ネットも社会も うんち

 

 

 

 

顔の造形に恵まれない人にとってネットって毒でしかないですよね。

頭の回転が遅い人にとっても、童貞にとっても。

なにもかもが個性でしかないはずやのに それが圧倒的な欠点となってその人を襲うんやから。

 

顔がブサイクでもモテる人はたくさんいるし、ていうか「モテる」ということ自体人間が生きていく上でまったく必要ないことやのに さもそれがすごいみたいな風潮、え?ここはなに、サバンナですか?男一人にメスが群がってこそ、みたいなの日本社会で要らないじゃないですか。

一夫一妻制が生物が種を残すのに向いてるか否かは今は置いといて、この世の中で一人の伴侶に出会うことが 大半の人にとって大事なわけでしょ。

だから モテる必要なんてなくて、そしたら別に顔が良い必要だってないんですよ。

顔が良ければ 特別扱いしてもらえる場合も多いんでしょうけども、顔が悪くて得することはなくても損することだってそうそうないでしょ。顔が良い方がむしろ 得することも損することもありそうやし。

 

そやのに今の世の中、「結局は顔」とか「※ただしイケメンに限る」とか、なんでそんな風に自らの自信を自らの手で奪うかねえ。

そういう風潮がもう出来上がってしまってるから、今の若者たちはそれに飲まれてしまうんですよね。

いや仮にブサイクであることでモテない人がいたとして、現代以前においては ブサイクやからモテへんねんやな〜って自分で、自分の体験でもって、わかるわけじゃないですか。

でも現代の若者は違くて、「ブサイク=非モテ」っていう 通念がすでにあって、それに則って自ら 非モテに走るというか 甘んじて非モテであるというか……

 

だから別に、ネットがこんなに普及して、猫も杓子もアホも馬鹿も、ネット社会という共通の場所での法律が頭に入っていて、

だから なにもかも個性として許されなくて

「○○という人がいる」という一人の人の話のはずが「私の周りにもいます」「職場の人はこうこうこういう理由でそうでしたよ」とか、みんなの話に拡大していって、それで、個人なんてなくなっていってんですよね。

ネットがなければ 「こういう人がいる」っていう話は、その辺の輪の中のうちのたった一人を表すだけやったのに。

 

なにもかも さあ あのさあ

個人を見れば解決する話なんですよ。

社会とか言っておしなべて全員を画一化するから ぜんぶかみ合わずにややこしいことになるんでしょ。

みんな は 一人 がいないと成り立たないのに 一人 を見ることをできないんだよなあこの社会ではさあ。

 

とかいって自分もそうなんです だってそういう社会で育ったから。

まあベースが社会じゃなくて 自分なんですけどね。

わたしが辛いのにあの子は…とか わたしが曲げてるのにあの子は…とか、僻みばっかりですわ。ほんまに。

そういう風に自己が拡張してるのはかっこ悪いですね。わかってるんだけど 自分が液体化してでろでろと空気中へ霧散してゆきます、たすけてくり〜

 

社会のために 個人がある っていうならもうそれは死んでくれって感じですよ。

もう死んでくれ。泣かないために感情をなくすのか?考えないために脳みそをすっぽりくり抜いてしまうのか?

 

 

 

おやすみなさあい

 

大学生の着てるシャツ

 

 

 

「大学生の着てるシャツ」とネット検索するために打ったら お、これは好きな言葉だな、と思った。

案の定 大学生の(7)着てるシャツ(5)である。

 

ゴーシチゴー、ゴーシチゴーシチシチ、わたし日本人は五文字と七文字の組み合わせに歓びを感じますよね。

書いてて気持ちええし 読んでて気持ちええし 好きと思った文章は8割、五文字と七文字の組み合わせ。いやそこ5割か7割ちゃうんかい。

 

 

お、今彼氏が隣で 「ほえほほあほえん」と言ったので なんて? って聞いたら

「その言葉以外♪(って言った)」とキレ気味に答えてくれました ちなみに眠ってるんですけど

キレながら歌うなや と思いながら 続きを促したら顔をしかめやがった

急に言葉を発して 続きを促したらキレんなや。

 

 

 

