腐りかけの果物を美味しいと感じる味覚

 

 

 

自ら死を選ぶに足る確信というのはたぶんあるような気がする。

それはなんとなく 「もう生きててもしゃあない」とか、「死んだ方がマシ」とかいうマイナスな感情ではなんとなくない場合があるように思う。

「死ぬしかない」という確信。

ときどき、「これしかない」と思うときというのはある。

ショッピングの場面で、文章を紡いでいるとき、「このワンピースを手に入れなければ」「これはこの言葉でしか表せ得ない事柄だ」などという確信に出会う。

それと同じようなものの気がする。

「死ぬしかない」、それは、ワンピースを買うときに人に褒められる場面を想像していないのと、この言葉のチョイス最高と言われるために文章を書いていないのと同じように、結果について想像の余地はなく、ただ「これしかない」という決断。

もちろん閉塞感に、世間に、将来に、家庭に、押し潰されそうな心を抱えて、しんどい結果の自死かもしれない。

でも それらに押し潰されそうでも踏ん張る心の強さの無根拠さと同じように 自死へ向かう気持ちにも根拠はなさそう。

死ぬ理由がないことは 生きる理由がないということと大して変わらない質量ではないか、生きるための気力とか そういう基本的な物事が欠けたときに容易く人は死ねるのではないか。べつに責められるようなアレもなく。

 

自殺をする人としない人との違いはなにか。

それはもちろん自殺を本当にしたかしないかだろう。

でも思うのやけど、その二つを違うものとしている、生と死をわけている塀は常に高さを上下していて たとえば南大門の敷居くらいまでその塀が下がってきたとき、ひょいと飛ぶ理由、ちょっとの理由がもしあれば、人は死ぬのではないか?

 

殺人よりも自殺のほうが いくぶん私には親しいもののように思える。

リヴァーフェニックスが死んだのは23歳、いまの私と同い年のときだ。オーバードーズで死んだ。

私は?

じゃあ カナダでコーヒーを飲み過ぎて身体を壊したときに カフェイン中毒

たびたび飲み過ぎるお酒のせいで 急性アルコール中毒になって

死ななかった理由がないのだ。

そして自分、23歳の自分は、死ぬことを決断しても いいように思う。

"若過ぎる死"なんて表現はちゃんちゃらおかしい。

23歳でも 死ぬことを選ぶことはできる。

死を選ぶ根拠は、じゅうぶんある。

 

自暴自棄とも言えるだろう。

べつに 私と、ちっぽけな、世間において無価値の・私と、リヴァーフェニックスをおんなじ土俵にあげるわけじゃないけど、彼が死んだその理由と似たような理由で今まで何度も私は死んでいたかもしれない。

そう思うと 自分が生きていることと死んでいることの境が曖昧にぼやけてくる。

私は死に得た。今までに。

 

病気や事故による悲劇的な死と それは違う。

自死や 何らかの中毒は ぜんぜん違う。

自ら死に向かうこと。

死ぬしかないという瞬間、敷居がぐわっと下がってきて ほんのワンステップで向こう側へ行けてしまう瞬間、それって恐ろしいものだろうか?

確かな形の解決策は もはや舌に甘い。

 

不安や期待、裏切りや幸福は 死の原因になるだろうが

それとは違う場所にあるスイッチで すべてが噛み合い動き出す。

天国とか地獄とか 思考の外だ。

家族とか恋人とか友達とかそれらが一堂に会するお葬式とか

まったく関係ない。

関係ないのだ。

 

 

ポケットに文庫本

 

 

小説なんてものはゲームやYouTubeとおんなじ娯楽だ。

たちが悪いのは、話題の共有が難しいこと。

「あのゲームどこまで進んだ?」「あのユーチューバーの新しい動画みた?」、他の媒体には通用する楽しい仲間とのお喋りは、小説には発生しにくい。

読書というのはいろんな意味で閉鎖的な趣味だ。小説を読んでる途中の人に、人は話しかけづらい。

いいことと言ったら 他の娯楽より推敲がちゃんとされてて、正しい二字熟語を学べること?

