ふ、と本が読みたくなって Aは突然住んでいるアパート(ロフトつき、だけど夏がきて暑くなり使えなくなった)を飛び出して自転車で駆けた。唐突に本を買いに走ることへの高揚感、そして夏の夕方の、何かの予感を孕んだような意味深な明るさ。

Aは常日頃から断固として冬好きを宣言しているが、今年の夏ようやく気づいたことによると、随分と夏が好きらしい。特に夕方。帰られるような気がする、という表現が一番近いのかもしれない。わりかし大声で歌を歌いながら自転車を漕ぐ。立ち寄ったコンビニの駐輪場所で、地面にあいた消火栓の穴から、突然ゴキブリが出てきたらすごく嫌だな、と思いながらしばし観察をする。自分について気づくことは、他人とは全く関係のない場所で、大事な何かを発見したような高潔な気持ちにさせる。

最寄りの本屋さんは、大型ショッピングモールの中にある。自転車で駆け抜けて15分。夏ともなるとまずまずな距離だ。今年の夏は本当の本当に暑いようで、連日連夜情報番組で暑いですから注意暑いですから注意と騒ぎ立てている。

…休日の大型ショッピングモールの馬鹿げた明るさとだだっ広さはなんと安心させてくれることだろう。それぞれに役割を持った人たちの群れ。収まるべきところにみなが収まっているという、紛れもなくこれは安心だ。喧騒、すぐ傍を走り去る葉っぱみたいに軽い少年、知らない顔の男女のカップル、目の前のことたちがこんなにも遠い。一人で歩くわたし。その周りの他人たち。

たどり着いた本屋さんで、海辺が舞台の本を探し歩きながら、Aはまたしても気づくことになる。ショッピングモールがそうさせるというよりも大きな割合で、夏がそうさせるのだと。人々は、夏、あるいはそれと同じ意味での夏休み、あるべきところに収まっているのではないか。父親は子どもの前で父親として。母親は子どもと父親の前で母親として。彼女は彼氏の前で彼女として。子どもは親の前で子どもとして。彼らは皆、それぞれから許されてそれぞれの役割を当たり前にこなしている。自分の役割の中で役割を忘れた気持ちになって全力で夏を楽しんでいる。そしてやっぱり私はそれから遠いので、そしてやっぱり役割の中で全力で夏を楽しめる勇気がないので、いつも夏に乗り遅れてしまうのだ。夏に焦がれたまま夏を手放す。たぶん、手の中に切符はあるのに。

そうしてAは帰路につく。行きしなに歌っていたのとは違う、夏の歌を歌いながら、カバンに二冊、夏の小説を詰めて。今年は夏に乗り切れるだろうか。たぶん無理だろうなあ。手放しで夏を楽しむことはAには少しこっぱずかしい。だから彼女なりに海に焦がれ、手持ち花火を手にぶら下げ、夏をなんとか自分のものにしようともがくのだろう。