お風呂あがりのギャランドゥ

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重たい脳みそ

 

 

 

私というのはいつもこうである。教室の、前から三番目、出口から二列目の席に座ったAは、緑色の黒板を見るともなく見ながら思う。

私というのはいつもこうなのでこうなってしまったのだ。去る者を追う勇気もなければ来る者を拒む勇気もない、途方もないくらいに臆病者だから、なので、こうなっているのだ。

こうというのは具体的にどうかといえば まああれである。Aは単に寂しいのだった。物理的な寂しさではない。友達だって少ないけれどいるのだ。多くても息がつまるので、少ない方がかえってよろしい。大切な人間が多いほど人を大切にできないたちなのだ。そういう寂しさではない、ではなぜ寂しいのか。

楽しいことに飛び込めず、楽しいことを持続させる努力もできなくなってしまったことが寂しいのだ。これは成長(、あるいは老い?)と言えるのだろうか。

言えてしまえば 成長糞食らえ、と思えもするがそれができて何になろう。成長はとっくに高さのピークを超えて、あとは老人になるまで下がってゆく一方だ、私の鮮度は。

それとは別に(つまり下がりゆく鮮度とは別に)、そういう時期なのだろうか。世の中の女性の気性はだいたいがその言葉で片付けられがちであり、そして案外そのラベルは的を得ないわけでもないのだ。しかしAとしてはそのラベルもまた気に入らない。個人個人で別であれ、と思うのだ。百均のラベルにサインペンで走り書きしたような、そんなクソみたいに無個性なラベルを貼るな!自分に貼るラベルくらい、自分で、例えばパソコンで作って印刷したり色とりどりのペンやキラキラのストーンやでデコレーションしたりして、作らせてくれよ!「世の常識」とかいう幻想を誰か、誰かぶち壊してくれ!そんなものは存在しないというのに!…存在しないものを、では誰が、ぶち壊せるというのだろう。

「この教室は、窓が背後にあるので息苦しいな。」

己のどうしようもない主義主張に辟易してAは頭の中でしっかりと発音してみる。見えるのは扉と机と椅子と黒板、それから先生だけだ。テストというのは余った時間に外の景色や空の青を見て暇をつぶすものなのに。カラカラに乾いた咳がでる。数日前にひいた風邪をまだ引きずっている。頭も酷く痛む。奥歯で頭痛を噛み砕きながら黒板を睨むしかすることがない。寂しいことすら忘れてしまえるようになったことには、気づかないふりをする。