といかける

 

 

 

理解しようとすることはエゴだと思うかい

あちこちを探し回ってもほとんどのものが自分の手には入らないし 見られたとしてもほんの一瞬だったり全体の10000000000分の1だったりする。ティッシュリモコンケータイ、充電器お茶のコップみかん、を身体の周りに配置してこたつでぬくもるみたいに、物事は手の届く範囲にいてくれない。

とてつもなくそれでしかない異質の存在感で全部過ぎ去っていったりたまにこっちをじっと見たりしてくるがそれらを 少ししか見られないからといって理解の枠の外に押しやるのはいいことなのか。

 

「子どもの頃は楽しかった」と盛んに人々は言うが 子どもの頃は理解の枠がそもそも存在しないのだからそれはそうだろうと思う。

理解するかしないか、近寄るべきか近寄らないべきか、経験したことあるかないか、経験上乗るべきかそるべきか

大人には判断基準がたくさんありすぎて 知っていることが増えすぎて 世界に二の足を踏む。

子どもの頃は 何も知らないのだから躊躇していられない、飛び込むしかない、楽しいことをただ求めて。

「知らぬが仏」は世の中の真理であるし。

 

しかしだ、しかしだよ。

何も知らなかったらそりゃあ楽しいだろうが

いろいろ知ってからの楽しさもあるやろ?

理解しようと思えるのは 理解の枠があるからだ。

ここまでなら理解できる、こっからは理解できない。そして色々なことに出会って色々を経験して、理解の枠を広げていくんやろう

 

「理解できない」が イコール「理解する気がない」

になってる人もいるけど、そんなんもったいないやんなあ。と個人的には思う。

最近読んだ本で、「現代人は踏み込まないことが優しさだと思っている」と書いていた。その通りだと思う。

たぶん、理解しようとすることさえエゴだとみんな思うんだろう、ぱっと見理解できそうにないことには触れないようにしないといけない、だってどこに怒りや悲しみの地雷があるかわからないのだから。

 

でも。

理解しようとすることを恐れて離れてしまったら……それは…………上手く言えないけどもとても悲しいことだと思う。

本当に触れてはいけないことなんてあるのか?生傷は生傷のままで乾かずにずっとあるだろうけど、そこに誰も触れずにおけばそのまま、空気に世の中に揉まれてばい菌が入って膿んでしまわないだろうか。

人間は、本気で理解するために理解しようとしてくる人をはねのけるほど孤独では生きていけないんじゃないか?

怒りや悲しみの地雷を、相手がうっかり踏んでしまったとして、それをそのまま相手にぶつけるだろうか。そんな風に理解し合いたいと思ってくれる、自分も理解したいと思えるような、気軽でない、密度のある付き合いをしている人間に?

 

すべてを理解して欲しいと願うのは図々しいだろうか。

少々厚かましいわな。しかしできるのなら誰かに誰だってまるっと理解して受け入れて欲しい。

べつにちゃうやん、そういうことじゃないで、いやいやケチャップ手についたわたしに(ティッシュ欲しそうやな)と悟ってティッシュ手渡して!とかじゃないで。

「物事に対してこう思う」ことを理解して欲しい、つまりだから、否定せずにそういう人間であることをただただありのままに「わかって」欲しいのだ。

みんなそうだろう?

 

だって目に見えるもんなんて 耳に聞こえるもんなんて物事のほんの端くれでしかなく、たまに無意味なこともあるのだから。

その裏に何が隠れてるのか、気になるべきやしきちんと見てわかるべきだろう、それを大事にしたいと思うのなら。

 

でもわかるよ目に見えるものを目に見えるままに愛したい気持ちも。目に見える部分を見て気に入ったんやからそれ以上はべつに見たくもないよな。

それこそエゴですけどね。世の中がすべて可視化してしまわないと目に見えるものだけを愛することなんてできはしないし、それを望むなら誰とも本当には親密になるべきではないし、一人で生きていくべきだ。

全部が目に見えてしまう世の中なんてだっておもんないでしょ。何も知らない小学生ではもうないのやからそういうのをきちんと愛しましょうよ。

 

というこれもまあ押し付けでしかないわけなんですけどもなんというか…

夕日を初めて見る人間と そうでない人間とじゃ夕日を見たときに受ける感銘はまったく違うけどさ、

夕日を初めて見る人間は圧倒的熱量の塊、視界を埋め尽くす真っ赤っかにただ感動するしかない

そうでない人間には夕日に関する昔の記憶があって、最近夕日をじっくり見られていないのだったという今の自分に関する気づきがあって、うーん、思い出すべき歴史がある。

ぬるぽ」と言えば「ガッ」と返る、そういう馴れ合いにはたまにうんざりするけれど、積み重ねた歴史から新たに学ぶことやふと気づくことはあって、自分の中に何もない状態はそりゃあ清々しく身も軽く楽しいけれど、そういう、そういう重さ、たしかにここに存在するという積み重ねた確信、を楽しむのも楽しいやん。

 

 

子どもの頃は楽しかったとか言うなよ。

それなら今も楽しめるようにさあなんとか、変えてみてよ。お願いやん、そんな、子どもが刹那的な楽しみしか知らない風に育つのは阻止しよ。

大人最高やで、だって子どもの頃の楽しさも覚えてるし、大人になった楽しさもずっと味わえるんやからな って言える大人になりたいよ。なるぜ。なったるわ。

理解したがるからな。好きなものは全部。嫌いなものは要らん。

 

 

おつかれさまあ