死にたいとか、言うなよ

 

 

 

べつに死にたいわけじゃないんだけどな

どうしてわたし達は死にたいと言ってしまうんだろうな

 

よく、しにたい は しあわせになりたい の略だと言われますが…

死にたい=幸せになりたい、なのか?ほんとに?

 

広義で言えばノットイコールではないやろうけど、でもだからといってイコールではないでしょう……

死にたいという究極のマイナスが、幸せになりたいというプラスのエネルギーに安易に、変換されちゃあ困るのですよ。負のなかに生きるものとしては。看過できねえな、看過できねえよ。

 

死にたい、というのは すべてを終えたい、ということですよね、なぜなら、死ぬということは自分がこの世でなにも為せなくなるということやから。

この世でなにも もう したくない。

なにもしたくないっていうことは もう十分なにかした、か、なにかできる気がまったくしない、か、どっちかなのかな 知らんけど

疲れた or 未来に希望がない、が死にたいにいっちゃん直結するような気がするね。

さいきんでは 「飽きた」と言い残して死ぬ子もおるから、じゃあ 予想できる も追加しますか?

もう疲れた or 未来に希望がない or 未来が予想できる

から、死にたい。

あれ、これ理由やな。「死にたい」発言に繋がる理由や。

だから上の3つは死にたいとイコールではないってことか。

やめたい、か。ぜんぶやめたい。ほっぽりだしたい。責任も期待も放り投げてやめたい。生きてるだけをやりたい。でも生きてるだけじゃ生きていけないから死にたい。

 

じゃあ 死ってなんだ?この場合の。

家族や大切な人を悲しませたい とは思ってないし、現実に!自分の死体が横たわるということも考慮の外ですね。

そんな具体的な話ではないから。

でもわりと簡単に 死にたい という言葉を使いますわたしは。ぜったいに親の前では言えないですけど。

 

ゲーム感覚かな。

あーもうこのゲームやめてえ!リセットしてえ!、イコール死にてえ!

RPGをリセットするのになんの痛みも悲しみも伴わへんから。

ぶつんと切ってまた楽しいところからやり直し。

こんなはずじゃなかった。こんな悲しいはずじゃ苦しいはずじゃ楽しくないはずじゃ辛いはずじゃなかったのに。

なかったのに今。

過去の積み重ねで今がある。

いっぺんなかったことに。でけんかねえ。こんなはずじゃほんまに、なかってんもん。

ああ………死にたい。

 

ふむ。

「死にたい」、イコール、「こんなはずじゃなかった」?

「幸せになりたい」よりは、ニアリーなんじゃないですか?イコールでないにしても。

 

死にたいってこぼしたとしてそれを、幸せになりたいってことやね!って受け取られたらもうそれこそ死にたいよな。

そもそも死にたいってなんてシラフで口に出せるわけがないんですけどね。

こんな世の中。わたし達はわたし達同士でさえわたし達の話をできない。

拒絶されるくらいなら、本質の周りを手に手をとってらんらららんらら 回ってるほうが100000000倍 痛くない。

だからツイッターとか 日記帳とか ツイッターの裏垢とか で呟くのです、今日も、死にたいと。

 

ちゃんちゃん

 

 

バナナジュースと最強の錦戸亮

 

 

 

「バナナジュース」というのは、錦戸亮が作詞を担当した、横山裕錦戸亮のユニットソングだ。

横山くんが、それまで楽器をできなくてバンドのなかではボンゴを叩いて(というか撫でて)たのを、音楽について蚊帳の外だっしゅつ!というか蚊帳の中へさんにゅう!するため、トランペットを習いだし、盛んにコンサートで発表していた時期の歌であり、

もともとサックスの吹ける(なんでもできる)錦戸と、セッションすべくつくられた歌でもある

また、バナナジュースというテーマは、ふたりを繋ぐのがバナナジュースだからであり(横山くんがバナナ好き 錦戸がバナナジュース作るのうまい)、まあそういったあれこれの多い良曲なのだ。

 

