あきがきたよね〜

 

 

秋は ほんとーに食欲の秋ですね

すーしーからね なんでも食べられるね

ラーメンからお鍋から アイスまでいけるからね

ホットコーヒーから フラペチーノまで飲めるからね

 

こないだまで ミドルぐらいの歳 以上の方が食べるもんやと おもてた柿

めちゃくちゃ美味しいね

もう 歳かね

 

みかん美味しすぎて 一回に五個からいけるね

 

最近好きな飲み物は アールグレイティーにミルクとハチミツ入れたやつね あったかいやつ

めちゃくちゃ美味しいね〜あれは

あと外やったら スタバかタリーズでソイラテのアイスにハチミツ入れたやつね

ハチミツ好きやね最近ね

コンビニやったら 紅茶花伝のレモネードティーやね

カナダでいちばん美味しい飲み物こと スタバのブラックレモネードティーと 似てて美味しいね

一時期自分で ハチミツレモン漬けて愛飲してたけど 手間やったし 意図せずミード(蜂蜜酒)作っちゃってたから コンビニで買えたら嬉しいね

 

めちゃ 埃が出る 新しい家。

大阪やのに窓を開けっぱなしで生活してるからかな〜

 

なんでも笑って受け流してたらあかんのかなあ?

 

今日はタットリタンを作って食べたらめちゃくちゃ美味しかったよ。

 

 

つぶやきが長いやつ

 

 

 

少し頭がいかれていたと言えよう。

とは言っても、この頃の私は常にとごかのネジが外れているあるいは緩んでいる感じがしているので、常時静かに気が狂いver.ではある。

大学生のころは煩く気が狂いver.やったかもしれない。

正気のときなんてしょーじきない。とかいうことはまあともかく

 

世界が私に優しくない(と感じる)ことと、私が小説家になると言うことをやめるということは 直接的に繋がってはいけないことのように振り返れば思う。

もちろん 私は 外的なものから独自に抽出した悪意によって自分を無価値と感じ、自分の書くものも同様に無価値だという結論を出したわけなんやけど、でもそれにしたって「こういうこと言ってきたお前らのせいで私は……」みたいな言い方は ちょっとなかったなと思う。

 

私はいつだって剥き出しだ。剥き出しで痛々しい。

たぶん 私に対して剥き出しで、発展途上だった人たちが投げた言葉だってただただ無邪気で可愛らしいものだったんやと思う。(決してそうは思えないが、まだ)

それの同じくらいのぶん私は人々を傷つけてきたし。

 

なんというか全部未消化なのだ。消化器官が強く生まれてきてないし。

運動神経が悪いので 瞬発的に投げかけられた言葉に反応できずにあとで咀嚼して うわ これないわ、なさすぎるわってなっちゃうんだ。

 

加えて、ここ数ヶ月 男の人と手を繋いで歩くということをしてない、ってことがどうしても私には大ダメージらしい。

大学生になるまで いっさい 私の人生には男性たちはいなかったのだけども(必要なかったともいえる)、久しぶりに 完璧にひとりになったいま、自分のバランスをとることがすごくむつかしい。

なんてこったいこのテータラクは、びっくりしてしまう。自分を可愛いと言ってくれる男性が近くにいないだけでこれかと。

私はまるで道路を歩く理由を持たないし、おでんを食べる理由も持たないし、服屋にも入れないし 季節を楽しみに出かける理由も持たない、誰かと一緒でなければ。

そういうことにきちんと向き合わないといけない。

ずっと人と対等でいることに忙しかったから、自分の持つ不安定さと対峙し、物事をひとつひとつ咀嚼して胃液で溶かし切ってしまわないといけない。

まだ ひとりでトイレに行けず妹をドアの前に立たせていた頃のままなのだから。

 

小説家になろうとするのをやめるのは、自分が「小説家になりたい」ってことをもうラベルにしてたと思うからだ。

そこんとこにいつも敏感なつもりだったのに。

「小説家志望」っていうラベルで自分を表現しようとするのが気持ち悪い。なんというか悦に入ってる感じするしどうしてもオナニー感が拭えない。

拭えないなら公開オナニーをやめて自分ちのベッドでだけオナニーしましょうという話だ。

「公開オナニーできる自分」を できるってだけですごい奴やろ、的に、もうこれ以上ドヤりたくない。

もちろん 当たり前の話、小説家志望の人を馬鹿にしてるわけでも、非難してるわけでもない。

自分の目標をおっきく掲示して退路を絶ってこそ頑張れる人たちがたくさんいるだろうことは想像にたやすい。

なんでも 夢や目標だけじゃなくても ステイタスにしてしまえば やりやすいと思う。

逆にいうと そうできないから私はコミュニティに属せないし ひとりぼっちなのだ。

 

