中学はめちゃくちゃ狭かった。狭い中で自分と似たような人がたくさん居た。みんな馬鹿みたいに個性を主張した。違うことは当たり前だった。
高校は狭すぎた。狭いし、自分とあまりに違う人ばかりで、どうやらみんなにとって違うということはとても重大な罪のようなものらしかった。生きづらさを学んだ。
大学は広すぎる。けれどもきちんと塀はあって、その中で共通点を持つ人たちがたくさん見える。仲良くなるには遠い距離、喋らずにいるには近すぎる距離にみんないる。
違うということはいいことだ。それぞれが独立した一個体であることがわかるから。
違うということを捨てるとき。個人は消えて集団しか見えなくなる。この、恵まれた現代で本当にそれはもったいないことだ、と思う。
まったく同じ制服を着ても自分であり得るということが個性だと思うのだけどどうなのだろう。
個性、個性ってなんだ。
いま、個性というのは とても大事で、それを守るためにみんな、戦うが
派手な色の服を着て派手な色の髪をすることはもはや「個性的」という一種のジャンルであり、見た目において「個性的」というのは性格における「口下手」「陽気」などと同じような意味での「タイプ」の一つだと思うのだ。
つまり、だから、「個性的」とジャンル分けされるような見た目をしているだけでは、その人の個性は表せないということ。
でもどうだろうみんなが黒や茶色の服を着て街を歩くのをドローンで例えば俯瞰して見てみるとして。赤い服を着ている人は単純に目立つだろう。
女の子をみんな横並びに整列させて、ずあーっと右から左に顔をカメラで映していったとして。真っ青のアイシャドウをつけている子は目立つだろう。
普段黒い文字で書かれている文章の中に一つだけピンクで書かれている単語、太字で書かれている単語は目立つだろう。
世に言うインスタ映えも、いかに色鮮やかであるか、その一点がただただ重視されている。濃い赤や青やピンク色は単純に目を引くのだ。
でも逆に。
音で溢れたCMの中で無音で映像だけを流すCMは目立つ。
髪の毛を金色や青色にして服もまたビビットなものを着る人しかいない場所で、頭からつま先まで真っ黒い人は目立つ。
全部がピンク色の文字で書かれた文章の中で黒い文字は目立つ。
「みんな同じ、その中で一つ違う」ことで目立つことができる。
それがなぜ目立つのかというと、「みんなと同じでいる」というためだけに自分の言動を決めてしまわないからだろう。
個性を持つ、ということは、みんなと同じ、を行動の理由にしない、ということか。
でも、学校指定の制服を着なければ退学にさせられるとなれば制服を着る。
9時出社の会社に勤めている人はいくら夜型の人間であっても遅刻しないように努める。
ということはこの社会では、"できる範囲で" 個性を守らなければならない。
逆に言えば、「個性を守る」ために 生活を犠牲にする意味はないということだ。
面白くなくても笑わないといけない。ダサい服でも着なくちゃいけない。馬鹿みたいな決まりに従うのは嫌なのに、従わないといけない。
そうでないと社会の中で生きていけない、社会の中で生きていけないということは、安全ではないところでひとりぼっちにならないといけないということだ。
個性を主張するために ひとりぼっちになってしまったら 個性を認めてくれる人にさえ出会えないということだ。
これはまったく…どうしたことだ。どうして自分が着たい服を着るというだけのことがこの社会ではできないんだろうか。
スーツや制服だけじゃない。服には流行りがあり、セオリーがあり、それらから外れるともうだめだ。普段着であっても、「ここからここまで」の線はあって、その間を外れることは許されない。
どうして自分がしたい髪の色さえも試すことができないんだろうか。
どうして自分がしたいことを、お金がない、時間がない、とかいうそんな、本当には存在しない概念みたいなものに縛られて、みんなできないんだろうか。
本当に。不自然が過ぎる…
別に就活(しなきゃという)ストレスでおかしくなってんじゃないよ。
ありのままでいることがなんと難しいんだろうとたったそれだけのことに頭を悩ませているだけで。
受け入れてもらえるか否か、それに一喜一憂して、なんだか、馬鹿みたいだ。
すべてが受け入れられるべきなのだと思う。
はじめからみんな、違う人から生まれたり 違う顔をしていたり 違う脳みそを持っているというのに、見た目がちょっと似ているからってどうして全部おんなじじゃないといけないんだ。
同じじゃないとコントロールしにくいからだろうな。違ったら厄介なんや。管理する側は。
すべてが受け入れられるべきで、どうしても受け入れられないものからは離れるべきだ。
わたしはそう思うから、わたしだけは、それを実行したい。それが自然だと思うから。
うんざりするできごとは、本当に、この世に、多いな。
思い通りになるのは、思いの中だけだ。
おやすみなさあい