まあ〜   のろけって不思議ですね。

わたしは基本的にのろけなくて 本人以外に「(彼氏のこと)めっちゃ好き!」とかをあんまり言わないんですけど だって恥ずかしいやないですか。本人に伝わってたらいいかなというかまあそんな感じでたぶん

家族のことを好きやと言うのが恥ずかしいのと同じ感覚なんですかね、彼は彼氏というよりきょうだいという方が近い存在なので

じっさい ちょっと妹に似てるとこもあったりして。妹がいなくなって 一緒にいなくなったわたしの8割を 取り戻すまでは言わないですけど 残りの2割にちょっと肉付けしてくれる的存在というか

いやそこ5割か7割ちゃうんかい。

 

 

まあいいじゃないですか。ね。そういう話はやめましょうよ。こっぱずかしいなあもう

 

今読んでる宮沢賢治の『注文の多い料理店』も若干 字余りながらシチゴーですね。いやいつ読んでんねん。文学部のくせに卒業間際になって宮沢賢治読んでるって相当遅れてるぞと、小学生のときに読んどけよというような気もするんですけど

面白いですね宮沢賢治、電車で読みながら一人でニヤニヤしたりして

まあわかりやすいものが好きなんですよねわたし。わかりにくいものとか 抽象的なものとかあんまり好きじゃなくて

絵とかも妙に隠喩を駆使したやつとか 史実や常識を当てはめて見やな意味わからんやつとか 好きくないしね。

直感やろなにごとも。はじめに好き、もしくは嫌いじゃない という印象を持たせないものは要らないからね。

こうして大事なものをぼろぼろと取り落としていくとしてもわたしはそれはそれなりの取捨選択やないかと思うわけよ。

その点宮沢賢治はわかりやすくていいよな、読んでて情景がありありと浮かぶんだもん、胸を張る山猫とか問いかけに応じる松林とか。

 

本の中には真実が書いてある、と思っている。その確信は本の中に救いを求め始めたころからより強くなった。

知っていたけど知らなかったこと 言語化されえないと思っていたもの、自然に目線を合わせて見える自然。そういうものが書いてある。そこにはフィクションもノンフィクションもない。作家がその筆で直に書いた文章、架空の物語も事実に基づいた伝記も その間に違いなんてない。

この言葉以外♪伝えることができない♪唯一無二の文章で世の中のほんとうのところをわかりやすく教えてくれる、ああ小説家ってなんて優しい人たちなんだろう。

 

 

おやすみなさあい

 

 

夏の思い出手を繋いで

 

 

 

 

ファミチキは6時間で廃棄されるらしい。

鶏肉、ただ切り裂かれて冷凍されて揚げられて捨てられてミンチ。

(情報提供は高校のときからの友達!ありがとうございました!)

 

 

な、あのさ、夏が嫌いだと思ってたけど 冬の方が好きだと思ってたけど夏が好きなやつとは話が合わないと思ってたけど

そんなことなかったわ、夏もぜんぜん冬よりむしろ詩的かもしれへんね。

カリフォルニアのヤシの木を見たからかな。なんてね〜最後の夏休みやから ちょっとセンチメンタルになっているのかもね。

 

でもまあ〜、夏はそれでもすべてを意味ありげにしてしまうマジックがあるわな。

昼の暑さと夜の涼しさの 差が 物足りなさを生むのかな、しかし冬には 人肌恋しくて寒くて震える。

熱帯夜とかクソやね。なんの風情もないよね。お昼間にどんだけ暑くたって夜が涼しければ許してあげるよ。

みんな 過ぎ去るときになってようやく 寂しそうな顔をして縋り付く

馬鹿なんだよな。

 

 

 

 

ゼミの教授と 友達と三人でおしゃべりしたよく晴れた日の午後にすべて満ち足りたのになにかを喫茶店に忘れてきたような気がしてそわそわしてしまう。

きっと 一人になった途端に自分が自分の元から違うどこかへ行ったんで 落ち着かないんでしょう。

 

先生をみていると こんな大人にはやくなりたいと思う。

「先生わたしはぜったい大人になんてなれません」と言ったら

「大人とか子どもとか難しく考えすぎなんだよ」と言われた。

そうなんやろうな。ほんまは2つの間に違いなんてなくて大人の基準がもしあるなら みんな、必要なときに必要とされる大人の顔をするだけ。

でもやっぱり先生をみたらこんな大人になりたいと思うし 自分はなれなさそうと思う。

 

