せなか

 

 

 

ノールックで手を伸ばして青いペットボトルを掴む、薄く濁った明度の部屋のなかの空気を吸い込むとこんなに、しみったれているのにどうしてか新鮮な気持ちがした。

果てしなく遠いテレビ台の上の埃にまみれたデジタル時計がいうには8:06へんなの、このひとはケータイの時計だって24時間表示にしていない。シンプルなのが好きなのだそうだ。いちばんに。

男の一人暮らしにしては嫌に肉厚なカーテンが朝の日差しを遮断している。それでもひっそり分け入る光の筋が舞う埃を照らす。音がしない。住宅街、休日の朝。

日曜日に行くマクドナルドが好きだった、みんな13時くらいにようやくのそのそと起き出してきてお腹を満たしに家族で来る、みんなそう、だから店に漂う怠惰さというか人臭さを愛していた。14時になってもぜんぜん空かないプラスチッキーな店内。おもしろい。

裸の胸が丸見えになりながら炭酸の水を飲んだ。万年床だけが安全地帯に思えるこのいつまでも親しくしてくれない部屋で、隣の男の体温はとても高い。背中を向けて静かに眠っている。よく眠る男だ。健やかに。いつでもどこでも。

短く刈られた髪に指を差し入れて頰を背中にぴたりとつける。5分とこうしていられないだろう。もういちど眠る。

 

 

 

 

おわり☆

にっぽんのふけんこう欲望系だんじょ好きです

 

 

ロングタイムノーシー

 

 

ひさしぶり 元気にしてた?

君が元気にしていようといなかろうと わたしの眼前の君が元気ならそれでいいわけなんですけど

 

「好かれる」ということについては いくつかのノウハウがすでにあって、それやのに「好きになる」やり方を教えてくれるものって世の中には少ない、ほぼない

幸い愛してくれる母親に産んでもらい、愛してもらい方はわかるけれど愛し方についてはまったくわからずに生きてきた

だから超消費的に生きる。生きづらいと感じるしそうやろうなと言われるし、でも、自分に変わる気がなければ変われないのだ……

 

人を好きになるのには勇気がいる 力もいる 時間もいるし スペースもいる

省エネの現代、恋人なんて合理的じゃないんやよね

だからこそ 恋愛において 嫉妬という感情は 高尚になってると思うな〜

嫉妬はめちゃくちゃ強いエネルギーやし

独占したい なんて なんてエロチックなんでしょうね 嫌になるな もう

 

「写真を撮られる」ということについてわたしはめちゃくちゃ敏感です ひとりしか写ってない写真。

なぜなら 写真に撮られてしまえば、その人の個人的なデバイスに 閉じ込められいつでも見られる位置に、近い位置に引き込まれてしまうから。

じっさいに その人が写真を見るかどうかは関係なく、閉じ込められてしまったそのことに対して ある種のショックを受ける。

 

 

まあ考えすぎなんですけど。

 

 

サマライズ

 

 

 

はい、はわゆ

異国にいるとは思えへんほどリラックスしているなうです

レジデンスの共用スペースに陣取って窓辺でコーヒーを飲んでおります

 

お母さまに 関ジャニ∞のDVDをいくつか持ってきていただいたものの、プレーヤーを持ってきていないので観られておりません

こっちにきて ひとりでいるとき、たくさん歌を歌うようになりました

テレビないからかなあ

ゆってもレパートリーが異様に少ないので、関ジャニ∞NICO Touches the Wallsかケツメイシクリープハイプの四択なんですけどね

味わいながら歌っていると ふと 歌詞の意味に気づいたりして 言葉というのはやっぱり面白いなと思う次第です

 

風邪をひきまして先週学校にほとんど行かず寝ていました 二日酔いも重なり。

伏せっている際 あまりに暇なので こっちに来て初めて、日本語で書かれた本を読みました。何冊か持ってきている選りすぐりの江國香織作品から、短編集を一冊。

やはり目を滑らせて意味が理解できる、というのは素晴らしく心地よいことですね。相手の言ってることが、そこに書かれていることが、辞書なしでわかるということ。

そして思いました、語彙がないということは悲しく苦しく辛いことなのだろうなと。

英語の本を読むのはほんとうに億劫です。一、二行読むごとに知らない言葉が出てきて、言い回しの常識もわからないし、まったくスラスラと読めず、したがって内容もうまく入ってこず、漫画なら楽しんで読めますが小説を読むのは苦しい。

日本語で書かれたものなら、学術書哲学書や、専門書でない限りは 難なく読めます。意味を知らない言葉が出てこないとは言いませんが、一作品に一、二度辞書を引けば解決する不自由さです。