とはいえ実用書みたいにすぐに生活の役に立つ即効性もないし 自己啓発本みたいに自分に自信を持たせてくれるものでもない。

 

でも私には、大事なことや救いは、すべて小説が与えてくれた。

 

「活字が好きなんやね」「ロマンチストなんやね」

そうじゃない、もっと実際的に 私には小説が必要だから読んでるんだ。

 

タイトルではっきり示されたことを順序立てて論理的に教えてくれる、バラエティ豊かな実用書と比べて、小説にはいつも同じことが書いてあるかもしれない。

いつも真実の愛とか家族愛とか孤独とか絶望とか、要約すれば一言で終わるようなことを長々と書いてあるかもしれない。

私が読む小説の、どれをとってもメインテーマは等しく同じかもしれない。

でも、私は言い換えを必要とする。

本質、メインテーマ、の周りを何度もぐるぐるぐるぐるぐるぐる回ってやっと見えてくる本当のことがある。書き手が伝えたい、真実の事柄がある。この世の真理がある。簡潔に一文で表されたって到底信じられない、疑い深い人間なのかもしれない、私は。

信用できる文章を書く人の訴えることはほんとうだと思う。

だから私はそれを指標に生きている。

 

VRの装置をつけなくても他人の人生を追体験できるのは、文章を読む力が自分にあるからだろう。

小説のなかで描写された夏を、暖房のなかで思い起こせるのは自分が小さい頃から夏をきちんと味わっているからだろう。

花々の美しさを、花の名前をなぞるだけで頭に咲かすことができるのは、自分がそれらを教わってきたからだろう。

 

算数が数学が英語が、

もし育っていく過程で要らなくなっても学ぶ必要がある科目なら、

国語もぜったいにそうでしょう。

 

私にとってチイちゃんのかげおくりが、くじらぐもが、森の音屋さんが、あたたかいスープが(ぜんぶ国語の教科書に載ってた小説!)大人になっても深く心に残り、そらで内容を言えるほどどこかで大切であるのと同じように誰かにとってもそうなのだ。

そしてそうであることでなんらかの人生のきっかけを掴み、生きてこられた人は、いる。

普通の人間代表のような私がそうなのだから、たくさんそんな人間はいる。

 

映画や小説を必要としない人間がいる。

強い人たちだと思う。

怖い人たちだとも思う。

だって 創作物を必要とする弱い私を容易く無自覚に傷つけてきそうだからだ。

臆病なのだと思う。自分だけが没入できる決してオープンワールドじゃない限られた無限の、親切にすべてが言い換えられた、わかりづらいのにわかりやすい、世界が必要なのだ。ときには逃げこむために。

 

そしてそんな世界が、悩める小さな子どもに必要ないとどうして言えよう?

家庭に圧迫される中学生に、進路に悩む高校生に?

 

想像力不要の、偏った、母国語さえ正しく使えない人が発信するツールで満足出来る人は、どこででもやっていけるんやろうな。

ボディーランゲージだけ使って世界一周もできるし、世界中に友達も作れると思う。

羨ましい。と同時にそうはなれない自分が好き、小説好きの読書人間なんてこんな捻くれた自己愛をぐちょぐちょにして心に持ってるからたち悪いのですわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

追記

 

まあ

絵画展で「表現するって、いいよね〜」とか言ってた髪色奇抜な大学生風の女二人組

Twitter(200何文字?)の感動ショートショート(笑)書いてるやつ

「ユーチューバーが耕したYouTubeという土壌を芸人は土足で踏み荒らしてる!」って喚いてるYouTubeファン(?)

ぜんいん、ムカつくんじゃ、腐った脳味噌耳から垂れ流して暑さのなか溶けたコンクリートの一部になってしまえ✌︎✌︎✌︎

 

 

夜景となにが違おう

 

 

胸が苦しいのは、すべての思い出がいま、輝いて見えるから。

その光は目の奥を焙り、大切な部分を鋭く焼き切る。

共に過ごした時間を思い起こすとき、そこには些細な気まずさがあっただろうにも関わらず、そんなものはとうに見えないほど小さくなって角が取れてシーグラスのようだ。それすらも愛らしいパステルカラーで愛おしいみたいだ。

 

世界になんの不安も存在しないような写真のなかの私の自信たっぷりな演技をした表情が、もはや羨ましいのだ。

他人の写真と違ってそれらは確かに正しい楽しさに基づいていて、バックグラウンドまでまるっとわかってしまっている。

海も緑も家族も友達も、カレーもお肉もビールもなにもかも もう二度と得られないほど素晴らしいものなのだ。

見せかけではなく、唯一無二の。

あのときの素晴らしい、とるにたらない会話。

あのときの素晴らしい、笑顔の応酬。

あのときの素晴らしい、記号みたいなやり取りの連続。

あのときの素晴らしい、欲望は腹の底から湧き出てきて。

 