 

 

 

何人かの人が「もっとちゃらんぽらんやと思ってた、ぜんぜん自分の考えをちゃんと持ってるやん!」とわたしについて思うらしい。

しかしじつはこの女、その逆である。

「馬鹿に見えてかしこに見えて馬鹿」なのである。だから人々に誤解を与えまくる。

事実、本能と感情とその場の空気に寄って生きている。思考なんてないに等しい。

馬鹿にはするな、でも、買いかぶるな、というのが世間へ言いたいことである。

わたしは評価になんて当てはまらないぜ。

 

 

 

日文の人たちはみんな優しいんだって先生言ってた。

みんな いろいろ しんどいバックボーンを持ってることが多いから。

人生に憂いがない人間に読書なんてする必要ないもんね。創作も、映画に没頭することも。

別の学部よりも 文学科は そういう暗い部分を共有しやすいから ちょっと異色なんかもと思うところもあるね。

まあ純粋に教養として 文学に関わろうとしてる人も たくさんいるやろうけど。なにごとも「ばっかり」ではないよね。

 

 

 

ばっかり で思い出したけど マイノリティなんてなくなればいいのにね。

個人個人を見れば、絶対評価をくだせば、マジョリティもマイノリティもないはずやのに、っていうこれはいつも言ってることやけど。

絶対評価しかすべきでないのに。社会なんてぶっ壊れろ!

 

 

じゃあね

 

目があかない

 

 

 

人間が好きだ。直接関わるのは疲れるけど人間はほんとうにおもしろい。

どうですか みんなは人間好きですか?

人間好きやけど 喋るのは好きくない人も

人間嫌いやけど 一人でおるのは好きくない人も

人間を好きでも嫌いでもない人も

犬の方が好きな人もおるやろね

 

想像力がいちばん大切。

 

陽キャに対して異常な執着が表れている、オタクの描く漫画って世の中には多いわけですけれども

そういうのみるたびにわたしは「うわっキッショ!オタクの自意識キッショ!」とかって思ってきたんですよ。

たとえばまあね 何もしてないのに主人公のオタクが陽キャにギロッと睨まれる描写とか 陽キャに「オタクに見えないね〜」って言われてる描写とか あって そういうの見てキッショ!って思うのが大好きなんですよ性格悪いので

でもね 立ち止まって冷静になってみるとさ

そのオタクの人はもしかしたら過去に陽キャの人からなんらかの被害を受けたのかもしれへんよね。

陽キャになれないことで 周りの人に責められたりしたのかもしれないよね。

気持ち悪い自意識の塊みたいな そういうとこで陽キャへの印象を捻じ曲げようとすることしかできひんのかみたいな 表現はさ その人の背景を見ると仕方ないのかもね。

 

でもま〜

傷つけられたということは傷つけていい理由にはならないよね。公的な理由にはね。

理由が公的である必要もないから、いいんやけどね。

 

 

 

世の中の人は自分のことを認めてもらいたがりすぎてない?

他人のことなんてどうでもいいのに。

そんなんやから芸能人のやることにいちいち返信機能まで使って、ケチつけるねんやろな。

知ってる人にでもマイナスなことわざわざ言う必要ないのに 知らん人に悪口送りつけるってもうキ◯ガイやん。

 

 

 

話は戻りますが

オタクが気持ち悪いって言われうるのは

アニメが好きだからなんじゃなくて

ネットスラングのアニメ版みたいな下品な言葉を大声で言ったり 自分を認めてもらいたがりすぎてたり するからなんやないの?

なにが好きやったって誰もなんも文句言わんよこの世の中。

 

なんでわたしがいつもこんなにオタクに毒を吐いてるかというと ピクシブコミックでアニオタが描いてる漫画を読むのが好きやからなんですけどね。

病みつきになるんよな〜。

 

好きなものを声を大にして言いたいなら変な目で見られても気にせんかったらいいし

変な目で見られたくないなら好きなものをひた隠しにすればいいのにね。

大きな声で「好きなものを好きな私」の話をしといて 変な目で見られたら被害者ヅラするのはおかしいよ。

 

でも ま わたしには想像力がなく

オタクの人たちの気持ちがまったくわからないので なにも語るべきではないんでしょうけどね。

 

打ちひしがれることが多い。

優しい人はあふれているのに、わたしには想像力が足りなくてその優しさの真似をすることすらできない。

結果的に自分のことで頭がいっぱいだということが明確になるだけである。

 

 

おやすみなさあい

 

 

すきなたべもの

 

 

中華は圧倒的。味のオンパレード。

水餃子、小籠包、エビ蒸し餃子、ニラ饅頭

麻婆豆腐、青椒肉絲棒棒鶏、春巻きエビチリ八宝菜!

