夏の思い出手を繋いで

 

 

 

 

ファミチキは6時間で廃棄されるらしい。

鶏肉、ただ切り裂かれて冷凍されて揚げられて捨てられてミンチ。

(情報提供は高校のときからの友達!ありがとうございました!)

 

 

な、あのさ、夏が嫌いだと思ってたけど 冬の方が好きだと思ってたけど夏が好きなやつとは話が合わないと思ってたけど

そんなことなかったわ、夏もぜんぜん冬よりむしろ詩的かもしれへんね。

カリフォルニアのヤシの木を見たからかな。なんてね〜最後の夏休みやから ちょっとセンチメンタルになっているのかもね。

 

でもまあ〜、夏はそれでもすべてを意味ありげにしてしまうマジックがあるわな。

昼の暑さと夜の涼しさの 差が 物足りなさを生むのかな、しかし冬には 人肌恋しくて寒くて震える。

熱帯夜とかクソやね。なんの風情もないよね。お昼間にどんだけ暑くたって夜が涼しければ許してあげるよ。

みんな 過ぎ去るときになってようやく 寂しそうな顔をして縋り付く

馬鹿なんだよな。

 

 

 

 

ゼミの教授と 友達と三人でおしゃべりしたよく晴れた日の午後にすべて満ち足りたのになにかを喫茶店に忘れてきたような気がしてそわそわしてしまう。

きっと 一人になった途端に自分が自分の元から違うどこかへ行ったんで 落ち着かないんでしょう。

 

先生をみていると こんな大人にはやくなりたいと思う。

「先生わたしはぜったい大人になんてなれません」と言ったら

「大人とか子どもとか難しく考えすぎなんだよ」と言われた。

そうなんやろうな。ほんまは2つの間に違いなんてなくて大人の基準がもしあるなら みんな、必要なときに必要とされる大人の顔をするだけ。

でもやっぱり先生をみたらこんな大人になりたいと思うし 自分はなれなさそうと思う。

 

 

 

 

何人かの人が「もっとちゃらんぽらんやと思ってた、ぜんぜん自分の考えをちゃんと持ってるやん!」とわたしについて思うらしい。

しかしじつはこの女、その逆である。

「馬鹿に見えてかしこに見えて馬鹿」なのである。だから人々に誤解を与えまくる。

事実、本能と感情とその場の空気に寄って生きている。思考なんてないに等しい。

馬鹿にはするな、でも、買いかぶるな、というのが世間へ言いたいことである。

わたしは評価になんて当てはまらないぜ。

 

 

 

日文の人たちはみんな優しいんだって先生言ってた。

みんな いろいろ しんどいバックボーンを持ってることが多いから。

人生に憂いがない人間に読書なんてする必要ないもんね。創作も、映画に没頭することも。

別の学部よりも 文学科は そういう暗い部分を共有しやすいから ちょっと異色なんかもと思うところもあるね。

まあ純粋に教養として 文学に関わろうとしてる人も たくさんいるやろうけど。なにごとも「ばっかり」ではないよね。

 

 

 

ばっかり で思い出したけど マイノリティなんてなくなればいいのにね。

個人個人を見れば、絶対評価をくだせば、マジョリティもマイノリティもないはずやのに、っていうこれはいつも言ってることやけど。

絶対評価しかすべきでないのに。社会なんてぶっ壊れろ!

 

 

じゃあね