もう二度と訪れない。わたしには訪れない。

先に進むしかない。

自分には未来しかないということが心細くて怒りそうなほど寂しい。

 

どんなふうにも笑えたのだ。

たいていの場合、ありのままに。

それを受け入れてもらって、ずぶずぶに甘やかされてしまった自分ばかり写真におさまっている。

なんてことない、愛されていたのだ。

 

 

 

I have dreams only in the past. Just living my life isn't worth enough for me. I don't give a shit if someone says "oh today is the day which someone wanted to live" or something like that.  Shut the fuck up and just live your life. My shiny little ones are only for me and couldn't be shared.

なんつって

日本語でも英語でもくそばっか言うとる

 

 

 

 

夜のキラキラ

 

 

 

「夜」に隠れればなんでもできるのが日本やと思う。

どんなカオスも お天道様が沈めば許される。

 

さいきん、ちょっとのあいだ上本町に住んでたん。

常日頃から アンチ奈良、とゆーんでもないけど 奈良出身と言うのが嫌いでできれば大阪出身ですと胸を張って言いたかったので とっても楽しかった。

やっぱり 田舎のコミュニティには属せなかった私には 都会のほうが嬉しいなって再確認したほどだった。

上本町は よいとこだ。

戦後は いわゆる"トルコ風呂"がたくさんあったアングラ的な土地やったらしいけど、いまはとくになんにもない。

なんにもない代わりに とにかくアクセスがよい。

ミナミにほど近く ちょっと歩けば空堀商店街があり 松屋町(まっちゃまち って打っても出てけーへんねや!)にぶち当たったり 坂を下れば鶴橋、チャリンコ借りたら梅田にすぐ。

なにをするにもいいとこやんな と思う。

とくに、外出自粛期間中、公共交通機関を使わんでもいろいろお散歩に行けたのがむっちゃよかった。

 

出鱈目に歩けば道頓堀。

道頓堀のお堀のとこじゃなくて、地名の道頓堀のとこ、たぶんソエモンチョウ(←なぜか変換できない)に近いところやと思うねんけど

私にはあそこらへんが世界でいちばん怖い。

何回歩いても怖い。幽霊とかの怖さじゃない。

「唐突に日常が終わる」感じがとってもとても怖い!

言うなれば崖。

その理由は、韓国語のみ、中国語のみで宣伝文句が書かれたお店ばっかりが突然現れるから。

日本人用じゃないことがありありとわかる。お店のかたちも日本式のそれじゃないし。

感じるのは、「自分が知ってる大阪じゃない!」ってこと。

得体の知れないものを売ってる店々に人影はなくて、そういう外見自体が、「ふつうに店先に訪れても客にはなれないんやろうな」って印象を私に抱かせ、客になるための別ルートが用意されていることも怖い!

人通りも多くないし 私がふっとおらんくなって臓器売られても誰も気付かへんねやろなとか思ってビビっちゃう。

刺青の人も多い、私は刺青やタトゥー自体にビビるんじゃなくて 追加要素にビビっちゃう。

「金髪で刺青」までやったらまったくいいねんけどそこに「締まりのない顔、だらしない表情」が加わるとまじで怖くなっちゃう。

そゆひとが散見できんのも怖い。

 

"本格"中華料理のお店も 夜になれば本格的に動き出すんやろう、とか ちょっと歩いてぶちあたる、昼間にはただ汚い街並みとしか形容できないような風俗・ホスト・キャバクラ街も夜になれば吸い込んだエナジーをギラギラに発散させて輝くんやろうとか

 

思うときに思い出すのは 千と千尋の神隠しやなあ

夜になったしゅんかんに 街に光が灯って神様や幽霊?たちがそこここから現れ 遊び倒す、あの街は。

なんら特別じゃなくて、ふつうのどんな街にもあるやつやん。

 

日本古来の妖怪は 夜の活気に当てられて 欲望を解放する人間の姿なんかなあとか。

 

都会はカオスだ。

オカマの人も 外国人も いろいろ 日本におけるマイノリティの人たち、こういう言い方すんの嫌やけど「存在を許される」のは、夜の暗闇のなかの欲望のさなかだけや、って考えられるんやないかな。

どぎつい化粧も コスプレも 露出の激しい服も 外国語も 街中で振り返られるほど目立たないのは 夜のなかだけなんかもしらん、日本では。

 

いろんな外国で お酒は夜何時まで って法律で決められてるけど 日本にそれがないのは

お日様があがる時間帯より 夜をお酒で過ごすことのほうが 楽しくて気が楽な人がたくさんいるからなんかな。

 

私はマイノリティでもないし お日様好きやけど

歩いててふっと自由な気持ちになるのはいつも夜やしな。

日本がほんまに活きいきするのは 見所なんは 夜なんかもしらへん!

