ぜんぶぜんぶ忘れていくしかないのかな

 

 

キスをするので憤慨した。

恋に落ちる代わりに、寝る代わりに、特別にする代わりに、キスをひとつされたものだから。

 

深夜3時8分、それはかいた胡座のしっくりこなさと専門外の作業の深度といろいろ、あいまってしきりに眺めた時計へ最後の一瞥をくれた時間だった。

二台のパソコンと図書館で借りてきた本の山積み、空の青いエナジー缶、本当はもっと吸いたかったであろう煙草のそれでも控えめに集った灰皿。

「終わった!終わったよありがとう!」

それは隣に胡座をかいていた男が卒業論文を書き上げた時間だった。こっちを感極まった表情で見つめて、え? まさか、ぢくりと動いた心臓、タコの吸盤みたいにした唇で熱烈なキスをされた時間だった。

3時8分。一生覚えているんだろうな、と思ってからはて、覚えているんだろうかと思った。一生覚えているだろうとその瞬間に感じたことはたいてい忘れてしまっているような気がする。

それでも、少なくとも今は、まだ覚えている。

俺の顔は熱くなった。あっつくなった。熱く熱くなった。まさかこんなふうに俺の気持ちを、お前への気持ちを、乱暴に扱われるなんてな。

顔を離して気まずそうなそんな顔をするならどうして寄付みたいなキスをしたんだ。

「俺はなんもしてへんよできたならよかった帰るわ」

そうか今度お礼にゼニ屋で奢 バタン

ドアの閉まる音。深夜なのに安全に配慮して点いている常夜灯。に照らされた廊下。肌寒かった。夜明けのまだ遠いこの時間がいちばん深く寂しい。

 

チャリンコを漕ぎながら思ったことは、豊富なトピック取り揃えておりましたはずなのにほらやっぱりな、ゼニ屋やと? あんな大学通り最安値の店で奢られたって嬉しくないわな、とかそんなくだらない、感情ですらないような財布のなかのいらないレシートくらいの、感想しか覚えていない。

ほらな。いろいろ強い感情が渦巻いて、後悔や怒り、おっきい悲しみとかたくさん、大事なのがあったはずなのに今はもう忘れた。

 

悲しいのかもしれないな。悲しいのかもしれない。

こんなかたちで日の目を、深夜だったけど、見てしまった俺にだけ大事な気持ちに。

呼べばどんな時間でも駆けつけて課題の手伝いも喜んでやる俺に、せめてもの恩返しとしてキスをしたあいつに。応えられない代わりに。好きになってあげる代わりに。

残酷だな、とぽつりと思うのは、日が昇りかけの桃色の空へ煙を吐き出す3時8分から数時間後の俺。

ほんとは俺もお前の真似して煙草始めたんだよ、なんて言えるわけもなくて煙草は苦手なふりをしている、俺もじゅうぶん残酷なのか。

 

これからのことは考えられなかった。ゼニ屋にだって行くかもしれないし行かないかもしれない。

俺たちは卒業するしそこで終わるのかもしれない。

 

 

 

 

おわり