お風呂あがりのギャランドゥ

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文学…とは?

 

 

今日の文学論(大学の講義)おもしろかったな〜今までで一番おもしろかったんですよ

 

 

未曾有の事態になると必ず 詩が詠まれるらしい。

 

日本史上初めて編まれた詩集が 市民一丸となって日本国を守るという意識を持たせるため、つまり戦争の道具やったわけで

文学はマインドコントロールの手段なんですよね。

だから 戦時中は市民を鼓舞して国のために死なせるために文学人に詩を書かせ、核で攻撃を受けたら 反核の詩を文学人は書くんです、それらは純粋な叫びであるから市民は 正しく賛同する。

 

東日本大地震のときも 福島に住んでる詩人が 迅速に しかも現代的にtwitterで 140字以内の詩をたくさん書いて(打って?)発信した。直感のままに文字を打って人々に短い詩をたくさん届けた。やっぱり 自然災害という圧倒的なものを前には日本人は魂の言葉として詩を使って発信するっていうのは、SNS時代の今も変わらんのやなあと感心するわけですが

その なんていうか キャッチーな、時に数十文字の、悲痛で純粋な叫びっていうのは みんな賛同せざるを得ないじゃないですか。入って来やすいし馬鹿でもわかるし題材が題材やし。

別にフォロワー数を増やすために 地震を被災を別れを詩にするわけではないから、まったくの純粋な詩人としての使命百パーセントでtwitterに、その詩人は、投稿して。

それを絶対にわたし達は否定できずに 全部丸呑みに肯定して感動させられる。全員が絶対に頷くしかないもの。

それが文学のめちゃめちゃ危険なところなんですって。そういう 目立った直感的な絶対に否定できないもの、受け入れざるを得ない力が働くから。

 

めちゃめちゃ面白いなあと思って、だってこの世の中、知名度のある 社会に影響のある 人が最もらしいことを言えば絶対にある程度の人数がついてくるし twitterやってたらわかるやん、ほんまにジャンキーに文字を摂取してるなあって思いませんか?

わかりやすい意見や 感情やを バリボリろくに噛まず飲み下してる感じがいつもとてもする。

言葉にできない部分は言葉にされないままみんなにわかるように短い文章で書かれる詩は本当に詩なのかと。

それらを打ち込んで実際に世の中に発信するまでの間に その文章は本当に吟味されたのか?と。

そもそもがtwitterの使い方として直感的な発信をすることが正しい。

そんなツールに、人々の否定を許さないような文章を投稿してもいいのか?

圧倒的な悲しみや苦しみや自然の脅威を、そんな感覚だけで人に訴えてしまってもいいのか?

と、考えさせられましたね。

 

大体がでもこのブログだっていっつも直感で文字を打ってるわけで脳みその投影でしかないわけですから 文学ではないわけです。

言葉を辞書的な意味のまま使って並べてどこにでもあるような月並みな主張をするオリジナリティのかけらもない。

でもねわたし 詩って苦手なんですよね〜。誰にでも理解できるように作られていない、誰かにわかればよい表現、辞書的な意味から離れたところで使われる言葉は魅力的やけど。

そんなん自己満やん!って思ってまう自分がおるわけですよ。

 

文学は美しさ?

その人にしかできない言葉の組み合わせで世界を作る。

小説が高尚な文学ではないことはわたしにもわかる。

でもじゃあ詩と純文学小説とは何が違うんやろう?

 

 

 

大抵の利器は戦争から生まれますが

文学もまた戦争と切り離せない場所で育って来たのだと思うと脱力してしまいます。

言葉を使ってしか話せないし書けないし読めないのやから、仕方ないことなのでしょうけど。

 

おやすみなさあい