 

夜のなかではなにもかも許されるってのもちょっと恐ろしいとこもあるかもやけどね。

だからこそ惹かれちゃうのはあくまでそれが非日常やからやし、夜闇の一員になるのは ちょっと酔っ払った夜、浅い時間だけでじゅうぶんやな。

 

 

 

 

書くときは自分がいちばん上手いと思って書け

それを読むときは自分がいちばん下手やと思って読め

 

 

って話どっかで見たことあるけど私はこれを地でいってる

 

書く直前がいちばんナルシスト炸裂してる

まじで上手いから書くの、見とけよほんまに〜とか思って書き始める

書いてるときは うわこの文章むっちゃええやん誰かに真似されたらどうしよ、天才やこれはイカれてる、おしゃれすぎるし風流やし粋やしはんぱなくてしゃーないなこれ何回も読みたいわ スルメってやつやんけ

って思うとき多々ある

世の人がこの良さに気づかないならそれはまじであほ とかも思う

 

でも減速して読み返したら下手くそさに死にたくなる

こんなん誰も見向きもしない澱で塵でクソやって思う

こんなもんエンタメでもくそでもないオナニー以下の排泄物やって思う

悲しくなる

 

私はまだ自分の文章に対しての正当な評価を得たことがない

好きと言ってくれた人はずっとずっとずっと私の支えに

見守ってくれる友達は私の闘志のもとに

親バカ的な目線で褒めすぎてくれた先生は私の自信の根拠に

なる 糧となる 頑張らなあかんって思う 認めてくれてありがとうって言葉だけじゃありがたきれないなって思う

 

でもそれは 私という人間を知っている人たちの評価だからほんとにフェアじゃーないよな

 

私を知らない人に読まれたい

でも馬鹿に読まれて評価されたりするのは嫌🤪

 

そもそも 世の中ほとんど馬鹿って思ってる時点で奢りはんぱないねんな

 

なんというか

寝る前のぐずぐずの文章ながら 頑張るぞって言いたい

 

でもまだ早いのはわかってる

私は世界を知らない

地球って意味の世界じゃなくて もっと概念的な世界だよ

ちょっと海外行っただけで世界は広いとか言うやつ嫌やねん個人的に

世界は自分の定義で決まる

自分で決めた範囲にすら私は届いていないのだ

 

お腹すいた😖😫

 

レイスとかカルチャーとか

 

 

 

バンクーバーに住んでいる。

つい先週、晴れた日が増え 働いていたカフェの客数も異様なほど増え、嬉しいけどしんどいなとか言ってたのにさいきんは雨。多め。

この土地にくるまで知らなかったんやけど、冬のバンクーバーは通称「レインクーバー」、誰もが当たり前にレインブーツを履いて外出する街だ。

それでもチューリップの葉はにょきにょきとその固い葉を地上に表し、たんぽぽの暴力的なまでに野生的な葉(葉ばっかりやな)はその背を伸ばし、ウメ科の街路樹には愛らしい、親しい花がついている、春が来ている。のを冷たい空気のなか、雪の帽子をかぶった山脈を遠くに眺め感じる。

 

この街のもう一つの特徴は、人種のバリエーションの多さだ。

香港がイギリスの手を離れる際、それに抵抗した人々が多くこの地に渡ってきたらしい。ダウンタウンを少し離れれば、街は中国語で溢れている。

驚くことに、ここらでは本当に中国語しか話さない中国人がふつうに生活している。英語で話しても無視、なんてざらだ。

すごい勇気だなと、半ば呆れてしまう。一歩自分の領域を出れば、そこにはまったく意味不明の言語を共通語とする人が溢れており、レストランのメニューも看板も解読不能、非常事態になにがあったか自分のわかる言葉で説明してくれる人なんていないのだ。