まああと単純に自傷行為の端くれでもある、小説家になりたいと思うのをやめるってことは。

運動しに外に出て もっきもっき歩きながら静かに泣いてそう決断したとき確かに胸のどこかになにかが突き刺さるような痛みみたいなものを感じたし、それはじっさい気分が良かった。

自傷行為っていうのは気分がいいんよな。自分をもっと可哀想にすることで もっと可愛く愛せちゃうような感じがする。

 

書くことはもちろんやめない。

イデアは ふっと生まれてくるしメモされてしまう。

でもそれをなににもしない。

夢はなんですかと聞かれてもこれからは小説家になることですとは言わない。

私の書き物を少しでもいいと言ってくれた大学の友人たち、授業で一緒になっただけの人たち、本当にありがとう。

ぜんぶ覚えている。

でもそれを ひとつひとつ印刷して自分に貼ってしまったら駄目だと思うのだ。

過去の彼女たちに読んでほしいと思えるものが出来上がったら 情けなくも連絡してみよう。

 

 

 

 

 

 

誰も傷つけたくないし誰にも傷つけられたくないよ。

傷つけた人に謝りたい。傷つけてきた人に謝ってほしい。

ずっと抱えたまま生きていこうと思っていた穴を見ないふりしてきたのは生きるために仕方なかった、無になっているいま 苦しむのも仕方ないな。

 

 

it's done, people🤟

 

 

 

小説家になろうと思うのをやめようと思う。

自分の書くものが世間的に価値を持ちそれでお金を稼ぐことができるなんて信じられてたことこそがグノコッチョーという感じがする。

 

私というのはほんとうに何もできない。周りの人々が なにかひとつ これやったらスルッとできるってものが見つかりそうなリストにひとつとしてチェックをつけられない。

掃除洗濯などの家事は基本怠け気味で普通の人がやる3倍以上の時間がかかる

当然 運動はからっきし

音楽的センスもない

楽しめることと言えば映画か小説だけで なにかのオタクというわけでもない

コミュニケーションをとるのが下手くそなくせに一人になると寂しさに押し潰され

自分自身がじゅうにぶんに痛いくせに痛い人を痛いと笑う

友達が多い方でないから休日はひとりやし かと言って働き者でもないからたくさんの休日を無為に過ごしてばかり

要領が悪いくせに 自分よりできない人、つまり極端にそれに慣れてない人には苛立つし

狭量なのに寛大で関わる相手を戸惑わせる

冷静ではない、イレギュラーに弱いくせに情熱的でもない

見た目もよくない、太っているくせに傲慢

地図も読めなければ計算もできない

YouTubeみない TikTok持ってないくせに 純文学も読まない(読めない)

 

ちょこっとした長所をあげるとすれば

受け入れるふりがちょこっとうまい ということか

 

その長所みたいなもの、というよりその皮を被ったなにか、のせいで 私は 「こいつになら何を言っても大丈夫」「どんな失礼なことしても大丈夫」と思われることが多い。

相手の意図するところとは 別のところで私はサンドバッグに静かになっている。

まあそれで悦に入れるならいいんちゃうってそのときは思う。それなら女の子にとって私と付き合うメリットはゼロやと思うわけやけど たぶん女の子にもそういうのを発揮してるんやろう。

 

私は忘れていない。

家庭環境もぜんぶ話した当時の友達に、「あなたに父親がいないとかのマイナスと私に彼氏ができないというマイナスはおんなじようなもので 私にとって負い目を感じざるを得ない要素なの」みたいな感じに言われたこと。

あの人の「なんでもっと効率よくできひんの」という言葉、「こんなこともできないのか」と語る表情。

「君のそんなことよりも自分の置かれている立場のほうが断然キツい」とサラリと言って抜かした人たち。

イニシャルでぼかされて目の前で繰り広げられる私の悪口。

 

