小説を読む読む人生

 

 

死にたいとき、孤独なとき、本を読む

電車のなかで、家で、スタバで(スタバのだんぜん良いところはどこでも変わらない内装や店員さんの雰囲気とどこにでもあるということ)

 

人生において救いというのは 創作があるということだ

永遠の恋や愛 不変の事実 完璧なダーリンは、幅数センチの文庫本や長さ二、三時間の映画のなかにこそ、いや ほとんど、のみ、存在するのだ

 

だから 小説を読まない人というのはすごいと思う

だって彼らはあなたたちは常に 現実と対峙している、並大抵の精神力ではない

 

死にたいときに小説を読む、というのは現実逃避に他ならない

目も当てられない現実から逃げ込めるのは身体を放棄できる小説世界のなかだけだ

映画では短すぎるし テレビでは現実的すぎるし 酒では切実すぎる

 

映画を観たあとあなたと交わした感想の不必要な攻撃性も

テレビのなかで笑う不快なタレントを不快だと思ってしまうことも

お酒を飲んで暴れたおしてあらゆる人にかけた迷惑も

ぜんぶ、小説を読んでいると捨てることができる

小説の登場人物の過去と わたしの持つわたしはまったく関係のないところにあり、登場人物の脳みそのなかに生きるときだけ、わたしはわたしを抜け出せるのだ

 

わたしを知る人は全員、わたしの過去を知っているということで わたしに関する記憶を多かれ少なかれ持つわけだ

それは 黒歴史の多い、というか現在進行形で黒歴史大量増刷中の、わたしにとって耐え難いときがありまくるわけで

誰も自分を知らないところに行きたい、を小説は簡単に叶えてくれるツール、ああ、やっぱりすげえ最高

 

それに、偏屈で友達の少ない登場人物のでてくる物語は単純に救ってくれる

こんなふうでも生きられるんや、健やかに過ごせるんや、と思ったら、社会不適合者たるわたしも なんとか生きていけるような気がする

口の悪いおばあさんがそれでも家族や 少なくかつ年齢層ばらばらの友人を持っていたり

青くて痛い行動を引きずったまま生きる青年、歳いっても恋愛で仕事を圧迫してしまうおばさん、

そういった虚構の、と言ってしまったらそれまでなんやけど、実在しない人たちこそがわたしを、そして誰かを救うのだ

 

だから 思うのですが小説を読まない人は本当に強いです

日々のなかで自分という人間を常にひとり分背負ってきちんと生きている、それはほんまにわたしにはできないことなので 羨ましい

わたしは 昔から わたしひとりでわたしを生きることがとても重荷に感じて感じて感じ続けている

 

本を読んだほうがいいというのは常に言ってることやけど、それはたぶん語彙力とか表現とかそういったものについてのみ普遍的に言えることだ

創作に関わらずにすむ毎日を過ごせるならそれに越したことはほんとうにないと思う

だって まぎれもなく進む時間のなかをひとりでひとつの肉体を持って生きているのやから

やらないといけないことはたくさんあって、行かなきゃいけない場所もあり、会わなきゃいけない人もいる

続けるべき関係も 努力して繋いでおかないといけない人も 保つべき環境もある

じっさい、わたし達に小説なんて読んでいる時間はないのだ

学術書ならレシピ本なら有意義だ、生活に活かせるから 生活に繋がるから。

でも 小説は違う なにかを実際的に、してくれるわけではない

 

生活のなかでどうしたってたくましく図太くなっていく、水仕事の多い主婦の指の皮が厚く熱いものも平気で持てるようになるように望まずとも、長い生活というものに人間は適応していく

現実という熱い鍋にわたしはしかしいつまでたっても直接触れない

指の皮が薄く 肉が柔らかすぎてどうしたって火傷をしてしまうのだ

 

文庫本を鞄に入れなければ電車にさえ乗れないわたしにとって小説は切実に必要であり続ける、完