うちのじゃじゃ馬ちゃん

 

 

 

紅茶の匂いがする。ケーキを焼いているからだ。もうすぐ焼きあがる。

実家の犬が死んだ。飼い主は祖母で、だから祖母と同居し始めた頃にうちにやってきたわけだからなんとなくうちんちの犬という認識は少なかった。何しろ、元々うちで飼っていたヒナちゃんという犬が死んでそう時間が経っていなかったからだ、彼女がうちに来たのは。

それでも思い出は多い。じゃじゃ馬ちゃんであった彼女はペットショップで売れ残っていた。だいぶ大きくなって値引きされたコーギー。遊んで遊んでというようにケージの中で跳ね回る。わたしも妹もその姿を好きになってそれで祖母の家に迎え入れられた。名前は当時好きだった漫画の登場人物から ハルにした。わたし達がつけたのだ。

散歩に行けば首輪が締まって息も絶え絶えになるほどぐいぐい引っ張る、家の中で離せば毛を撒き散らして走り回る、ハルがご飯を食べている時にうっかり触りでもすれば牙を剥きグルグルと低い声で威嚇した。健在だったうちのヒナちゃんとは犬同士ながら犬猿の仲で、おとなしいヒナちゃんはいつも圧倒され時に噛まれた。とにかくパワフルだった。笑ってしまうくらい元気な犬だった。

そんな彼女がだんだん年老いていく様からわたしは目をそらした。もう誰かが死ぬのは、明らかに死の匂いを濃くしていくのは見たくなかった。元気じゃなくなっていくハル、よぼよぼのハルを全然見たくなかった。

突然倒れてそれから二日で死んでしまった。祖母はまったく彼女を気にせずそれどころか病院にさえ連れて行こうとしなかった。母が手配も全部した。検査なんてするなという祖母の声を無視して倒れた理由がわかるまで検査をお願いした。もちろん、汚い話だがお金もびた一文祖母は払わない。埋葬代さえ。

まあそれはいつものことだからあれなのだけれど、わたしは一生祖母の振る舞いを忘れない。憎しみというのは悲しい。嫌いになんてなりたくないのにどうしようもない人間というのは絶対にどうしようもないのだ。

話が逸れたけれど ハルちゃんは倒れる前から臓器が悪くなり腸が働きを止めていたらしい。それなのに普通に散歩に連れられ普通にご飯を食べたらしい。どうして強がってしまったのか、それは、あんまり構ってもらえていないことをわかっていたからだろうか。

犬は飼い主を選べないし生き方も選べない食べるものでさえ選べない。悲しい家庭に来てしまった彼女は多分不幸だったのだろう。

かくいうわたしも彼女の死によって妹との共有物がまたいなくなってしまったと思った。一番にではなくても、二番目か三番目くらいにそう思った。

ごめんねハルちゃんでも好きだったよ。

 

死というのは本当に、そこで生きていることと同じくらいのいやそれよりも大きな存在感を持っている。

その人が、その存在が、いないということがずっと続く。空白が途方もない切実さでずっと存在する。

死に対していろんな考え方があるだろうけどわたしは、死んでしまった人やペットに対して「置いていかれた」とは感じない。それよりもむしろ「置いていってしまう」と感じる。

わたしにだけ未来がある。わたしだけ成長する。彼 彼女らの世界は過去にあって、一緒にはこっちに来てくれない。みんなに囲まれた過去はもう二度と手に入らないし、幸せだったのは過去の話だ。

まあ、そんなことを言ってもどうにもならない。どうにもならないのに生きてるわたしは生きなくてはいけない。

また新たにハルちゃんを今日という日に置き去りにして。

ごめんね。

 

 ケーキが焼けた。粗熱をとってから型を外そう。まだ熱いのを一切れ切って食べよう。

誰も一緒に食べてくれないから一人で美味しいって言おう。