ああ屋根裏部屋に住みたい
ベッドの横には窓 窓の中には月
生き物と習慣的に関わらなければ生死を超越した存在になれる
「死んだ」という言葉は実感を伴いにくい
存在するのが当たり前だから不在が際立つのだ。それに打ちひしがれるのだ。
だから誰とも 何とも 関わらなければよい。一人でいればいいのだ。
思い出すときにだけ その人は死ぬ
つまりそれ以外の時は依然として生きているのだ、わたしのなかでは。
その方がいい。
お葬式なんてするから悪いのだ。いた世界といなくなった世界を完全に分けてしまうから辛い。
ナルトの。
写輪眼でみんなに幻覚見せて妄想の世界で生きさせようとする敵。
それで商売したらいいのに。みんなに押し付けるから悪いんやん。そんなんオウム真理教と一緒やん。
妄想の世界で生きたい人にだけ術かけ(じゅつかけ)屋さんすればええんやん。
そしたら儲かるやん絶対。
想像力はいつだって人間の首を絞めますよね。
ええ絞めるんです。知りませんでしたか?
想像力のない奴だけにとってこの世は快適なんですよ。自分にしか思考や感情がないと思ってる奴ね。
そういう奴が羨ましいなあ…
だってねそういう人間はね、嫌味言われたら普通にキレるでしょ。にも関わらず自分が嫌味言っても相手を嫌な気持ちにさせるとは思わないんですよ。
心の中で「早よ死ね」って言われてるなんて つゆほども思わないんですよ。
羨ましいなあ〜…
人の気持ちを想像できない奴が羨ましい。
ただその図太い神経は理解できないし、そうは死んでもなりたくないが。
あー、好きも嫌いもみんながはっきり主張できたらな。
授業で 「言葉は物事の代理品で、物事は比喩でしか表現できないから こんなに種類が多い」って習ってなるほどなあと思ったんですけども
たしかにまあ美しいものの例えは永遠に挙げられるが美しいとはなにかと問われると何とは言えない。
面倒くさいけどもそれだから 言葉は 美しいわけで綺麗なわけで
言葉こそすべて。わたしは言葉こそが人間のすべてだと思ってるんですが
その言葉自体、空疎なものなんですよね。
でもまあそれもまたオツじゃないですか。言葉でしか表せないのにどんなに言葉を尽くしてもそのもののことは本当には示すことができないなんてある意味ロマンチックやわあ。
それでも、物事にはこれしかないという一問一答で世界があればいいのになと思うことはやめられません。なぜ。
わたしのように文章を書くのが好きな者にとってすべてがすべてに換言できるということはなんとも嬉しいことだ。その組み合わせが個性を生み果てはどこかで感動を生む、と、信じることができる、言葉こそ人間、言葉は誰でも使えて、硬貨以上に手垢にまみれている、としてもだ。
でもまあ思うのがあれですよ現代人ってさ言葉を軽視してるとゆーかぁ、それが内包する意味しか見てないとこあると思うねんやあ
そりゃあ言葉は並べれば、受取り手が悟れば、使い方間違ってても意味は伝わるよ。でも違うやんなんで、意思伝達のツールってだけじゃないやん文章って。
だからみんなさちゃんと言葉を愛してくださいと思います。
わたしはほとんど言葉だけを愛している。逆にその意味なんて関係ないよね。
人生の一番辛いときにわたしを助けてくれたのは他ならぬ小説で、だから本当のところなんて本当は全然要らないのだ。
本当のことがわたしを助けたことがあるだろうか。いや、ない。(反語)
そんな感じでわたしは文字の中に生きるのだ。世界は言葉の中にしかない。
おやすみなさあい