錦戸というのはなんでもできるすごく無敵の男の子で、演技とか週刊誌とかでしか彼を知らない人には ちゃらちゃらしてどうせそんな、音楽の才能なんかないやろ、とか思うかもしれへんやん。

でも違うねん、なんでもできる、パソコンもできるし言葉知ってるしアウトドアもギターもサックスもドラムももちろんお歌も上手で 恥ずかしがり屋さん 白Tとジーパンが世界一似合う 車は安全運転 ダンスもこなすし演技うまいの言わずもがなやし尊敬する人には低姿勢、あげるときりのないほどの長所たち、

女癖が悪くてMCが苦手 身長が170cmしかないという3つしか欠点がなくそれすらかわいい最強の男の子なんですよ。

 

その最強の男の子である錦戸亮が作詞したバナナジュースが最高なんですよ。

 

 

錦戸:悶々なモーニング 寝不足の原因 昨夜見た夢のせいさ

横山:大胆なドレス 覗く白い肌 みんな虜にするイケナイ美人さハニー!!

 

で始まるんですけど、横山くんに女性に関する肌の白さを歌わせるのが乙なんですよ、なぜなら横山くんの肌の白さは背景を透過するほどやから。

 

退屈なウィークデイ 再上映(リバイバル)のウインクで

元気♂になっちゃうのしょっちゅうで

レースは過酷です ライバルは無数

サバイバルに挑むんだ! 負けてたまるか!!

 

次がBメロ!

ここまでのAメロの 錦戸→横山→横山→錦戸 という割り振りは、次のBメロを横山くんに歌わせるためなんやと思うわけです。

 

渋く苦い「ダンディ」落ち着くかい?

「帰国子女」洒落てるね

甘酸っぱい「年下ボーイ」もいいけれど 『俺』なんてどうかな…!?

 

ダンディはわかるけど帰国子女?なんの話?

ってここで疑問が出るじゃないですか。

急に変な言葉出てきた!って。でもまあちょっと待っといてくださいよ。待っといて!ただ待っといて。

次がサビです

 

二人:真・真・真っ直ぐなオモイ 『君』に届くといいな

独りよがりは承知 正直 少し怖くもありますが

バ・バ・バ・バカなふりして そんなバナナみたいな

下手なジョークと甘い言葉 したためてます

 

もうかわいい!もうかわいいでしょ

「そんなバナナ」ってダジャレを使うのが愛らしすぎるやないですか。

ほんで まままっすぐ とか ばばばばか とか キャッチーで覚えやすいし歌ってて楽しいし

で次のBメロですよ!1番のBメロの謎が解けるわけです!

 

大人の味「珈琲」 上品な「紅茶」 可愛い「苺」

誰よりもおすすめさ 今すぐに

ドントセイ エニシング アイ ジャスト ウォンチュー トゥー ピール ミー!!

 

はわわわわー!錦戸の英語の発音かあいいー!

 

じゃなくて、そういうことかー!

「ダンディ」は「珈琲」、「帰国子女」は「紅茶」、「年下ボーイ」は「苺」!

そしてピールミー!!『俺』は『バナナ』!

 

茶店で珈琲飲むのかな!

イギリスに行ってたのかな!小さい頃!

真っ赤になって可愛いのかな!

元気♂になっちゃうのかな!のかなっていうかなっちゃうんやな!剥けてないんかな!いやそんなことはないやろ!

 

ほんで なんでその3つがセレクトされたかというと、大サビでわかるわけです!

 

『バ・バ・バ・バ・バナナ』と『ミルク』で

甘くフレッシュなハッピーデイズ

ぼ・ぼ・ぼ・僕の欲望 君の優しさに溶けてみたい

バ・バ・バ・バナナの憂鬱です

ま・ま・また増えるシミが

思い通りにいかない 現実(とき)は待っちゃくれない

 

『君』は『ミルク』なんですよお!

だから、コーヒー牛乳、ミルクティーいちごみるく、となんでもいけちゃうわけです!

その真っ白な肌で珈琲も紅茶も苺も みんな誰でも虜にしちゃうのです!

