わたしは今、自分についてどんどんわかってくる時期にある。そうしたら不思議と一人でいる時間が減ってきたように思う。そして誰かと話すことでまた自分が見えてくる。面白い循環だと思う。
感情の根源がどこにあるか わかっていれば たとえ感情をコントロールできなかったとしても いくぶん楽だと思うのだ。真っ当な理由があって怒っている、泣いている、と思える。
プラスの感情に理由づけは要らないと思う。嬉しいことは嬉しいままに 楽しいことは楽しいままにただそこにあればよい。
でもマイナスの感情には理由や根拠が必要だと思う。どうしてだろう。
プラスの感情はマイナスの感情より弱い。いいことがあっても悪いことがあるとなんとなく平均してなんとなくマイナスになる気がする。
ということはプラスの感情への対処よりマイナスの感情に対処することが火急であるだろう。
しかしわたしは悲しい気持ちを断然否定したくない。だって悲しみは同期で優しさで痛みだからだ。悲しみは誰も傷つけない。自分だけにのしかかる。一人だけの個人的なものだ。大事な感情だ。
怒りはどうだろうか。わたしは怒りも大事だと思う。だって関心のある証拠だからだ。どうでもいいことに心を乱されることはゼロだ。なんでやねんボケ、そんなことあるかいクソ、は相手を見放していないから出る言葉だ。怒りは相手を必要とする。怒りの対象が常にある。コミュニケーションを諦めた人間に怒りはない。
そもそも怒りや悲しみをマイナスの感情と捉えてよいものか。感情はすべて、個人の有するかけがえのない宝石であるとわたしは思う。すべてが大事にされるべきで個人において感情より優先すべきものなんてない。と思う。
怒りや悲しみに体を乗っ取られることが悪いのだ。コントロール下に置けと言うんではない。脳みそを占有されてずっと全身で怒ったり悲しんだりする奴はめんどくさい。
ずっと持っておけばよいし自分のものとして棚に飾ればよいが物事があってそれに対する感情にある時点から常に脳のリソースを割きまくるのがいけないのかもしれない。
物事に対してどう思うか、みんなそれぞれに本当に違う。どういう感情を持つか、その内訳はどんな感じか、全部興味深いと思う。
つくづく個人主義な人間なのだわたしは。そうして理想主義らしい。これはでもネット曰く。
わたしは人が驚かされるのを見るのが苦手だ。すべてについて思い描く何かがある人間はいないだろうがそれにしても予期せぬことというのはあって、それが起こるのは本当に見てられない。嫌だ。みんな心を乱されることがゼロだったらいいのにと強く思う。
感情はできごとに対して生まれる……なんでこうやねんアホか、なんかこんなんあるやんおもろ、なんかこんな感じ楽し、なんでそうなるん悲しい……
感じることができるのは生きているからで 自分の感情を大事にしてくれるのは自分だけだ。
感情より大事なものがあるだろうか。
と最近考えている。
おやすみなさあい