海外旅行に来ているのではないのに、一キロ離れたら望みもしないそれだ。

よく普通に生活できるなあと感心してしまう。

 

中国人だけでなく、韓国人の数もとても多い。

韓国語のみで書かれた看板もよく目にするし、韓国レストラン街もダウンタウンに存在する。

日本人はそれほどでもないにしても多い。街を歩いていたら高確率で自分に似た顔を見る。ジャパニーズレストランも散見できる。

インド人も アラブ系も多い。黒人はトロントアメリカより格段に少ない。

ヨーロッパ人に関してはぜんぜん見た目ではわからないけど、イギリス人やドイツ人が多いように感じる。

ラテン系もけっこういる。

 

私はとくにドイツ訛りの英語が苦手で、ドイツ人の同僚の言っていることは70%くらい聞き取れなかった。

スペイン語訛りは、一回聞き直せばわかるけれどドイツ訛りは二回聞き直してもほんまにわけがわからなく、「ああこいつ英語理解できひんねんやな」という顔をされてよく会話が終わったものだ。

 

私の働いていたカフェは、24/7営業、つまりクローズドの看板を持たない珍しいところだった。

三日前に惜しまれつつ辞めた。自分で言うな。

キツラノという、最初にカナダにやってきたイギリス人が多く住んでいる土地で、礼儀に厳しい老人も多く来客した。

近くに大学があり、24時間営業の店は 大半がシェアハウスかホームステイ暮らしの彼らにとって格好の溜まり場である。

カナダはブリティッシュコロンビア州では、深夜の3時かなんかからアルコールの提供が禁止されているので、夜中のシフトに入っていたときは酔っ払った人たちもわりと訪れた。

 

同僚はほとんどが韓国人、次に日本人、カナディアン中国人、少しのドイツ人とラテン系が一人、地中海の近くのへん出身の子が一人……主に韓国語が飛び交う職場だった。

私がそこを辞めたのは、一人の上司と気が合わなかったからだ。

というよりも韓国人のその人は、日本人をあまり好きではないような感じだった。

夕方、3人しかシフトに入っていない時間帯、その人ともう一人の韓国人と私という状態が一番キツかった。

たまに明らかに私を笑いものにしていることがあっても、ずっと韓国語で喋っている彼女らに私はなにも言えない。

きっとそれがヒンズー語でも中国語でも、私は嫌な気持ちになっていただろう。

だから私はぜったいに嫌韓なんてアホらしい主義を持たへんし、職場で出会った韓国人の友達はとても大切だ。

でも、事実として「韓国人は韓国人同士でグループをつくるのが好きだ」という民族としての特徴がある。これは、カレッジの国際交流の授業で教科書を使って習うことであって、私個人の見解ではない。

そうしてその特徴は悪気なく人を傷つけることがある。

 

どの国のどんな文化だって、それを知らない人を傷つけてしまう可能性を大いに孕んでいる。

ラテン系の人たちのなかには異性との距離が近く、日本人から見たらビッチやなって感じる行動だってふつうにする人だっている。

日本人のなかには目を合わして話すのが苦手で感情表現が少ない人が多く(西洋人比)、アジア以外の国の人には反感を買うこともある。

白人カナダ人の若者にはめちゃくちゃフレンドリーな人がいて、距離の詰め方に戸惑う日本人も少なくない。

 

こういう羅列って人種差別なんだろうか。

レイシャルなフィルターを通して第一印象を決めるのは。

 

中国人の同僚と、どうしてバンクーバーに来たのかって話をしているときに聞いた話がある。

彼女ははじめ、ボストンに留学していた。人々は彼女にまず「アンニョンハセヨ」と話しかけ、怪訝な顔をすると「こんにちは」と挨拶し、次に「ニーハオ?」と聞いた。

「ハロー」でも「ハイ」でもなかったらしい。アジア人に対する挨拶は。

彼女は年単位でボストンにいたが、現地の人々は決して彼女をアメリカに馴染ませようとしなかったらしい。

それでアメリカによくない印象を持ち、カナダに来た。

バンクーバーでそんなこと、まずありえないからだ。

誰に対しても「Hi there!! How's it going?」な街だからだ。

 