しかし英語の本を読んで、日本人でも語彙のない人にとったら日本語で書かれた小説や本を読むことというのはほんとうに難儀なんだろうなと 気づきました。

言葉を知らないということは 言い換えができないということで、人は言い換えることでその言葉や物質、物事への理解を深めるわけで、じゃあ言葉のストックが少ないということは、いつまで経っても物事の表面を撫でているだけ、ということだ。

ああ、言葉を知らないということはなんて恐ろしいんだ。

わたしは今、カナダで生活していますが、英語の語彙は恐ろしく少ない。日本語の語彙だってべつに特別多くもない。

やばいこってすこれは。語彙を増やさなくてはならない。日本語のも 英語のも。

 

やっぱり言葉が好きだ。すべては言葉に依っている。すべてだ。すべて。

だから外国人の友達ができない。言葉を尽くさなければ友情はつくられないから…。

友達をつくられるほど、英語を話せる、理解できるようになるのが当面の目標だ。

浅い関係は結べなくとも深い人間になりたい。酒癖はカナダにきても治っていませんが。

 

 

おわりーーー

 

 

おせきはん

 

 

 

お久しぶりです

カナダにいます、ウェストオブカナダ

バンクーバーから車で5時間、飛行機で1時間弱、観光資源は美しきオカナガン湖とワイナリー、カジノを擁するリゾートホテルもあります

ケロウナというところです、田舎です

休日にうろうろしようもんなら、バスの本数少ないのですぐ同じ学校の生徒に会います

わりと窮屈です

でもとってもいいところです

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インキャやのにいきった写真も撮ってもらえたりします、景色と気候が良すぎて

 

到着したのが先々週の土曜日、今日は二回目の月曜日だからこちらに来て十日になるのかなあ

算数ができないので九、十、十一、どれかだということしかわかりません

ばりばり日本人が多いのでできたお友達も日本人ばっかりです、ひとりの韓国人男性を除いてお友達は みな 日本人です

なので飲みに行ったりすると日本語でぶあーっと喋ります

生活基盤を築いている最中なので、仕方ないと思いましょう

安心できる拠点がなければ動けません、マインクラフトでもそうなのです

 

しかし 物事がすべて英語で進むので、英語を読むのに抵抗がなくなりますし 日本でいたらあり得ないほど英語が聞き取れるようになってきています

逆に日本語を喋るのが下手くそになり、単語が出てこんくなっています、物事を日本語で書くのもめちゃくちゃ久しぶりな感じがするなあ

そういうもんやと思います だからこそ、日本に帰ったら途端に英語ができなくなるのでしょう

 

なによりもっとも驚くべきは、自分が能動的に勉強しているということです

わたしてほんまに英語やりたかったんやあ!と改めて発見した感じです

英語がわかるようになるのが嬉しい、なんてそんなこと思うのがびっくり、

机に、向かわざるを得ないときにさえ向かわなかったのに、宿題出されんくても向かってる!

そりゃあ人々にとったら当たり前ですよ、なんてったって高いお金払って大学卒業したのに留学したんやから勉強すんのなんか当たり前じゃないですか。

でもわたしは違うんですよ。恐るべき怠慢さでもって何もかもを無駄にできるんです

やっぱ無理やーめた、を繰り返してきたわけですよ。

 

そんなわたしが。

学校や勉強というものがなにより嫌いだったはずのわたしが。

ポストイットつこて勉強してる、ばくゎら案件ですよ

 

まあ〜〜〜改めて思うのが、学校て恐ろしい場所ですね。

よく知らない同士が集まって、対個人の関係も希薄なまま談笑しないといけないなんて恐ろしすぎる……

少人数で喋ったりして 友達になってからやったら仲良く喋れても、そうでない場合も喋らないとだめやないですか、好意的に、さも、相手に興味があるかのように。

恐ろしすぎる……

でもそれを簡単にできる人に憧れてもいるので真似しようとして辛くなって失敗しちゃうんですけど

 

まあ、、、

英語勉強するためにケロウナへ来たので

英語頑張ります

片手間に現地妻(夫)つくります

 

 

おつかれさまんさたばさ

あんたがたどこさ ひごさ

 

画面、ぷるぷるぷるぷるポケモンセンター

 

 

 

未だに、死というものはよくわからない。

妹の出てくる夢を見る頻度が減ったことが悲しい、夢のなかでは当たり前のように私のそばに存在する妹。

昨日から今日にかけて、カナダに一緒に留学する夢を見た。出発当日、「なあんや」と思った。

「なあんや、こいつおるなら安心やん。なにを気負ってたんやろう、よかった。」

そう思ったときの心底の安堵は、実体を持たないはずなのに、履歴に残っている。

 