そのすべてに私は怒らなかった。

じっさい 私には決定的に なにかが足りず、私のできることは少なく、それらを埋めるための努力もしていないからだ。

私は自分に 自分のまま愛される権利があると思っていた。勘違いしていた。受け入れられなかったから 酷い態度や言葉を受けて、そして私自身が 自分を受け入れられないから それらをへらへら 甘んじて受け入れてきたのだった。

 

もう終わりにしよう。

自分がなにかを為せる人間だなんて思うのは。

でもそう思わせてくれた人々、暴君のように振る舞っても慕ってくれた妹、明らかに愛らしい見た目や性格をしていないのに可愛いと愛してくれた母、には感謝したい。

勘違いをさせてくれてありがとう、幸せだったな。

自分の書き物が出版されると思うなんて本当に馬鹿げていた。

そんなことないよって言って欲しいわけじゃないのは、閲覧数がゼロに等しいこの場で言うのだから確かだと思う。

情けない。私の書き物、その出来は如何にせよ続けることが大事だ、いつか日の目を見るはずだから、なんて言われてしまうほうが情けない。

私にはなにもなせない。できることがあまりにも少ない。なにもしない以外をできない。

なにもせずなにかを観察することしかできない。

 

だから 世界一周旅行には いつか行きたいと強く思っている。

私にできることは見て比較して好きなものと嫌いなものに分けることだけだからだ。

せめてできることぐらいできたらいいと思う。

それがなにになるの? とは もう 聞かないでくれたらありがたい。

でも聞かれてもきっと怒らないだろう。

あなたにとって私はどんな失礼なことを言っても態度をとっても"大丈夫"な相手だからだ。

私は脅威になり得ない。

大丈夫。私なら許してあげるし受け入れてあげる。ただ 自分についた傷を絶対に忘れないことがあなたにとってなんの損になろうか。消費してくれたらいいと思う、今までしてきたように。

 

 

これを読んでる人は本当に少ないので読んでしまったならもうなにかの運が悪かったとかそういうことだ。

可哀想に。

明日 あなたが事故で死なないことをちょっとだけ願おうか。

 

 

箱のなか

 

 

 

好きなもの、ことはたくさんある。

 

江國香織の『神様のボート』という著作のなかで、「でもそれは"箱のなか"だ」という表現がある。

主人公のシングルマザー・葉子は かつて恋に落ち、必ず戻ると言って消えた男を待ちながら日本中を引っ越ししまくる。恋に落ちたときに授かった娘の草子とふたりきりで毎日を暮らす。

娘の草子が 引越しを嫌がったときに、諭すように主人公はその概念を教える。

楽しいこと、楽しかったけど過ぎたこと、は もう 箱のなか。

その話をしたときに 葉子が着ていた服は華やかな花柄のスカートだった。草子は、もしその箱に実体があるなら、そのスカートの花柄みたいな見た目をしていると思った。

 

私には でも 箱はふたつあると思う。私のなかには。

ひとつは 蓋がぴったりしまっていて、なにかを入れるときにさえ開かない箱。

もうひとつは いつものものぐさで 蓋を失くしてしまって 開きっぱなしの箱。

 

蓋のしめられた箱は たぶん夜空の柄で 樹脂かなにかでできてて繋ぎ目がない。

もうひとつは 人を小馬鹿にしたようなピンク。小さいのころの私が嫌いやった色。

 

夜空のほうの箱は 開けようとしたらテコでも開かないくせに、不意にぱかっと口を開く。

過ぎ去ってしまったもの。もう二度と戻らないもの。

そこには家族に関するものが多いし、自ら望んで手に入れたわけではないのに 手元に転がり込んできたものばかり、ばらばらと入ってる。

今となっては使い道がないものもの。

それなのに光り輝いている。絶対に手にとれないのに。手にとれないのにとても重い。私のリュックが重いのはこの箱のせいで、でもそれはそんなに嫌じゃない。

 

ピンクの箱には ケロウナの夏の青い夕方とか サービスエリアのコーヒーとか 秋の公園とか 住宅街のお風呂の匂いとか 居酒屋で各々の飲み物とシェアされた食べ物ののったテーブルとか が入ってる。

箱の蓋はしまっていないので、好きなときにとはいかないまでも、然るべきときに手にとることができる 素敵な お気に入りの、でもコーディネートを選ぶアクセサリーのような形をしたものたちがごっちゃになって入っている。