でも。

ラテン系の同僚が、「アジアンってこっちが笑顔で接客しても目も合わせへんしありがとうも言わんときあるよね」って言ってきたことがある。

みんながそうなわけでは絶対ない。絶対にない。でも、明らかに他の国の人たちよりも中国人や韓国人に、無愛想な人の割合は多い。

それは別に、愛想をよくする必要がある環境で育ってきてないからだ。絶対に個人のせいではない。

でも。でも、こっちも人間で、ほとんどの人が笑顔で、ときには「Have a nice day!!」まで添えて、店を去っていくなかで そうでない客に当たると気分がよくない。

そうしてそこで、「まあ中国人やから仕方ないか」と考えることは、一種の予防線でもあるのだ。

それは絶対に軽蔑も見下しも入ってはいけないと思う。ただ、「中国人にそういう文化がないなら失望しても仕方ないか」と心でその態度を受け止める。

 

これって差別なんだろうか、違うんじゃないか、てか違うくあってくれ〜

と思う。

 

そこで、愛想のいいアジアンに出会ったさいに「アジアンのくせに愛想いいな」とは考えたくないよな、とも思う。

つまり、気分を害するような行動を受けたときにそれは文化やからと受け流し、気分のいい対応をされたときにはその人個人のものとして見る、ことをしたい。

「アジア人で、カナダに住んでいて、そうして愛想のいい人」

ではなく、

「愛想がよく気持ちのいい人」

という個人で相手のことを見られたら・・・・・いいんやけど難しい。

 

あまりにも人種というのは目に見えすぎてしまう。

見た目は文化に直結し、文化は態度に出てしまう。

 

まったく違う文化のもと、まったく違う言葉を使い、まったく違う教育を受けた人たちが一緒に英語を使って暮らす街に、私は住んでいる。

これは たまにほんとうに難しいときがある。

「人種なんか関係ないやん!」と思って人に接している人も、どれかの人種に当てはまる。どれか一つの文化の元で育ってきているのだ。

 

いま、初めてカナダで働いた場所を辞め、出会った人々に「あなたの英語は上手だよ」と言われる回数も増えてきた。

ジョークもたまに言えるようになってきたし、同僚と日本人抜きでご飯にも行った。

そんな少し余裕の出てきた状況で、「race=人種」について考えている。

「raicist」という言葉が「人種差別主義者」という意味なのもいまいち意味不明。

黒人だけが「black」という言葉を自由に使えるのもへん。

 

そういえば、明日か明後日誕生日です。

22歳も終わりかあ〜

 

 

トウヒ

 

 

 

ばたん、扉を閉める音が響いた。深夜、自家用車よりも4トントラックのお客の方が多い。ばたん、もう一度響く。

龍二のスウェットはずり落ちて腰パンどころか腿パンだ。伸びをするのでへそが見え、低い気温も相まって寒々しい。

俺には運転ができない。つまり、龍二があの距離とそれからこれからの距離を運転し、運転することになる。それに対してまだなんの文句も出ていないのは、ガソリン代が俺持ちだからか、運転が三度の飯より好きだからか。

「俺、あれ好きやねんな」歩きながら龍二が言う。

上下グレイのスウェット、それだけでも神経を疑うのに足にはつっかけ。靴下を履いているとはいえ寒がりの俺には理解できない。

「サービスエリアとか遊園地のラーメン」

「俺は、」知らないうちに鼻水が垂れそうになってすする、「嫌い」

「しょうもない味するやろ。巷には手間暇かけたラーメンいっぱいあんのにさ。山の上とかパークやとか高速道路やからってあの味でけっこう値段とるやん。」

龍二はけっこう長めに喋ったけれどそれは好きな理由の説明としてはかなり不足していた。

 

屋内に入るといささか暖かく、真夏のクーラー空間とまではいかないまでもほっとする。ホットだけに。

「お土産コーナ〜」

龍二は歌いながら早足でそれへ向かったが、ここはまだ近畿圏なので大阪に居たって手に入るものばかり並んでいるだろう。

それでも俺も陳列棚を覗きに行ってしまうのはやっぱり好きだからだ。こういう場所が。サービスエリアとか遊園地とか。旅行に来たって感じを味わえるところが。

一通りぐるぐる見回ってふたり揃って結局買ったのが煙草だけだったとしても、どうしたってワクワクしてしまうのは避けられない。

もうあの頃みたいに変な味のキャラメルをねだらせてくれる父親は俺たちにはいないのだ。たしなめる母親も。

いるのは若竹のように背ばかり伸びるひょろりとした弟だけで、そいつももう不意にかくれんぼを始めたりはしない。狂ったようにけたけた笑いながら、龍二は隠れるので見つけるのが馬鹿みたいに簡単で、なんにも面白いことはないのに俺も笑って、いた。