 

ほんでちょっと下ネタでしょ全体的に!

そこがまたいいって言うかあ!おしゃれやのに男の歌って感じでえ!

まあシミについては、バナナって放置してたらスイートスポットできるやないですか、そういうことやと思うんですけどダブルミーニングであっても、それは、知らないですけど

 

で、オチもちゃんとあって

終わりかたが

 

君の本音は そんなバナナ、、、。

抹茶くれない?

 

なんですよ。

はあ、彼女は抹茶ラテがいいんだって。

たぶん、バナナジュースは 大阪の文化(らしい)やから、そんな綺麗なお姉さんはべたべたなバナナジュースなんか飲まへんのやろね。

ナナズグリーンティーとかで抹茶ラテとか飲むんやろね。しゃあないなそれは。

モテモテの錦戸も、大阪弁やからって理由でイケナイ美人にフラれたことあるんかなあ、、、ないやろうけど。

 

とか言ってまあ そう、終わりかたも秀逸な すごい歌なんですよ

「ウインクのリバイバルで元気♂になっちゃう」とか、あの錦戸がやで。書ける?ふつう。すごすぎる。

しかもそんなギャップを感じさせつつリアルなんですよ。

 

ほんで間奏とかでふたり見つめあってサックスとトランペット吹くでしょ。

なんやこの幸せは!グラサンにテカテカスーツですよ。横山くんはスタイルよくて男前やし、錦戸は身長以外のすべてを持ってるし、もう降参!

関ジャニ、基本的にテカテカのスーツ似合いすぎ!ふつう似合わへん!なんでそんなもんが似合うねん!趣味悪い色のテカテカのスーツ、コラ!

 

 

 

ほんで他に錦戸の「stereo」っていう作詞作曲本人のソロ曲があるんですけど、その冒頭も紹介しますねリアルなので。

 

テーブルに散らかった紙切れが ひとつひとつ宝物に変わってく かわいい落書きしてくれるから

うちまで送り届けたあと 散らかった部屋を ひとり片付けてる

あれ?なんでかな 全然苦じゃないや

変なキャラクター あんまり似てない似顔絵

綺麗な字で書いた名前に寄り添う 僕の名前

あんまり書き慣れてないね でもそのどれもが愛しくて

 

リアルぅ〜!!

作曲も錦戸で、ギター弾きながら歌ってるわけですけど、平坦なメロディのなかでところどころアップダウンのアクセントが噛み付くようで、感情が妙にこもってて、もはやえっちぃんですよ。

錦戸ってちっちゃいときに自分の名前めっちゃ練習させられて、だから「錦戸亮」ってめっちゃかっこよく書くんですよ。そういうエピソードとか知ってたら特に生々しい!

 

関ジャニのいいところは ひいては錦戸亮のいいところは

こんなにメジャーやのにちゃんと血の通った人間ってことなんですよね

まあそこが悪いところでもあるのかもしれへんけど。

腰振りダンスのとき女のお尻叩くフリしたり 元カノにつけられたあだ名や好きな体位を発表したりするアイドルっていないじゃないですか。なんでいないかって、ファンはふつうアイドルに人間を求めないから。

でも関ジャニは違うんですよ。人間としての自分たちを垣間見せまくっちゃうしそれをファンに受け入れさせちゃう。

だから言葉がほんものに聞こえるし、ほんまに面白くて笑ってるのか ほんまに照れてはにかんでるのか わかる(ような気にさせてくれる)し、身を切って仕事してるんやなあってことが ファンにわかるんですよ。

そんなこと本来はわからんでええねんけど。

 

また「関ジャニ、偶像じゃない」論 語っちゃったー!たはー!すきあらば語ってまうー!

とにかくバナナジュース、いい曲なので聴いてみたらいいと思う!