 

どっちの箱に入れるかは 自分じゃ選べない。

宝物のひとつひとつが どっちに入るのが適切か知ってるみたいに しばらく置いておいたらどちらかの箱に入っていくからだ。

 

 

好きなものはたくさんある。

 

たとえば カナダで 友人たちと話しているとき、コリアンの男の人が"I swear to God"て言ったこと。神に誓ってほんまって意味。

どの神さまに誓ったんやろうって想像する。やっぱり無難にキリスト教かなって思う。

私がもしその言葉を口にしたとき、「なんの神?キリスト教じゃないくせに」って言われたら、「日本にも神様がいるんやで、それもたくさん」て言おうと思ってる。

 

それで言うと お地蔵さまとか お墓参りとか 好き。

どこかの占いかなんかで 私には先祖のバックアップがめっちゃあるって言われたそうだ。私は実際には聞いてなくてママが聞いたらしい。

嬉しいと思う。私はまったく信心深くないし 神社とかでお祈りするような デカい神様は信じてない。(もしもぜんぶ見てくれてるデカい神様がいるなら私の周りで起こった不幸の説明がつかないから)

でも 古いものやなんとなく神秘的なものは信じてるから お地蔵さまや お墓を見たら ぜったいに100%黙礼というか お参り?というか する。

おばあさんになったら 近所のお地蔵さまをお手入れする係になってもいいと思う。

お地蔵さまは デカい神様の化身やってことやけど まあ それは置いといて。

そういう 土着の 地域密着の 信仰と それに呼応する なにかってあると思う。

なんかやばい人っぽい? 大麻合法化運動とかしてそうっぽい?

ネイチャーラブみたいな人っぽい?

違います。

 

新型コロナ感染防止のせいでマスクをして外に出ないといけないから もっと好きになったことは、口紅を塗ること。

必須事項だった頃のそれはおざなりに済まされていたけど、今はちょっと丁寧にやっちゃう。

車でのお出かけのときとか お酒を飲む予定の日とかだけ 塗るそれは 顔色をパッと明るくしてくれるし、「きちんとした女の人」みたいな気持ちになるから大好き。

べつにきちんとした女の人ではまったくないんやけど。気分だけはね。

キスマーク(首についてるやつじゃなくて手紙とかについてるやつのほう)が 魅惑的なのは やっぱりあのシワのせいよね。とか、つけすぎた口紅をティッシュオフして 思う。

 

あとタイトスカートを履いた女性のお尻の膨らみも好き。

若い男の人っていちようにお尻めっちゃちっちゃくて 脚も細くて すごいけど やっぱり女の人の ある程度たっぷりしたお尻の丸みと それを強調するようなタイトスカートは まじでいいと思う。ずっとみてたい。ほんまに性的な意味じゃなくて。

 

古い遊園地とか、サービスエリアの 食堂の"施設"感、煌々と輝く室内灯(ときに蛍光灯🥺❤️)と真っ暗い外の景色との対比 あれはほんまに大好き。

こういうの。

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でも そこに存在してて、どうしていいかわからんくなる。

どうしたいのかも。だから長居はできなくて、写真とか撮ってすぐに立ち去ってしまう。

 

お寺に入るときに手につける粉の匂いも好き。というのは、風邪ひいて改源飲んだらそんな感じの匂いがしたから。

塗香っていうんやって。お寺に入るときたまにつけるやつ。ウコンとかニッキの匂いなんかなあ。

 

曼珠沙華も好き。同じような理由でトケイソウ も好き。

あの技巧は なんだ? って毎年思う。誰がつくったんやろ?

曼珠沙華においては、何本か同じ場所からウワッと出てるの怖いし、"生え始め"を見たことないのも怖い。いつのまにかおるからむっちゃ怖い。お彼岸を狙ってちゃんと生えるのも怖い。ぜったいなんかあると思う。ぜったいあるよな?