 

ラーメン。

鶏白湯がいちばん好き。

次点でドロドロの豚骨とサラサラの豚骨。

初めて博多に行ったとき。

一杯の安さにめちゃくちゃびっくりした。一蘭がサタンに見えた。

 

スパゲティ。

具材はウインナ、ピーマン、マッシュルーム、玉ねぎ。トマトケチャップをよく炒めて酸味を消して、甘くて赤黒い固形の液体にしてやって絡めた太めのスパゲティ美味。

トマトとニンニクをふんだんに使ったトマトスパゲティ、冬に食べるワタリガニのトマトクリームスパゲティ。

 

ああインドカレー

サモサ もさもさ。チキンティッカ、モモ、顔より大きなナンと 主役のチキンカレーお肉ホロホロ程よい辛さ。

 

ネギ塩豚丼は母親がいつも作ってくれてサイコー。

豚バラ肉の豪快な使い方はどんなお店にも負けない高級感!白ネギはなににいれても美味しい。

お米。かっこむ幸せ。

 

食べるのが好きすぎる。食べることはいちばんの幸せ。お腹が、永遠にいっぱいにならなければよいのに、と、思う。

最近食べてびっくりしたのがバインミーなんですけど きみは知ってますか?

ベトナム旅行帰りの母親が作ってくれた、ベトナム式サンドイッチ。

旧フランス領だったのでパンはフランスパン。その中にレタスとか豆ペーストとかお肉とかにんじんと大根のなますとか入れるん。ほんでベトナム産のお魚のオイル?をふりかけるんやって。

顎がめちゃくちゃ疲れるけどめちゃくちゃ美味しい。

パクチーの国ベトナム(というかアジアはほとんどパクチー圏やんね)にもこんなに美味しいものがあるなんて最強。

 

食べることが本当に好きだ。

今日の賄いはとん平焼き。お店のママ特製のソースが美味しくて、マヨと一緒にとん平に絡めて絡めて食べる。飲みこむ。味の余韻そのままに白米を頬張る。

なぜか最低賃金を下回った時給で働かされてるけどこの賄いのためならいいやと思って辞めないでいる。わたしは馬鹿です。

 

 

 

 

な、さいきんの入道雲、いいよな。

土の匂いと蝉の声と夕焼けのただなか真っ赤に染まる入道雲

ああ住宅街を歩くとお魚を焼く匂いがする。歩くと豚汁の匂いがする。あれ、この家では早いお風呂の匂いと子どものはしゃぎ声がする。次の家では中華の匂いがする。肉じゃがの匂いがする。かつてわたしもいた場所に次の誰かがいる。

カーテンを一枚 隔てた向こうから漏れる明かりはわたしを拒絶する。排他的な幸せ。いやそこに幸せが必ずあると思うことこそが自己愛である。

 

 

 

 

 

 

わたしには いじめっ子の気持ちもわからないし

いじめられっ子の気持ちもわからない。

陽キャの気持ちもわからないし ヲタクの気持ちもわからない。

なんでもないからだ。ただ わたし であるということ。

読書をしない人の気持ちもわからないし 文豪好きの人の気持ちもわからない。

デリカシーのないやつの気持ちもわからないし デリカシーに縛られるやつの気持ちもわからない。

 

なんでもないのだ。

だから 埃1つない笠の下、暖色照明の下、の食卓はこんなに遠いのだろう。

 

親戚の家で大きな机の上に乗せられた白い蠅帳。

たまに食べるカップラーメンのおいしさ。

家庭じみたピカタがいちばん好き。

 

 

おやすみなさあい

 

 

あたし

 

 

 

女だ。ショートカットでスカートを履く女。

 