妹がいなくなって 毎日泣いていたけど、母親のまえでは泣かず、いつもひとりで泣いた。

いちばん覚えているのが、自分の部屋で床に座り込んで泣いた日のことだ。

もういないということが、もう会えないということが、もう一緒に遊びに行けないということが、ほんとうに理解できなくて、雑巾を絞るみたいにぎゅうううう、と泣いた。

自分のために泣いたのだ、恋も 友達とお酒を飲むことも 自分で服を買うことも できずにいなくなってしまった妹のためにではなく、自分のために。

 

四年になる。ふと自分がひとりで生きていることの意味がわからなくなるときがある。あれ、どうして平気なんだ、妹がいないのに。

ふつうの顔をして過ごしているけど、四年前からずっとずっと 状態異常で画面は揺れている。

外に友達をつくらなくても 中に絶対的理解者のいたわたしは、だから人間関係について造詣を深めることに興味がなかった。

外の人間にわざわざ、自分を理解させる必要はなかった。受け入れさせる必要も、なんなら楽しく過ごす必要もなかった。外の友達は余剰資金のようなものだった。

継続していく関係なんて 妹だけでいいと信じていた、だから、人との関係を継続させるのは至難の業で、自分から連絡なんてとてもじゃないけどとれないままだ。

 

妹はいま、今のわたしにのみ含まれる。彼女はわたしという人格の端々に染み込んでいる。そうして妹が妹の友達に与えた印象のなかにもわたしは染み込んでいる。

でも、話しかけても答えてくれず 幽霊みたいなものになって来てもくれず 記憶は薄れ 夢のなかでも頻繁には会えなくなる、死ってなんだ。いなくなるってなんだ。会えなくなるってどういうことだ。

 

母方の祖父は とても穏やかで冷静な人だったらしい。わたしが生まれる3ヶ月前に亡くなった祖父。

印刷会社の社長で、自費出版で本を出し、たいへんな読書家、娘を愛し、20ほど歳下の妻を甘やかし過ぎ、早くに死んだ。

彼の悪いところは早くに死んだというところだ。生きていればわたしはもっともっと賢くなっただろう。もっとたくさんの本を読み、教養を深め、あともう少しだけ愛を知る。大人に。

母親の 少ししかもらしてくれない思い出話のなかでしか会ったことのない祖父。死ってなんだ?彼はたしかに存在したらしい。

 

死の話題は暴力的だ。

身近な人の死を経験していない人にとってはとくに暴力的だ。

否定を許されない、デリケートに過ぎる、有無を言わせぬ話題。

だからメッセージ性を持たせてはいけないと思う。間違っても、わたし自身言ってしまったことがあり後悔しているが、「生きてるうちに親孝行をね」なんて、若いわたしは言わないほうがいいのだ。

適正な時期に親を 家族を亡くした人たち、マジョリティにのみそういうのは許される。

マイノリティの放つ言葉はときとして強すぎ、人々の心に食い込みすぎる。あんまりよくないと思う。否定できないほどの力を言葉は持つべきでない。

だからわたしは ただ、死がわからないということを書くためだけに書いた。同情させるためでも、家族に優しくしようと思わせるためでも、なんでもなくただそこに生まれた思考を言語化するためだけに。

最近よく聞く言葉だが、それぞれに地獄はある。比べることに意味はない。父親がDV野郎でも生きてるだけマシやん、なんてぜったいに言いたくない。

 

死ってなんだろう。永遠に会えなくなるってどういうことだ。そのただなかにあってさえ、あんまり意味がわからない。ずっと状態異常だ。みんなにもあるだろう、その範囲がもし足の小指だけであっても、治らず存在し続ける状態異常。

でもそんなことは関係ないのだ。わたしがそれを抱えている。誰にも同調されたくない、同情も調理も言及もされたくないいちばん生の場所に抱えている。

ステイタス化する必要はない。笑い話にする必要も、酒の肴にする必要も、コミュニティを築く材料にする必要も、弱さを見せるための道具にする必要も、ない。ぜったいにない。そのままで持っておけ。そのままで持って大人になるんや。

なんて、他でもない自分に言っていたりする。

 

 

酒飲みてえ

 

 

にげたな

 

 

 

さて

ひさしぶりのにっき!!!

