みるめ

 

 

 

2月から読んだ本を記録している。今日で10冊になった。5月。ふむ……

さっき読了したのは山崎ナオコーラの『可愛い世の中』。ものの5、6時間で読み終わってしまった。ものすごく面白かった。久しぶりに時間を忘れて読んだ。

『可愛い世の中』を読み始める数分前に読了したのが太宰治の『ヴィヨンの妻』。これは読むのにわりと時間がかかった。まあ時を忘れるほど没頭する本とはそう頻繁に出会えない。それでも現代小説しか読んでこなかったわたしが初めて面白いと思えた貴重な1冊だ。胸糞悪いのに真実めいててどうして面白いのだろう太宰の文章は。

その前に読んだのは岸政彦の『断片的なものの社会学』。これは授業で紹介されたエッセイだ。エッセイなんてクソ面白くないと思っていたが全然そんなことはないと最近になってわかってきた。なんてことないことをかき集めて分類しないままに並べ立てて別に批判もせず結論も出さず終わる本だった。でも面白い。考える余地のある本だった。

その前に読んだのがリルケの『マルテの手記』だがこれは苦痛だった。本当のことを書いている感じがしたが異国の違う文化の違う時代を生きた人の書くことはこんなに読むのが難しいのかと思った。あと十数ページで読み終わるというところまで読んでギブアップした。辛かった〜。

その前に読んだのが伊坂幸太郎の『火星に住むつもりかい?』だ。

 

 

伊坂幸太郎はわたしが一番はじめに「好きな作家だ」と思った人だと思う。

『オーデュボンの祈り』を読んでめちゃくちゃびっくりした。面白すぎる。わたしはあの時初めて読書がエンターテイメントたり得ることを知った。エンターテイメント小説というのはこのようなものを指すのだと思って本当に本当にびっくりした。

作者の名前を判断基準にして本を買った最初の1冊が『重力ピエロ』だった。これも本当に面白い。まず一番最初の一文が素敵でなんというかオシャレだった。

 

ある友達が「小説を書くのに経験がいるならどうして村上春樹伊坂幸太郎も(他も言ってたけどその2人しかわたしが読んだことなかった)どんどん面白くなくなっていくんや」と言った。

ちょうど『火星に住むつもりかい?』を読んで物足りなさを感じていたので思わず指を鳴らしてしまった(指を鳴らすのはまじでクサかったと思うから反省している)。そして、「詩は感情ではなく経験で書くもの」という『マルテの手記』の一節を大いに信仰し出したわたしは若干の衝撃を受けた。ビビッ!

 

たしかにそうだたしかにそうだ、「経験」が本当に年を重ねるごとに得るものだったとしたら老人にしか面白い小説は書けないことになる。

じゃあ経験ってなんだろう。そもそも「詩は感情ではなく経験で書く」という文章自体が翻訳されたものだからリルケの本当に言いたいところではないのかもしれないしわたしも経験をそのまま経験という意味でとっていない感じがする。

『マルテの手記』ではこうも書いている。

〜(ここで本を引っ張り出して文章を打ち込もうとしたけどめんどくさくなっちゃった)〜

なんか、「28歳にして見る目ができてきた」的なことを書いてたんですよ。世界を見る目が。それも翻訳やから ほんまの意味ではないやろーけどわたしにはほんまの意味がわかるよーな気がするんですよ。

年齢を重ねないと見る目はできないと思うんですよ。見る目ってのは必ずしも道端の野花に気づくほど目ざとい目ってわけではなくて。いろいろなものを見てそれをちゃんと見れる目、ひいては心や頭のことを指すんではないかと。

その 見る目を獲得するには時間がいるし、見る目を持たない人間の書くものなんてただの感情の高ぶりや落ち込みでしかなく、到底共感を呼びづらく、ツイッターの140字で事足りるような脳みその要らないものでしかないんやないかと思うわけですよ。

とか言いつつめちゃ若くして、それこそわたしくらいの年齢でばんばん小説書く人めちゃくちゃいるわけで、それが面白かったりするわけで、見る目ってのは歳を重ねなくても持ってる人はいるのかなとかやっぱりもしかして見る目なんて関係ないのかな〜とか…

難しいけどわたしは書く人になりたいしそのための見る目が最近めきめきついてきた気がするのでそれを養って書く人になる。

 

書く人になりたい人の集まる会があったら楽しそうだな〜

でもしんどそう。死にたくなっちゃいそう。

 

遅いから寝るね。おやすみなさあい