 

 

 

ぜんぶ 箱に入れるほど離れてしまってないか ピンクの箱に入ってるか のものたち。

好きなもの、ことは たくさんある。

 

さいきん私について友達が言ってくれたことでとても嬉しかったのがある。

「人の良いところを見つけるのがうまいね」って。

私は「そのぶん嫌なところ見つけんのもうまいけどな!」って恥ずかしくて言った。

友達は「それはそう」。

好きなものがたくさんある。でも嫌いなものもいっっっぱいある。 

それだけ たくさんのことに 興味があるのかもしれない。でもほんまに嫌いなものめちゃくちゃある。

男の人のキツすぎる香水とか プリントの感触とか 大きい声とか 待ち合わせの約束とか………まあそのときにならな あんまり思い出されへんけど。

 

ぜんぶ 意図的に 蓋のある箱のなかに入れてしまうことは 悲しいけど 潔くて身軽で ある意味美しいことやと思う。

でも私は まだ子どもで ぬるい現在を生きていて 蓋のない 人を小馬鹿にしたショッキングピンクの 子どもじみた箱のなかにひとまず入れておけると信じたいものがいくつかある。

まだ いまに繋がっているもの。まだ切れていないもの。手繰り寄せればてもとに戻ってきてくれるもの。

 

どちらの箱も なかったら 私は ほんまのひとりぼっちになってしまうので 捨てずに持っていられたらなと思う。

中身はたぶん増えていく(ホープフリー!)から、持ち続けていられるように鍛えなくちゃね。

 

カフェイン摂取したからトイレ。

 

 

出がらし

 

 

 

最近それはもう鬱々と暮らしていたのだけれども。

 

このところ人間との相性がどうも悪いみたいで 嫌な思いばかりしている。

永遠に戦いなのかもしれないと思うし、そばにいてくれるのは冷たく突き放しながら同調し共鳴する女の友達だけなのだろうな この先、ずっと、という確信めいた気持ちがぽっかりと胃の中に浮かんでいる。

 

自分の魅力が、今まであったとすればいま、しゅうんと オーブンの中でしぼむ失敗作のシュークリームみたいにpuff!しているのだが。

それを人と会って叱咤してもらったり 話を聞いてもらったりしてなんとか 宥めようと その荒れ狂う自己否定の渦から逃れようと したが負け続けていた。

とにかく 見た目だけでも魅力的になってみようと思い 人生でいちばんストイックなダイエットを続けているところだ、とにかくたぶん足掻いている。

そんなことをしながら 昔の写真を見たり 何度も繰り返し観た映画を観て泣いたり しばらく離れていた いちばんの作家の本をまた読んでみたりしている日々、まるで亡霊だ。

 

誰かのニーズに 無意識かつ全身で応えていたはずの過去の輝く私の塊をなぞるような ナンセンスな ナイーブな今の私。

「なんか変わったね、もっと〇〇だったのに」と言いながら(〇〇の部分は明言されていない)SNSのアカウントを悉くブロックしてきた元彼とか

変わり果てた私のために戸惑って泣いて前の私を返せと言わんばかりにくれた友達とか

世界からまったく興味を失われて出がらしのような私、に興味があるかに見えて そうではなかった人とか

そのいちいち ぜんぶに 私は傷つき 今の私を否定していた。いつもの被害妄想、やけど。

まあたぶん 今も多少なりともしている。

 

私はしっかり傷ついたと思う。

「そんなこと言ってくる男が馬鹿だ」と女の友達に吐き捨ててもらって、少し癒えても、私は私にだけ意味の分かる範囲でずっと傷ついた。

 

東京に旅行に行って友人たちと過ごした以外、一人暮らしの私は毎日毎日毎晩毎晩すべてを反芻して何度でも傷ついた。

膿んだ傷を自分でぐりぐりやった。律儀なマスターベーションのように。

 

で、いま、PMS真っ只中、本来なら精神状態がひと月でいちばん悪い時期、に、まーーーいっか!と ぽんっと思った。

いまの私は亡霊だけども コロナのせいでどっち付かず 就職もできずに海外にも行けない フリーターをやろうにもシフトが削られ続けている し 男の人が周りにいないからWi-Fiの接続にさえまるまる1ヶ月かかってしまう けれども

まーーーいっか。そういう時期か。なんか。

いまの自分にできること、イコール ダイエット、をするか。それから考えるか。

と 降りてきた。江國香織の『いくつもの週末』を改めて購入し読んでいたら ぽんっと。すとんっと。

 