なにより錦戸の歌いかたもめっちゃいいし!横山くんはかわいい。

 

つぎは関ジャニの六人になって初シングル「ここに」のカップリング曲、「All you need is lough」について語ります

乞うご期待!(どの層に)

 

 

 

サムシングサムシング

 

 

 

1年か2年か前までは、隠居したい!と思ってたわけですよ

田舎の平屋に住む 毎日 小さな家庭菜園に水をやり 近所の無人販売所で買ってきた採れたて卵を毎朝目玉焼きにして冬の早起き 靄の充満する美味しい空気のなかを散歩

……とかそういう、でもわたしの性格で庭を維持できるわけがないし、早起きを習慣づけられるわけがない

生きてる時間は夜のほうが長いわけです 孤独なんやから。

田舎は無理やと 気づいた

 

だから最近はだんぜん、大阪の都会のなかのマンションに住みたくて

そしたら 光ってるでしょぜんぶ、その光のなかに人がおろうといなかろうと光ってる

ひとりぼっちでもさみしくないんですよね

大人になってもし、ひとりでお酒を飲むお店に入られるようになったらなおさらにさみしくない、もうさすがに今みたいに馬鹿みたいな飲み方はしないやろうから安心、静かにひとりで飲む、ときには誰かと喋ったっていい、でもその誰かの名前は次の日にも覚えている必要はなくて。

 

精神的なつながりを他人に求めてたはずやのに

だから当然、あの隠居の夢には男性が伴っていたわけで

でも都会のマンションには わたしはひとり

誰かと生活を共にすることはとても恐ろしい

 

"芸術と生活の共存"は普遍的なテーマやって、ゼミの先生が教えてくれはりました

そうなんや!と思って、だってそれを明確に意識したのが『ニューシネマパラダイス』を観たつい最近やから。

わたしはどちらかというと"夢と生活の共存"というふうに強く捉えたけど、その実、芸術とは夢だ。生きるのに必要不可欠ではないから。

生の余剰部分が生み出した夢 だから ほとんどの人が労働者であるこの時代に、この時代の生活に、根付くことができるわけがなくて。

適度に享受するぶんには なんの問題もない、それは現実を生きるためで、少しの夢を見る時間は現実を生きるための糧となる

でも、夢に生きてるうちのほとんどを費やしたら、夢が生活を侵食したら、だれかとそれを共にすることなんてできない

夢はひとりでみるもの、つくるものだ

 

わたしはいつも夢をみている

男性に、友情に、恋愛に、社会に、夢に、街に、夢をみる

単純にめちゃくちゃ眠るし

そのうえ 本を読む 映画を観る それは他人の夢を覗くことで 夢の疑似体験だ

そして自分でも小説を書く 創作は現実から抜け出す行為だ

ほとんどの時間、現実を生きていない

 

だからその速さに驚く、現実の速度についていけない

ずっとバイエルをやってる、三輪車をこいでる、補助用の輪っかがついたお箸でご飯を食べている。

 

でも対人間に夢をみるのはそろそろやめたほうがいいですね、つまり男性に。

わたしはもう見た目は大人なんやから、女性とはできる対話を できない男性に、自分が大人じゃないことをわかってもらうすべはない

この場合の男性というのは、男性全般のことではないです、つまり、わたしを女性として見る男性のことです

 

とかまあ映画『ファイトクラブ』をエンディング手前まで観て 30分くらい速めの速度で歩いたらいろいろ考えちゃった

暴力で言葉を奪ったり 物質社会に反抗したり 労働者が労働者って名前でなくてちゃんと名前があることを証明したかったはずなのにみんな集団に埋もれちゃったり

とか してて なんか 辛くなっちゃった

基本的になにかに触れるといっかい辛くなっちゃうの辛いな

ちゃっちゃちゃっちゃうるさ 背脂か

 

大好きな大阪、大阪弁公用語

同じ言葉を喋れるという思考停止の安心

ね〜。

 

 

小説を読む読む人生

 

 

死にたいとき、孤独なとき、本を読む

電車のなかで、家で、スタバで(スタバのだんぜん良いところはどこでも変わらない内装や店員さんの雰囲気とどこにでもあるということ)

 

人生において救いというのは 創作があるということだ

永遠の恋や愛 不変の事実 完璧なダーリンは、幅数センチの文庫本や長さ二、三時間の映画のなかにこそ、いや ほとんど、のみ、存在するのだ

 