小学生のころ初めて物語を書いてから今までずっと何かしらの形で空想を文字にしてきた。

あのときの夢は小説家とサッカー選手だった。

サッカー選手になりたかったのは たぶん 男の子になりたかったからだと思う。担任の先生がサッカー好きで、クラスの男の子たちにサッカーをやらせていたから。仲間に入りたかった。男の子になりたくて一人称を「おれ」にした時期もあった。小学校中学年のときだったかな。

 

男の子になりたかったはずの私はしかし今果てしなく女として生きている。どこからどうみても完全に女の形をして女の性格をしている。それを不利に使うやり方はしたくないと思いもしている。

そうして小学生のころに夢見た小説家になるという未来をまた夢見ている。

 

いま、書き物を世に出す時期ではない。だからブログも全然書いていない。1つの物語のために言葉を使いたくなってしまったのだ。

大学四年生になって転換点を迎えた私はまた今なにかしらの小さな変化を迎えている。

人はそうして大人になっていくのだろうか。

さいきん、金色の華奢なブレスレットを欲しいとしばしば思う。

人が大人になるときはどんなときだろうか。子どもの目線を通さなければ誰だって大人ではない。私は私だ………否応無く。

 

おやすみなさあい

 

 

カンジョウテキ

 

 

わたしは今、自分についてどんどんわかってくる時期にある。そうしたら不思議と一人でいる時間が減ってきたように思う。そして誰かと話すことでまた自分が見えてくる。面白い循環だと思う。

感情の根源がどこにあるか わかっていれば たとえ感情をコントロールできなかったとしても いくぶん楽だと思うのだ。真っ当な理由があって怒っている、泣いている、と思える。

 

プラスの感情に理由づけは要らないと思う。嬉しいことは嬉しいままに 楽しいことは楽しいままにただそこにあればよい。

でもマイナスの感情には理由や根拠が必要だと思う。どうしてだろう。

 

プラスの感情はマイナスの感情より弱い。いいことがあっても悪いことがあるとなんとなく平均してなんとなくマイナスになる気がする。

ということはプラスの感情への対処よりマイナスの感情に対処することが火急であるだろう。

 

しかしわたしは悲しい気持ちを断然否定したくない。だって悲しみは同期で優しさで痛みだからだ。悲しみは誰も傷つけない。自分だけにのしかかる。一人だけの個人的なものだ。大事な感情だ。

怒りはどうだろうか。わたしは怒りも大事だと思う。だって関心のある証拠だからだ。どうでもいいことに心を乱されることはゼロだ。なんでやねんボケ、そんなことあるかいクソ、は相手を見放していないから出る言葉だ。怒りは相手を必要とする。怒りの対象が常にある。コミュニケーションを諦めた人間に怒りはない。

 

そもそも怒りや悲しみをマイナスの感情と捉えてよいものか。感情はすべて、個人の有するかけがえのない宝石であるとわたしは思う。すべてが大事にされるべきで個人において感情より優先すべきものなんてない。と思う。

怒りや悲しみに体を乗っ取られることが悪いのだ。コントロール下に置けと言うんではない。脳みそを占有されてずっと全身で怒ったり悲しんだりする奴はめんどくさい。

ずっと持っておけばよいし自分のものとして棚に飾ればよいが物事があってそれに対する感情にある時点から常に脳のリソースを割きまくるのがいけないのかもしれない。

 

物事に対してどう思うか、みんなそれぞれに本当に違う。どういう感情を持つか、その内訳はどんな感じか、全部興味深いと思う。

つくづく個人主義な人間なのだわたしは。そうして理想主義らしい。これはでもネット曰く。

 

わたしは人が驚かされるのを見るのが苦手だ。すべてについて思い描く何かがある人間はいないだろうがそれにしても予期せぬことというのはあって、それが起こるのは本当に見てられない。嫌だ。みんな心を乱されることがゼロだったらいいのにと強く思う。

 

感情はできごとに対して生まれる……なんでこうやねんアホか、なんかこんなんあるやんおもろ、なんかこんな感じ楽し、なんでそうなるん悲しい……

感じることができるのは生きているからで 自分の感情を大事にしてくれるのは自分だけだ。

感情より大事なものがあるだろうか。

 

と最近考えている。

 

おやすみなさあい