亡霊みたいにおばあさんみたいに一人ぼっちで枯れていてもいいっか。

毎日の楽しみが読書と 他人の世界一周ブログを読むこと ぐらいしかないけど いっか。

バイト先にまったく馴染めてないけど いっか。

なにかを相談できる友達がすぐにアクセスできる位置に誰一人としていないけど いっか。

 

悲しみが限界に達したとき はるばる会いに行けば会ってくれる友達おるし、

地元にひとりだけ当てはおるし。

 

けっきょく 妹がいなくて そこから今まで 忙しくやり過ごしてきただけなんやし。

 

亡霊でいいっか。

今はね。

そのまま25を越えたら それはあかんと思うけど。

24までは いっか。

23はそういう歳か。

 

出がらしの私はそう思うのだった。

 

いつか輝く実体を取り戻すそのときまでさよならだよ諸君。

カポーティの原作のほうのティファニーの女の子みたいになったらまた姿を現そう

 

 

 

 

腐りかけの果物を美味しいと感じる味覚

 

 

 

自ら死を選ぶに足る確信というのはたぶんあるような気がする。

それはなんとなく 「もう生きててもしゃあない」とか、「死んだ方がマシ」とかいうマイナスな感情ではなんとなくない場合があるように思う。

「死ぬしかない」という確信。

ときどき、「これしかない」と思うときというのはある。

ショッピングの場面で、文章を紡いでいるとき、「このワンピースを手に入れなければ」「これはこの言葉でしか表せ得ない事柄だ」などという確信に出会う。

それと同じようなものの気がする。

「死ぬしかない」、それは、ワンピースを買うときに人に褒められる場面を想像していないのと、この言葉のチョイス最高と言われるために文章を書いていないのと同じように、結果について想像の余地はなく、ただ「これしかない」という決断。

もちろん閉塞感に、世間に、将来に、家庭に、押し潰されそうな心を抱えて、しんどい結果の自死かもしれない。

でも それらに押し潰されそうでも踏ん張る心の強さの無根拠さと同じように 自死へ向かう気持ちにも根拠はなさそう。

死ぬ理由がないことは 生きる理由がないということと大して変わらない質量ではないか、生きるための気力とか そういう基本的な物事が欠けたときに容易く人は死ねるのではないか。べつに責められるようなアレもなく。

 

自殺をする人としない人との違いはなにか。

それはもちろん自殺を本当にしたかしないかだろう。

でも思うのやけど、その二つを違うものとしている、生と死をわけている塀は常に高さを上下していて たとえば南大門の敷居くらいまでその塀が下がってきたとき、ひょいと飛ぶ理由、ちょっとの理由がもしあれば、人は死ぬのではないか?

 

殺人よりも自殺のほうが いくぶん私には親しいもののように思える。

リヴァーフェニックスが死んだのは23歳、いまの私と同い年のときだ。オーバードーズで死んだ。

私は?

じゃあ カナダでコーヒーを飲み過ぎて身体を壊したときに カフェイン中毒

たびたび飲み過ぎるお酒のせいで 急性アルコール中毒になって

死ななかった理由がないのだ。

そして自分、23歳の自分は、死ぬことを決断しても いいように思う。

"若過ぎる死"なんて表現はちゃんちゃらおかしい。

23歳でも 死ぬことを選ぶことはできる。

死を選ぶ根拠は、じゅうぶんある。

 

自暴自棄とも言えるだろう。

べつに 私と、ちっぽけな、世間において無価値の・私と、リヴァーフェニックスをおんなじ土俵にあげるわけじゃないけど、彼が死んだその理由と似たような理由で今まで何度も私は死んでいたかもしれない。

そう思うと 自分が生きていることと死んでいることの境が曖昧にぼやけてくる。

私は死に得た。今までに。

 

病気や事故による悲劇的な死と それは違う。

自死や 何らかの中毒は ぜんぜん違う。

自ら死に向かうこと。

死ぬしかないという瞬間、敷居がぐわっと下がってきて ほんのワンステップで向こう側へ行けてしまう瞬間、それって恐ろしいものだろうか?