だから 小説を読まない人というのはすごいと思う

だって彼らはあなたたちは常に 現実と対峙している、並大抵の精神力ではない

 

死にたいときに小説を読む、というのは現実逃避に他ならない

目も当てられない現実から逃げ込めるのは身体を放棄できる小説世界のなかだけだ

映画では短すぎるし テレビでは現実的すぎるし 酒では切実すぎる

 

映画を観たあとあなたと交わした感想の不必要な攻撃性も

テレビのなかで笑う不快なタレントを不快だと思ってしまうことも

お酒を飲んで暴れたおしてあらゆる人にかけた迷惑も

ぜんぶ、小説を読んでいると捨てることができる

小説の登場人物の過去と わたしの持つわたしはまったく関係のないところにあり、登場人物の脳みそのなかに生きるときだけ、わたしはわたしを抜け出せるのだ

 

わたしを知る人は全員、わたしの過去を知っているということで わたしに関する記憶を多かれ少なかれ持つわけだ

それは 黒歴史の多い、というか現在進行形で黒歴史大量増刷中の、わたしにとって耐え難いときがありまくるわけで

誰も自分を知らないところに行きたい、を小説は簡単に叶えてくれるツール、ああ、やっぱりすげえ最高

 

それに、偏屈で友達の少ない登場人物のでてくる物語は単純に救ってくれる

こんなふうでも生きられるんや、健やかに過ごせるんや、と思ったら、社会不適合者たるわたしも なんとか生きていけるような気がする

口の悪いおばあさんがそれでも家族や 少なくかつ年齢層ばらばらの友人を持っていたり

青くて痛い行動を引きずったまま生きる青年、歳いっても恋愛で仕事を圧迫してしまうおばさん、

そういった虚構の、と言ってしまったらそれまでなんやけど、実在しない人たちこそがわたしを、そして誰かを救うのだ

 

だから 思うのですが小説を読まない人は本当に強いです

日々のなかで自分という人間を常にひとり分背負ってきちんと生きている、それはほんまにわたしにはできないことなので 羨ましい

わたしは 昔から わたしひとりでわたしを生きることがとても重荷に感じて感じて感じ続けている

 

本を読んだほうがいいというのは常に言ってることやけど、それはたぶん語彙力とか表現とかそういったものについてのみ普遍的に言えることだ

創作に関わらずにすむ毎日を過ごせるならそれに越したことはほんとうにないと思う

だって まぎれもなく進む時間のなかをひとりでひとつの肉体を持って生きているのやから

やらないといけないことはたくさんあって、行かなきゃいけない場所もあり、会わなきゃいけない人もいる

続けるべき関係も 努力して繋いでおかないといけない人も 保つべき環境もある

じっさい、わたし達に小説なんて読んでいる時間はないのだ

学術書ならレシピ本なら有意義だ、生活に活かせるから 生活に繋がるから。

でも 小説は違う なにかを実際的に、してくれるわけではない

 

生活のなかでどうしたってたくましく図太くなっていく、水仕事の多い主婦の指の皮が厚く熱いものも平気で持てるようになるように望まずとも、長い生活というものに人間は適応していく

現実という熱い鍋にわたしはしかしいつまでたっても直接触れない

指の皮が薄く 肉が柔らかすぎてどうしたって火傷をしてしまうのだ

 

文庫本を鞄に入れなければ電車にさえ乗れないわたしにとって小説は切実に必要であり続ける、完

 

 

 

にんしょう

 

 

 

人称というものに悩んでいます。

何気なく読んでる小説の 何気ないn人称が 何を効果的に表現しているのか

小説を好きなくせに大して考えていない

 

三人称の文章はやっぱり、俯瞰できるのが強みですよね

映像ぽくで、映画みたいな文章をつくることができる

でも、登場人物の誰かに肩入れしすぎることはできないから、この人がこう思ってることを書きたいな、と思っても、表情とか行動とか、目に見えることを中心に描写しないといけない

