水の匂いの日々

 

 

 

「お風呂あがりのギャランドゥ」から、ブログの名前を変えました。

ギャランドゥ、そこまで好きじゃなくなったから。

今日観た映画の題名が『アメリカンスリープオーバー』だったから。スリープオーバーってお泊まり会という意味なんやけど、いい単語やんって思ってさあ。

わたしって青春映画を観ても、重ねる青春がないから胸がしめつけられることがない。それでも清々しく青臭い匂いがするのは、友情や恋愛に曲がりなりにも触れてきたからだろうか。

 

中学生の頃、気持ちが沈んで二進も三進もいかない期間のことをみんなで「病み期」と呼んでいた。これって全国共通?ケータイの予測変換に出てこないから、今はもうない言葉なのかな。

その病み期だって、もしかしたらホルモンバランスから引き起こされていたのかもしれない。しかし当時のわたし達はまさか、自分の感情さえも肉体に縛られて引きずられているとは考えもしなかった………。

大人になっていく体に戸惑うばっかりで必死についていこうとして、ちぐはぐでそれがなんとも言えず辛くて………病み期。

周囲に自分が病み期であることを伝えて、了承してもらっていた、みんなが、みんなの、心の状態をなんとなく、把握していた。

不安定な子はたくさんいたし、詰め込まれて窮屈な思いを共有していた、のかも、しれない…。

 

今、わたしがあの頃のままの言葉を使うならば絶賛「病み期」だ。あんまり人と喋りたくない、いや本当は、喋りたいのかもしれないけど、エネルギーが湧いてこない…。

自分を自分のままにまるごと肯定できるのは自分だけだというのに、それを自分でできない期間は辛い。誰も認めてくれないからだ。誰かに認められたいなら、まず自分が自分を認めなくてはならない。と思う。

誰かが共感してくれるのは、きっと自分が心の底からいいと思っているものにだけだ…。

 

欲張り。

ありのままで大衆に受け入れてもらおうとする人は欲張りだし、図々しいと思う。

しかし 羨ましくもある。嫉妬している。たぶん。

 

わたしの毎日はずるずると全部繋がっていて、あるときぷつんと切れて、昨日の自分とは様変わりしてしまうが、その瞬間はそう多くはないし、だから、率直にいうとワンナイトラブができる人間はすごい。

お酒を飲んだからって別人になれるわけではないはずなのに………

っていうのはものの喩えで、だから、何事をも割り切ることができる人が羨ましいという話だ。べつにワンナイトラブをしたいわけではなくて ものの喩えだ。

すべてがずるずると意味を持つ。ずるずると繋がって離れない。全部がわたしに帰結する。ことが恐ろしくて動けない。

全然自由ではない。羽根はあるし飛べるが、地面に打たれた杭にしっかり結ばれた紐がわたしの足に繋がっている。いつもそうなので遠くまではいけない。

あるいは………きつく結ばれていない紐を振りほどくのを非難されるのが怖いのかもしれない。

どっちがより本当かは わからないけれども。

 

なんとなく憂鬱で 日々を浪費している、しているingな気がしているけれど

そんな自分を肯定できないなら、その憂鬱自体を肯定してしまおう。

今は。

いつになくポジティブな憂鬱ジャン。

 

 

おやすみなさあい