確かな形の解決策は もはや舌に甘い。

 

不安や期待、裏切りや幸福は 死の原因になるだろうが

それとは違う場所にあるスイッチで すべてが噛み合い動き出す。

天国とか地獄とか 思考の外だ。

家族とか恋人とか友達とかそれらが一堂に会するお葬式とか

まったく関係ない。

関係ないのだ。

 

 

ポケットに文庫本

 

 

小説なんてものはゲームやYouTubeとおんなじ娯楽だ。

たちが悪いのは、話題の共有が難しいこと。

「あのゲームどこまで進んだ?」「あのユーチューバーの新しい動画みた?」、他の媒体には通用する楽しい仲間とのお喋りは、小説には発生しにくい。

読書というのはいろんな意味で閉鎖的な趣味だ。小説を読んでる途中の人に、人は話しかけづらい。

いいことと言ったら 他の娯楽より推敲がちゃんとされてて、正しい二字熟語を学べること?

とはいえ実用書みたいにすぐに生活の役に立つ即効性もないし 自己啓発本みたいに自分に自信を持たせてくれるものでもない。

 

でも私には、大事なことや救いは、すべて小説が与えてくれた。

 

「活字が好きなんやね」「ロマンチストなんやね」

そうじゃない、もっと実際的に 私には小説が必要だから読んでるんだ。

 

タイトルではっきり示されたことを順序立てて論理的に教えてくれる、バラエティ豊かな実用書と比べて、小説にはいつも同じことが書いてあるかもしれない。

いつも真実の愛とか家族愛とか孤独とか絶望とか、要約すれば一言で終わるようなことを長々と書いてあるかもしれない。

私が読む小説の、どれをとってもメインテーマは等しく同じかもしれない。

でも、私は言い換えを必要とする。

本質、メインテーマ、の周りを何度もぐるぐるぐるぐるぐるぐる回ってやっと見えてくる本当のことがある。書き手が伝えたい、真実の事柄がある。この世の真理がある。簡潔に一文で表されたって到底信じられない、疑い深い人間なのかもしれない、私は。

信用できる文章を書く人の訴えることはほんとうだと思う。

だから私はそれを指標に生きている。

 

VRの装置をつけなくても他人の人生を追体験できるのは、文章を読む力が自分にあるからだろう。

小説のなかで描写された夏を、暖房のなかで思い起こせるのは自分が小さい頃から夏をきちんと味わっているからだろう。

花々の美しさを、花の名前をなぞるだけで頭に咲かすことができるのは、自分がそれらを教わってきたからだろう。

 

算数が数学が英語が、

もし育っていく過程で要らなくなっても学ぶ必要がある科目なら、

国語もぜったいにそうでしょう。

 

私にとってチイちゃんのかげおくりが、くじらぐもが、森の音屋さんが、あたたかいスープが(ぜんぶ国語の教科書に載ってた小説!)大人になっても深く心に残り、そらで内容を言えるほどどこかで大切であるのと同じように誰かにとってもそうなのだ。

そしてそうであることでなんらかの人生のきっかけを掴み、生きてこられた人は、いる。

普通の人間代表のような私がそうなのだから、たくさんそんな人間はいる。

 

映画や小説を必要としない人間がいる。

強い人たちだと思う。

怖い人たちだとも思う。

だって 創作物を必要とする弱い私を容易く無自覚に傷つけてきそうだからだ。

臆病なのだと思う。自分だけが没入できる決してオープンワールドじゃない限られた無限の、親切にすべてが言い換えられた、わかりづらいのにわかりやすい、世界が必要なのだ。ときには逃げこむために。

 

そしてそんな世界が、悩める小さな子どもに必要ないとどうして言えよう?

家庭に圧迫される中学生に、進路に悩む高校生に?

 

想像力不要の、偏った、母国語さえ正しく使えない人が発信するツールで満足出来る人は、どこででもやっていけるんやろうな。

ボディーランゲージだけ使って世界一周もできるし、世界中に友達も作れると思う。

羨ましい。と同時にそうはなれない自分が好き、小説好きの読書人間なんてこんな捻くれた自己愛をぐちょぐちょにして心に持ってるからたち悪いのですわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

追記

 

まあ

絵画展で「表現するって、いいよね〜」とか言ってた髪色奇抜な大学生風の女二人組

Twitter(200何文字?)の感動ショートショート(笑)書いてるやつ

「ユーチューバーが耕したYouTubeという土壌を芸人は土足で踏み荒らしてる!」って喚いてるYouTubeファン(?)

ぜんいん、ムカつくんじゃ、腐った脳味噌耳から垂れ流して暑さのなか溶けたコンクリートの一部になってしまえ✌︎✌︎✌︎