これが難しいわけですよ

だからやっぱり 事件が起こる物語がいいですよね 三人称小説は

出来事の描写じゃないですか 見えるものを中心に書くわけやから

 

一人称小説は、感情を描写しやすいですね

ライ麦畑でつかまえて』とか、とくに主人公の内面のお話で使われますね

物語の始めと終わりで内面が変化したり なにかになんらかの感情を抱くことで人物を表現するから、やっぱり 内へのエネルギーが大きい

だから 動作とか 現実の世界とか 描写するのはむつかしい

視点人物を中心とした半径数メートルで世界が展開するからね〜

 

でも 間ってないんかな〜

三人称のくせに めちゃくちゃ視点人物に肩入れする小説

江國香織はやっぱりそれやと思うんやけどな〜

 

「小説 書き方」で調べることがないとはいえないんですけど、

そしたら「三人称小説では特定の人物に没入してはいけない」的なことを書いてあって、

あ、そうなんや、じゃあむりやん、と思ったわけですよ

だって人間がどう動いて全体がどうなっていくか書きたいわけじゃないから……

でも、敬愛する江國香織さんは けっこう視点人物に肩入れした三人称小説を書きはるから、だから彼女みたいにして書いてもいいなら、三人称も書けるかもなあと思ったんですけど、じっさい、してはいけないことなんてないはずなんです……

読ませるという前提がなければなにをしてもいいわけで 人間として小説家でいることはぜんぜん誰にだってできるわけです

それを ちゃんと読者を設定して 世間に迎合して 文章を書けるように、文章を商品に昇華してるのが 職業としての小説家なわけで

それになりたいなら、読者向けの、オナニーでない、文章を書かなきゃならないわけですよ

 

でも果たして

ギターを弾く人が 最初から人に聴かせるために弾くのか?

ある程度に達してから初めて、リスナーを意識するよね

スノーボーダーが 最初から審査の点を意識して滑るか?

でも、芸人さんは 始めから客を意識して練習しますよね たぶん……

 

わたしは 読者向けでないにも関わらず

読んで〜 と 世間へ文章を公開するけど、それは 歪なことなんでしょうかね

「わかってる!未熟なんはわかってんねん!まだおもろいもんが書けてるとは思ってへんねん!わかってんねん!」と言いながら人々に読んでもらうのは とても なんというか 図々しいですね、行いとして

でもだから決して 読め! とは言いたくないし、褒めろ!とも言いたくはないわけですよ

 

難しいな〜

文章ってどんなふうに上手くなっていけるんやろう

お友達と喋り、文章を読んでとても触発されております

人称とは。

きさまに寄り添うには何人称を使えばいいかね?

 

 

おわりでーーーす

 

生活習慣崩れ倒してニキビ多発

 

 

男性のなにがいいってやっぱり声ですよ

わたし ほとんど女性シンガーの歌って聴かないんですよ

 

やっぱり 身体にでっかいパイプ入ってるようなよく通る太い声っていいなあ

だから 芸人さんとか 好きなんですよね

やっぱり声ですよ 人間て

 

で 思うんですけど 声とか言葉って人間特有のものじゃないですか

でも 意味のある言葉ってどうしても人を傷つけるじゃないですか

意思を込めてなくても 言葉の意味って人それぞれが持ってるもの違くて 意図せず礫になるわけで

だからもう意味のある言葉を発さなくてもいいんじゃないですか?この世の中

 

にちゃんで昔あった、「ぬるぽ」「ガッ」ってあれ理想ですよね

一応説明しておくと、「ぬるぽ」って誰かが言うと「ガッ」て誰かが返すというノリのことです

もうそういうんでいいじゃないですか 生存確認ですよ

日本語正しく使える人 減ってきてるじゃないですか もう ぬるぽと言えば ガッと返る、そんなようなもんでええでしょ そしたら正しさの概念だってゆるゆるになるし

文字でおいてのみ 言葉が意味を持てばいい!

