ララランドについて多少深く喋る

 

 

 

 

 

 

ララランドという映画が好きで好きで仕方なくて、そればっかりに日常に取り込みたくなくて、映画館でしかみたくなくて、DVDを買わずにいたんですが

このたび、地元近くの映画館で復活上映してて(しかもIMAX!)、観にいったらもう、常に観てたいなと思ったので、DVDを買いました。

個人的に、素晴らしい映画なので もう皆さんが観たというていで書きます今日のブログ。

 

ララランドのなにがいいって、わたしは、世間の映画ファンの酷評する、「ありきたりな脚本」がいいと思ってるんですよね。

あんなに華やかで ビビットミュージカル映画という現実離れしたジャンル、まさに正統派の"映画"

あるにもかかわらず

ありきたりで わたし達の人生に寄り添った平凡な内容なんですよ。

もう、だって「一組の夢見る男女が出会って夢を追う過程で別れる」ってだけ、それだけの脚本ではあるわけじゃないですか。

それをさあ、最後の何分かの通称"ララランドタイム"が、やっぱりあんなに素晴らしいものに昇華している、一番の要素だとは思うんですが、でも他にもいろいろな要素があるんですよ!

 

昨日DVD届いて、4回目観たときに思ったのが これはセブの回してる物語なんやな、ということで

セブという超偏屈ロマンチスト野郎が、現実的で平凡な女の子ミアを映画の主人公にさせたんやな〜と、っていうのが、

女の子ってみんな、王子様に見つけてもらうのを待ってるじゃないですか。じゃないですかっていうか、まあ、そういう願望を少なからず持ってるじゃないですか。王子様っていうのは、まあちょっと過剰描写で、もっと言えば「誰か」に見つけてもらうのを待ってる。

ミアも例に漏れず完全にそうで、だから物語の始めでは、ララランドの象徴とも言える鮮やかなブルーやイエローやのドレスを着て、誰かに見つけてもらいやすいように着飾ってる。

それをセブが見つける。渋滞で鳴らすクラクション、警備員を巻いて無理くり入ったカフェ、ボールダーシティの図書館の前。セブに見つけてもらったから、物語の後半、ミアはもう地味な色の服を着て、普通の枠を抜け出して自分の夢に没頭できた。

 

ほんで、セブについては、劇中で「ロマンチストすぎる」「偏屈で頑固だ」とほかの登場人物(セブの姉やキースら)から言及されてるけど、ミアについてはそういうの一切ないじゃないですか。それは、たぶん、説明するに足りない女の子やからやと思って…彼女の個性は言わば「女優になりたい」という夢だけであって、割れたスマホの画面や退屈なパーティ、上っ面のいい彼氏(グレッグ)など、"今風の女の子"でしかないのがミアなんかなあと。

 

そんなミアがどうしてセブに見つけてもらえたかというと、冷めたことを言えばセブがロマンチストだったから。3回も偶然会ったら、そこに意味を見出さざるを得ないのがロマンチストというものでしょう。

でも、やっぱりほんとは、ミアが「少しの狂気」を持ってたからなんかなあと思ってて、「Audition」の曲中で、彼女の叔母が言ったように。真冬にセーヌ川に飛び込むような狂気が、キラッと光って見えたから、セブに、「Someone  In  The Crowd」に見つけてもらえたんかなあとも思います。

 

ほんでララランドタイムの解釈、ネットでみたのが「現実とは真反対の夢」というもの。

たしかに、子どもの性別まで逆にするんや〜(笑)とは思ってたけど、すべてが逆という解釈は、なるほどしっくりくるなと。

ミアの旦那さんが映画のプロデューサーというのは知らなかったんですが、そうそのサイトには書いてあって、ミアはあのAuditionに落ちて、プロデューサーと結婚することで有名女優になった、という解釈がされてたんですよ〜。

「ああ〜…」って感じ。

結局は、ロマンチストなセブと現実的なミアという始めの真反対に戻ったんか〜…みたいな。

いやわからんけどね!でも、やっぱり、子どもの性別がさあ、ほら…

 

「君は赤ちゃんだ!ピーピー泣いて!」とセブに怒鳴りつけられて「大人になるわ。」と言ったミアは、あのAuditionをきっかけとしてしたたかに夢を叶えたんですかね〜。

そしてセブは、"大人になって"曲げた夢を、またもう一度、お金儲けを捨ててまで元の夢に戻して。ロマンチスト街道を突っ走った。ミアが結婚してることは知ってても自分は一人で店を繁盛させてさ。ああーセブ。わたしがもらってやろうね。

 

どうなんですかね。

やっぱり、夢を持つ人間にとって、最愛の人のとなりにいることより夢を叶えることは大事なことなんかな?

ララランドタイムで、あんなにパリのライブハウスで楽しそうにピアノを弾いてたセブはさ。バンドでは、全然楽しくなさそーにさ。常に消化不良でさ。

きっとキースに誘われる直前までは、ライトハウスで黒人に混じってピアノを楽しそうに弾いてたセブは、「傍らで踊るミアとピアノとジャズがあれば俺の人生は最高!」と思ってたはずなんですよ。

それやのに。

夢が、そこに至る道筋が不透明な間は、二人を固く繋いだのに

叶いそうになって突っ走ると、愛する人が邪魔になるなんて。

 

わたしには夢がないから、全然たぶん、ロサンゼルスでくすぶるロマンチスト達の気持ちはわかんないんですが

夢を叶えるために生きている人にとって愛が最優先事項でないなら、あんなに愛する人を得られたというそれだけのことがもうセブのかけがえのないことだったんかな〜と思う。

たとえ離れ離れになって、たとえ愛する人が他の場所で別の愛する人を見つけても。

愛してた、そして愛してる、それだけでいいのかな。そして、それは、全然彼らだけに限ったことではないと思うからこそ、わたしはこの映画が好きなんです。

 

誰かと愛し合った時間が 完全に過ぎ去ったものであったとしても、別れた今でも愛してると言えるほどのものなら、全然まったく、それでいいんやということ。

うまく言えへんなあ〜、うーん、

二人でいたことが過去形になっても、愛は過去形にはならないということ!

うーん…

つまりだから、真昼のグリフィス天文台での「ずっと愛してる」、セブの笑顔とミアの呼応する笑顔、二人で最後に見た夢。

そういうこと!もうそういうことなの!許して!

 

そういうことが LALALANDを初めて観たあのときから、ずっとずーっとわたしの心を動かしてやまない。

 

エンドロールの出演者の名前のところが、

「セブ:ライアン・ゴズリング
   ミア:エマ・ストーン
のすぐ後が無名の登場人物(famous actressとかやったかな?)なんです。

たった二人の物語なんですよ。二人、その他周りの風景、要素、環境。

 

誰かに見つけてもらえたら、その人と生きれなくたって死ねなくたって、人生には価値がある。

あー、ララランド。最高。

だれか同じくらいの熱量で語ってくれへんかなあ。

 

 

 

風邪引いてるんで寝ます。

おやすみなさあい