出されてるわけやから、想像できなくなるときだってあるじゃないですか。

違う人間っていうのはそういうことでしょ?そこが同じやったらたぶん、多くの人が言うように、面白くないんでしょう。

だから、自分の持ってるパターンとか 考え方とかを 根気よく言葉で伝えて、いついかなるときもそうであることをわかってもらわなきゃだめで、その過程は絶対に効率化できなくて、その上何十年という時間がかかると思うんですよね。

だって 人格の形成期である 最初の十年二十年を一緒に過ごしてない人間って未知やし。その遅れっていうのは、何十年も一緒に過ごさないと取り戻せないと思うんですよ。

で、その何十年だって ただ一緒にいるんじゃなく、ちゃんと言葉を尽くさないとだめやと

また、自分のことを理解してもらうっていうのはたぶん、それほど大変で、誰かと誰かが二人でずっといるっていうことには、でも不可欠なことやと思うんです。

 

じゃあ伝える手段ていうのは、言葉しかなくて、ってことは、言葉をきちんと使わなくてはならないですよね。

その努力を 面倒臭い、と感じるようなら その相手とはそこまでのことなんですよ。

考えてることを 上手く言語化できないなら、言語化できるまで待ってもらうなり それに似たたくさんの言葉を尽くして考えてることを遠回しにでも伝える努力をすべきだ。

そして、いくら正しいことを言っていても 話し方が高圧的やったり 感じの悪い感じやったら 相手には聞いてもらえないから、真摯に誠実に、清潔な心で 話すべきだ。

 

わたしにおいて、言葉は唯一絶対なので そう思いますけども

でも 言葉に頼りすぎてる部分ももしかしたらあるのかもしれない。

なにせ文学部に入るくらい 文章というものを愛しているので 人と人とが関わるときには絶対に言葉が正しくあるべきだと思う。

「べきだ」なんて他人に強要すべきではないんですけどね。

でもじゃあ言葉以外にどうやって伝えましょう。言葉を尽くしても人を安心させて信用させきってしまうのは難しいのに。

心は目に見えなくて何を考えてるのかわからなくて不安になるのは当たり前で、それをなんとか伝えようとするには言葉に頼らざるを得ないでしょ?

もし、それ以外に方法があるなら誰か教えてください。

でもそれを教えてくれるのも言葉でしょ、、、

うーん🤔

やっぱり、人間の文化自体が言葉に頼りきりすぎているのかな。

でも 言葉の裏に潜む意味や、本当の気持ちやが主役ですよね。それありき。

感覚だけで何かをやりとりし合う時代がくるのは、絶対に嫌だ。短くて意味のない言葉や、見た目ですぐわかる絵文字の氾濫。おえ。

 

 

おやすみなさあい

 

 

 

トマトのパスタのスパゲッティ

 

 

 

わたしの男の人における好きなタイプってのは

鼻が超高い 背が高い (無精)ヒゲが似合う 野球人体型 髪が短い ちょいぽちゃ

なんですけど そういう男の人って大抵 ちいちゃくて髪の毛の長い 細っこくて守りたくなる可愛らしい女の子…悪く言うとふっっっっっつーーーーの、女の子が好きなんですよね。知ってるんですわたしは。

で、ですよ わたしは身長が165cmもあるだけでなく 太っており、髪の毛は短く色も青やら緑やら金色やら ころころ変わると。

真反対なんですよね〜〜〜、、、なりたくてもなれないのです野球人体型に愛される女の子に。

今の自分を嫌いではないし、特にブスとも思わないどころか冬においては自分は比較的可愛くなるよな〜という高い自己評価を下しているわけではあるのですが やっぱり常に あるんですよ。

ふっっっっっつーーーーの、女の子に対する劣等感。

くるくるの茶髪を揺らし 甘いものを食べても太らず ふわふわしたスカートの似合う女の子。ふとした圧倒的な悲しみで精神を乱してしまわない、綺麗な心の女の子。店員さんを呼んでも気づいてもらえないようなか細い声の女の子。

なりたい、一回でいいから。コスプレ〜♪とか言ってロリータ趣味な服を着られる女の子になりたい。なりたい。なれない。

男の人より店員さん呼ぶの上手い。大抵一発で気づいてもらえる。

 

でもどうだろうか ふっっっっっつーーーーの女の子はもしかしたら わたしみたいな邪道女子になりたいと思うことがあるのかもしれない。

髪の毛を短くして金色に染めたいと思う時があるかも。パーカーをがばっと被って学校に行けたらなと思うかもしれない。店員さんを一発で呼べてしまいたいかもしれない。

それでも やっぱり野球人体型男性に愛されるのなら そんな不自由は切実だとは思えないな。わたしはね。野球人体型男性が好きだから。もしかして 変わり種女子好き男性に 普通女子が惚れてしまえば わたしみたいなもんに劣等感を抱くかもしれない。その思いは切実やろうな。

 

まあね。わたしみたいなんは 男の人にちやほやされにくいから やっぱり普通女子が羨ましいわな〜。

それでもわたしをわたしのままに 好きでいてくれる人だっていないとも言えない。通じ合ってしまえば 野球人体型だろうが サッカー人体型だろうが アメフト人体型だろうが 騎手体型だろうが 好きになれる。逆に 野球人体型であっても受け入れてもらえないなら 一緒にはいられないし。

人と人って上手くいかないもんだな。

 

でも そんなタイプとかなんとかを吹っ飛ばして人間的に好きなのが森山くんだ。関係の名前は変われど その気持ちは絶対に変わらないと言える。恋人というラベルを剥がしても好きでいられる。剥がしたからこそ限りなく一緒にいたいと思えるの、かも。

森山くんは日本人体型だ。身長もわたしと変わらない。脚の長さにおいてはわたしの方が何故か長い。でも野球は好きだから野球人なのかな。

 

みんなはどう?みんなのタイプを教えてよ

おやすみなさあい