言葉

 

 

 

「僕らはいつも以心伝心♪」

「言葉などなくたって分かり合えるから♪」

 

などなど、「言葉で伝え合う必要のない絆が二人の間にはある」ことを讃える歌ってたくさんありますよね。

しかも、みんな それに憧れもする。だって魅力的、いちいち思ってることを言語化せんでも伝わるなら、そりゃあその方が効率的に決まってる!

 

でもさ、以心伝心なんて必要ですか?

言葉で伝え合うことを省くのってほんとに大事なんかなあ。

 

スポーツ⚽️🎾や 喧嘩🤜🤛には必要やと思う。どっちもまともにやったことないけど。

ダブルスで 味方の考えを読んで ボールを打ち返す!とか、喧嘩?闘争?で、味方に背中を預けてたたかうときとか(わたしは最近キングダムにはまっている)。

 

でも、通常時の人と人との二人の関係をつくっていくときに、言葉にしなくていいことなんてない。と思う。

"嫌い"は 言葉にしなくても伝わるけど、"好き"は伝わらない。感じ取ることができたとしても、大人になればなるほど人は臆病になるから、相手から染み出すプラスの気持ちなんて簡単に信じられない。

考え方だって 一人一人ほんまに違うんですよ。びっくりするほど違う。え、ここからこう思うの!?ってことは その人ときっと何年一緒にいてもたくさん出てくるやろうと思うわけで。

AということからBという印象を持つ人がいれば、Mという結果を導きだす人もいるしSという結論に至る人もいる。それらは、いくら一緒にいても完全には理解し合えないところにあるし、いくら近くにいても考えを擦り合わせていっても、言葉無しで伝わるわけがないじゃないですか。

人と人とが考えを場に出して理解し合うことまでに、効率化を持ち出したら終わりやと思うんですよ。

一緒にずっといたら、そりゃあパターンは見えてくるでしょう。でも、そのパターンは 冷静なときには見えてるけど、感情的になったら 自分とは違う思考回路で導き出されてるわけやから、想像できなくなるときだってあるじゃないですか。

違う人間っていうのはそういうことでしょ?そこが同じやったらたぶん、多くの人が言うように、面白くないんでしょう。

だから、自分の持ってるパターンとか 考え方とかを 根気よく言葉で伝えて、いついかなるときもそうであることをわかってもらわなきゃだめで、その過程は絶対に効率化できなくて、その上何十年という時間がかかると思うんですよね。

だって 人格の形成期である 最初の十年二十年を一緒に過ごしてない人間って未知やし。その遅れっていうのは、何十年も一緒に過ごさないと取り戻せないと思うんですよ。

で、その何十年だって ただ一緒にいるんじゃなく、ちゃんと言葉を尽くさないとだめやと

また、自分のことを理解してもらうっていうのはたぶん、それほど大変で、誰かと誰かが二人でずっといるっていうことには、でも不可欠なことやと思うんです。

 

じゃあ伝える手段ていうのは、言葉しかなくて、ってことは、言葉をきちんと使わなくてはならないですよね。

その努力を 面倒臭い、と感じるようなら その相手とはそこまでのことなんですよ。

考えてることを 上手く言語化できないなら、言語化できるまで待ってもらうなり それに似たたくさんの言葉を尽くして考えてることを遠回しにでも伝える努力をすべきだ。

そして、いくら正しいことを言っていても 話し方が高圧的やったり 感じの悪い感じやったら 相手には聞いてもらえないから、真摯に誠実に、清潔な心で 話すべきだ。

 

わたしにおいて、言葉は唯一絶対なので そう思いますけども

でも 言葉に頼りすぎてる部分ももしかしたらあるのかもしれない。

なにせ文学部に入るくらい 文章というものを愛しているので 人と人とが関わるときには絶対に言葉が正しくあるべきだと思う。

「べきだ」なんて他人に強要すべきではないんですけどね。

でもじゃあ言葉以外にどうやって伝えましょう。言葉を尽くしても人を安心させて信用させきってしまうのは難しいのに。

心は目に見えなくて何を考えてるのかわからなくて不安になるのは当たり前で、それをなんとか伝えようとするには言葉に頼らざるを得ないでしょ?

もし、それ以外に方法があるなら誰か教えてください。

でもそれを教えてくれるのも言葉でしょ、、、

うーん🤔

やっぱり、人間の文化自体が言葉に頼りきりすぎているのかな。

でも 言葉の裏に潜む意味や、本当の気持ちやが主役ですよね。それありき。

感覚だけで何かをやりとりし合う時代がくるのは、絶対に嫌だ。短くて意味のない言葉や、見た目ですぐわかる絵文字の氾濫。おえ。

 

 

おやすみなさあい