創作技法の授業課題

 

 

 

下記の文章は、「創作技法」の授業での課題、「描写をしてみよう」というやつです。

 

 

 

 

 

 

 

  午後の早い時間。構内を歩くと今日という日の光量に驚く。
  太陽は家に帰り始めごく小さな角度ではあるが傾いて木を建物を人を照らす。理科の授業で習ったみたいに真上から照らすより斜めから光を入れた方が屈折とかなんとかをしてめちゃくちゃ輝くのかな、と思うけれど根拠とか科学なんて本当にどうでもいい、くらいにただ、空気が、酸素の粒子が、しゅわしゅわ輝いているのだ。弾ける炭酸。素晴らしく嬉しい午後はサイダーのなか。
  いっそう存在感を示しているのは若い若い葉をたくさん抱えたイチョウの木。葉っぱの一枚一枚が、大層な気合いでもって輝いている、小さな表面積で、目一杯の陽光を浴びて吸収して増幅して放出。生まれたてのセミが鳴きわめくわんわんと響くカオス、がただ立っているだけの木、から確実に感じることが、できる。「あっとーてき生命力」!
  人間の群れの上で鳴り続ける大音量の産声に似た音の塊。あ、ふ、れ、る、緑みどり み ど り !その下で何にも気づかず見ようともせず、地面ばかり見て歩く二十歳そこらの人間たちは死んでいるのと同じだ。
  死んでいるのと同じ、仮死状態の若い生き物が溢れているのだ。自然界でそんなご馳走が放置されるはずがないのでやっぱりすかさず根が伸びてくる。普段はニュースとかになったら嫌なので大人しくしているのだが、実はイチョウは変幻自在の根を持っているのだ。
  根は無駄な動きをしない。すっと伸びて音もなく、伸びて人間を、人間に巻きついて、動きを止める。捕食する際はまず餌の自由を、奪わなくてはならないからだ。それから首に根の先端を突き刺す。刃の鋭さは要らない、代わりに木には力と上背がある。難なく血管を突き破り、一滴も無駄にせず根っこで血液を飲む、飲む、飲む。人間は干からびてしまうけれども、元から死んでいるようなものなので倫理的にはなんの問題もない。
  動物の血は真っ赤であるのに、イチョウの若葉は、さやかな緑をしている。輝いている。輝きを増している。
  割れたコンクリートと盛り上がった土。湿った大地の匂いが辺りに充満し始める。本当に全ての血液を持っていかれたらしい人間の見た目は奇しくも枯れ木に似ている。生臭い匂いも血の匂いも全然しない。なんて清潔な食事だろうか。
  ……自分が立ち止まっていたことに気づいて、図書館へ向けて再び歩き出す。空は馬鹿みたいに晴れていて、だからこんなに粒子が輝いているのだが、それだというのに私は、うっかり感動してしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上が

作家の先生に褒められて、いいものもってるて言われて、びっくり嬉しいやばやばぴーなので ここに書かしてくださいってやつでした。

デビューしたら教えてねとか

プレッシャーに弱いでしょ?ゆっくり自分のいいと思ったものを書きなさい とか

そもそも課題出してすぐ読んでくれはったことも嬉しすぎるし

わざわざ 井上さん、読んだよよかったよて言ってくれるとか嬉しい嬉しいがバースト

グループワークした子たちも ファンですて言ってくれたりとか表現褒めてくれたりとか教科書に載ってる詩みたいって言ってくれたりとか

なんか最近肯定されすぎてやばい

昨日も友達と飲んでたら 読んでるよ、て言うてくれてほんまに嬉しすぎたし

どれが一番嬉しいとかじゃなくて全部嬉しくてそれが今日飽和点に達してバーストしました

 

 

はい。

文章書く人になりたいな。書く人にはなってるか、それで食べていける人になりたい。なりたすぎて吐きそう。