本がなくなるのは嫌だ……

 

でも わたし あれ大嫌いやったんですよね

中高の先生が授業中に

黒板 バンッ!て叩いて「ここ大事!」とか言いやがるのん

音で条件反射的に前 見させようとしてるやん わしらは犬か、動物か?

教師のくせに 言語を放棄すんなよボケ、とおもてたわけですよ

 

とか思いつつも

コミュニケーションは肉体行使!

これがいいと思います

海外行って、なんも言葉わからんでも お店のおばちゃんにニコッてしたら ニコッて返してくれるもん

あんなに気持ちのいいことはないよ

これで言うたら英語ほど便利なもんはないね。

「サンキュー!」て言ってニコッとしたら万事解決やもん

そこにはなんの軋轢も生まれず……

わたしたちはただ笑顔のみでもって若干の意思疎通を成功させる……

 

笑顔と握手とハグ

これだけで世界回したりましょうよ

 

お酒飲んで酔っ払っても翌日後悔しませんよ

だって意味のある言葉をなにも言わないんやから 言いすぎてもうたも やってもうたも クソもないわ ヤッてもうたはそりゃあるかもしらんけど

 

とかいうて まあ

言葉がめちゃくちゃ好きで 言葉を軽んじる人が嫌な わたしなんですけど

みんなはどう思う?

 

おわりでーーーす

 

 

あわわ

 

 

 

剃刀を長い時間使うと ぜったいに指の爪をガッといってまう

血が出たり、出なかったりだ

右手に集中して左手がお留守になり、左手の所在について思考がいかず、ガッといってまう

手を滑らせて剃刀を落とし、咄嗟に掴んでガッといってまう

まあ主にこういった理由でガッといってまうのだ

 

花が咲いていて、名前も知っているのに、咲いている時期についてどうしても覚えられない

ツユクサ曼珠沙華金木犀も コブシも

だから毎回新鮮に、あ、咲いてる!となるのだが、花の咲く季節について 知っていることは お上品だと思えるので、知っていたい

でもどうしても覚えられないから 生活のなかに唐突に花は現れ、わたしを驚かせる

 

記憶というのは不思議なものだ

人間は学習するはずなのに わたしはいつも同じように爪をガッといってまうし 小回りの角度を間違えてドアのへりに肩をぶつける

 

人の印象は 記憶によるものだ

鮮烈に記憶に残ったその人の言動が その人の印象を決める

でも どういった言動がその人にとって鮮烈なのかは 他人にはわからへんし、人それぞれすぎるし、だから、「この人はどういう人」っていうのはすごく、曖昧で地に足のついていない表現ということになりますね

 

翻訳された小説が 翻訳される前の小説とぜんぜん違ってしまうように、

人の印象も、誰かを通してしまったらそれは、わたしにとっては真実ではなくなる

 

真実さえ 人それぞれで ほんまのところの所在も そのときによって違って

じゃあ なにを信じればいいのか、わからんくなるね

一対一の一問一答でさえ相手をほんとうには知れない

知る必要があるのかどうかもわからない

 

でも誰かと接するとき、その人のことを知っている、ということはとても安心なことですよね

逆に ぜんぜん底知れねえ と思う人といるとそわそわしてしまって、自分がどう思われているのか恐ろしくなってしまって、落ち着かない

相手の思考パターンを少しでも そのひとつでも 知っていると、自分が相手に好ましく思われるかそうでないか、ちょっとでもわかるんじゃないかと思う

なにが相手にとって不快なのか 知っていると地雷を踏まないで済む……

 

嫌われるのは恐ろしいことだ

だれにだって嫌われたくない でも 好きでいてもらうことも恐ろしい くない?

好きでいてくれてるということは いつか好きでなくなるという可能性をどうしても孕んでいる

幸せだということが 不幸になる可能性を孕むように、もはや幸せというのは 不幸であるということとほとんど、同義なのではないかと 思うわけですよ

 

相手を否定することは怖い

否定されることよりも することのほうが怖い

わたしが言ってることは間違っているんでしょうか

否定してくる人がいたらきっとその人のほうを正しいと思ってしまうだろう

 

 

 

おわりでーーーす