 

なぜならこの卒業式前後、わたしはまっっったく文章に触れることをしていなかった、創作にすら触れてなかった、読むことは2日くらいまえようやく再開したけど映画はまだ観ていないし創作もいっさいしてない。

それほどに卒業とは、大きなことだったのだ。創作はいつだって逃げ道だった、あたたかな子宮、木のうろ。べつに逃げ込むためだけのものってわけじゃなかったけど。

そういうものから距離を置いて、母性を離れ外の世界で、わたしはめちゃくちゃ頑張った。

別れというものの動かす人間関係と向き合った、まあ、向き合って向き合ってああ!もう無理です!ってなって「お笑い」という創作に逃げ込みふたたびの木のうろのなか、なのだけど。

だからまあ今回だって逃げたわけだ、人間から、また。

でも自分にしては最大に頑張ったぞ!なにしろインプットに丸々脳みそ使って、まったくアウトプットしなかったんやから!おう!そうやわたし頑張った!頑張った〜ああ〜

 

きついことあって 期待されて 応えようとして自己嫌悪とか、アルコール由来の大暴れとか、まあ。

卒業式周辺ってどうしてもやっぱり、もう終わりやし!ってことでゆらゆら、あるじゃないですか。

それで 基本的には だから集団向いてないなとか、男の人はずっと謎だとか、改めて自分の人間関係スキルのなさ、その怠慢、に萎えてきたわけです。

もう無理無理無理無理!ってなったときに、オールナイトでNGKで、毎月お笑いやってるんですけど、そこで見取り図とか観てちょっと元気になって

その数日後に プリマ旦那の単独ライブで復活したわけです、やっぱり創作がわたしを救うのねと、漫才も創作だと気づいたいま、思うのです。

そうしてまた逃げ込みましたねと。向き合うことから。受け入れてもらうことから。受け入れることから。受け入れる必要のないことを受け入れようと頑張ってしまう自分から。

 

カナダに行くのです。9日後です。

数ヶ月経てば英語でものを考えるようになるでしょう。まるで変わるんだろうな、思考回路のつくりかた。

さいきん、自分に自信が並々ならぬほど出てきて、大学に入ったとき、いやいや数ヶ月まえ、から考えてさえ魅力的になったと思います。

たぶん ハタから見たら やっと人並みマイナス2ぐらいにはなったか て感じでしかないやろうけど

そんな まあ数ヶ月まえと比べてさえ変わっているわたし、カナダに行ったらどうなっちゃうんやろう

こわっ

でもわたしは 他ならぬ自分を育てていくと去年ぐらいに決めたので、良さを殺さないように頑張ります。

大切なのは変わることと変わらないことだ。

どんな自分に会えるか楽しみだ。

アディダス

 

 

駐車場の異様に明るい電灯

 

 

 

さて

 

 

心は あるいは脳みそは 知らずにダメージを負ってるから恐ろしい、マイナスな言葉を発すると自分まで傷ついてしまう、相手が不在なら傷つくのは自分だけ

なんちゅうこっちゃ。

 

 

団地を見るとき、あの光のひとつひとつの元に何人かずつ宿っていてそれはすごく寂しくないことだ、でももしそのなかに独り暮らしの人がいたならその人が寂しさを感じるときに実は寂しくないことが電車から見ればわかるよと言ってあげたい。

言ったってその人は寂しい。わたしは誰にも寄り添わない。

 

 

寂しさを蔑ろにする人は豊かになれない

しかし口を開かずとも空間を誰かと共有しているとき、数少ないそういう時間、"孤独でなさ"に驚く。

ひとりじゃない 寂しくない 自然にゆるりと繋がり離れず空間いっぱいに人の気配がふわりと充満していて 息苦しくなく緊密に。

寂しくなくなるために無理をするのは最悪やけど、個人の形を保ったままで孤独を打ち消してくれる瞬間は貴重だ、あれには言葉至上主義のわたしも言葉などいりませんね、と言ってしまいそうになる。

 

 

大人になっていく。

全身で体当たりをして 相手も傷つけ自分も存分に傷つき、ついた傷を知って自分の身体の一部として取り込んで。

いろんなことに対してそれをして つまり経験を積んで 人生にその都度対処していって、大人になっていく。

わたしたちは大人になっていくのだ、驚きと諦念と対抗心とその他。

 

 

家族の問題がそのまま、その人をつくるということは絶望的やな

傾向、パターン、星型ハート型スノーマン型のわたし達はクッキー。

どんなふうにだってなれるけど飛べない、家族は鉄でできた靴あるいは靴を地面に刺した杭につなぐ鎖あるいは杭そのもの

だから都会は必要なんやね

だから故郷を出なくてはならない

 

 

遠くから見たらよくわかる

でもそれにはひとりにならないといけない

なにかを感じる心を無視したらあかん、削れていってなくなってまうらしいから

 

 

おわり〜