「食わへんの、ラーメン」俺は聞いてやった。それというのも食堂の脇にある販促用の旗に俺自身が惹かれたからだ。

地鶏で出汁をとったというネギのたくさんのったそれは、いかにも美味しそうに見える。唾がわいた。車中でポテチや甘いものを食べたりはしたが、食事は出発してからずっととっていない。

「食うか」

食券を買って店員に渡す。学校の食堂みたいな見た目のカウンター越しに、でも、中に立っているのは愛想のいい三角巾のおばちゃん、その真逆に突っ立って生きているような若い男だった。

店内(すべてがひとつながりになったその施設で食堂のことをなんと本当は呼ぶべきか俺は知らない)には人がまばらにだが居て、みんなそれぞれすすったりもぐもぐしたりしているのが興味深い。おんなじ人種に見える。おんなじ仕事をしておんなじような心境でおんなじような背景を、そんなこと知る由もないのに持っているように見える。それなのに彼らはいっさい交信をしない。それなのに彼らは一様に寂しそうに見える。

自分のことを他人に投影して憐れむのは俺の悪い癖だった。悪い癖をそれと認められるようになったのは、数少ない大人になることのメリットだと俺は思う。

カウンターに着席した俺たちをすぐに番号で呼び出した鶏出汁ラーメン二杯は少なくとも湯気がたっていて温かそうで、そのことが嬉しい。

龍二は割り箸を横に割るので二の腕に肘が当たる。

「一生ってさ」

麺を箸で持ち上げながら龍二が呟くように話しかける。

ふたりしかいないのだから、俺の相槌を待たずとも俺が話を聞いているのに、俺の相槌を待って。

「うん」

「カウンター席好きよな」

俺は持ち上げた麺と、箸を置いた。あまりにびっくりしたからだ。

「お前やろ?」

少し大きな声が出てしまい、周りを見回した。龍二は麺を口に運びながら、顔を顰める。

「お前が好きって言ってたから、俺いつもお前とおるときはカウンターやねん」

「いつ? 俺、覚えてへん」

「こないだやん。あの〜、スタバで。」

「麺伸びるで。

 スタバ? そんなん一生と行くか?」

龍二の助言にしたがって、俺はやっと最初の一口目を食べた。味は悪くない。不健康なものを食べたあとだからか、美味しいとさえ言える。

「二年付き合ってた彼女と別れた日やん」

「はあ?」今度は龍二が大きな声を出す。しかし周りを気にしたりはしなかった。俺というのはこいつに比べてはるかに気が小さい。

「それお前高一のときやん、こないだってなんやねん」

はっとして、でもそうと悟られたくなくてちらりと弟の顔を見た。

金髪に寝癖をつけ、無精髭の生えたそいつは確かにスタバでカウンターに座るのが好きなんだと言った学ランのあいつとは違って見えないこともない、俺にとっては完全に同じ人物であるにしても。

「おっさんなったなあ、一生も」

あの日俺は一足先にスタバデビューを果たした先輩としてこいつに奢ってやったんだった。バイト代を使って。稼ぎに対して大きな支出だったけれど失恋した龍二に俺はあれを買ってやりたかった。甘い甘いなんちゃらキャラメルフラペチーノ。

「ていうかさ」

「うん」

「ラーメン、あんまりやな」

「そうか? 可もなく不可もないな、俺には」

「まずくないとおもんないやん」

それとも、と俺は思う。

小さい頃両親と俺たちで旅行中寄ったサービスエリア、そんなのなにが起こってもなにを食べても楽しかった、俺たちはああいうのをかき集めたくてこういうところに来てワクワクしちゃうんじゃないのか? なあ、もしそういうのだったら悲しいな俺は。でもそういうのなのかもしれないよな。深く考えたくはなかった。ワクワクの、楽しさの、行き着く果てがどうしようもなく悲しみだなんて。

「俺、まだカウンター好きやけどな」龍二が言った。

「外歩く人観察すんのも、まだ好きやし」

それはあの日の高校生が言ったことを再確認するような感じの呟き 

 

 

 

 

つづく