バンクーバーに住んでいる。
つい先週、晴れた日が増え 働いていたカフェの客数も異様なほど増え、嬉しいけどしんどいなとか言ってたのにさいきんは雨。多め。
この土地にくるまで知らなかったんやけど、冬のバンクーバーは通称「レインクーバー」、誰もが当たり前にレインブーツを履いて外出する街だ。
それでもチューリップの葉はにょきにょきとその固い葉を地上に表し、たんぽぽの暴力的なまでに野生的な葉(葉ばっかりやな)はその背を伸ばし、ウメ科の街路樹には愛らしい、親しい花がついている、春が来ている。のを冷たい空気のなか、雪の帽子をかぶった山脈を遠くに眺め感じる。
この街のもう一つの特徴は、人種のバリエーションの多さだ。
香港がイギリスの手を離れる際、それに抵抗した人々が多くこの地に渡ってきたらしい。ダウンタウンを少し離れれば、街は中国語で溢れている。
驚くことに、ここらでは本当に中国語しか話さない中国人がふつうに生活している。英語で話しても無視、なんてざらだ。
すごい勇気だなと、半ば呆れてしまう。一歩自分の領域を出れば、そこにはまったく意味不明の言語を共通語とする人が溢れており、レストランのメニューも看板も解読不能、非常事態になにがあったか自分のわかる言葉で説明してくれる人なんていないのだ。
海外旅行に来ているのではないのに、一キロ離れたら望みもしないそれだ。
よく普通に生活できるなあと感心してしまう。
中国人だけでなく、韓国人の数もとても多い。
韓国語のみで書かれた看板もよく目にするし、韓国レストラン街もダウンタウンに存在する。
日本人はそれほどでもないにしても多い。街を歩いていたら高確率で自分に似た顔を見る。ジャパニーズレストランも散見できる。
インド人も アラブ系も多い。黒人はトロントやアメリカより格段に少ない。
ヨーロッパ人に関してはぜんぜん見た目ではわからないけど、イギリス人やドイツ人が多いように感じる。
ラテン系もけっこういる。
私はとくにドイツ訛りの英語が苦手で、ドイツ人の同僚の言っていることは70%くらい聞き取れなかった。
スペイン語訛りは、一回聞き直せばわかるけれどドイツ訛りは二回聞き直してもほんまにわけがわからなく、「ああこいつ英語理解できひんねんやな」という顔をされてよく会話が終わったものだ。
私の働いていたカフェは、24/7営業、つまりクローズドの看板を持たない珍しいところだった。
三日前に惜しまれつつ辞めた。自分で言うな。
キツラノという、最初にカナダにやってきたイギリス人が多く住んでいる土地で、礼儀に厳しい老人も多く来客した。
近くに大学があり、24時間営業の店は 大半がシェアハウスかホームステイ暮らしの彼らにとって格好の溜まり場である。
カナダはブリティッシュコロンビア州では、深夜の3時かなんかからアルコールの提供が禁止されているので、夜中のシフトに入っていたときは酔っ払った人たちもわりと訪れた。
同僚はほとんどが韓国人、次に日本人、カナディアン中国人、少しのドイツ人とラテン系が一人、地中海の近くのへん出身の子が一人……主に韓国語が飛び交う職場だった。
私がそこを辞めたのは、一人の上司と気が合わなかったからだ。
というよりも韓国人のその人は、日本人をあまり好きではないような感じだった。
夕方、3人しかシフトに入っていない時間帯、その人ともう一人の韓国人と私という状態が一番キツかった。
たまに明らかに私を笑いものにしていることがあっても、ずっと韓国語で喋っている彼女らに私はなにも言えない。
きっとそれがヒンズー語でも中国語でも、私は嫌な気持ちになっていただろう。
だから私はぜったいに嫌韓なんてアホらしい主義を持たへんし、職場で出会った韓国人の友達はとても大切だ。
でも、事実として「韓国人は韓国人同士でグループをつくるのが好きだ」という民族としての特徴がある。これは、カレッジの国際交流の授業で教科書を使って習うことであって、私個人の見解ではない。
そうしてその特徴は悪気なく人を傷つけることがある。
どの国のどんな文化だって、それを知らない人を傷つけてしまう可能性を大いに孕んでいる。
ラテン系の人たちのなかには異性との距離が近く、日本人から見たらビッチやなって感じる行動だってふつうにする人だっている。
日本人のなかには目を合わして話すのが苦手で感情表現が少ない人が多く(西洋人比)、アジア以外の国の人には反感を買うこともある。
白人カナダ人の若者にはめちゃくちゃフレンドリーな人がいて、距離の詰め方に戸惑う日本人も少なくない。
こういう羅列って人種差別なんだろうか。
レイシャルなフィルターを通して第一印象を決めるのは。
中国人の同僚と、どうしてバンクーバーに来たのかって話をしているときに聞いた話がある。
彼女ははじめ、ボストンに留学していた。人々は彼女にまず「アンニョンハセヨ」と話しかけ、怪訝な顔をすると「こんにちは」と挨拶し、次に「ニーハオ?」と聞いた。
「ハロー」でも「ハイ」でもなかったらしい。アジア人に対する挨拶は。
彼女は年単位でボストンにいたが、現地の人々は決して彼女をアメリカに馴染ませようとしなかったらしい。
それでアメリカによくない印象を持ち、カナダに来た。
バンクーバーでそんなこと、まずありえないからだ。
誰に対しても「Hi there!! How's it going?」な街だからだ。
でも。
ラテン系の同僚が、「アジアンってこっちが笑顔で接客しても目も合わせへんしありがとうも言わんときあるよね」って言ってきたことがある。
みんながそうなわけでは絶対ない。絶対にない。でも、明らかに他の国の人たちよりも中国人や韓国人に、無愛想な人の割合は多い。
それは別に、愛想をよくする必要がある環境で育ってきてないからだ。絶対に個人のせいではない。
でも。でも、こっちも人間で、ほとんどの人が笑顔で、ときには「Have a nice day!!」まで添えて、店を去っていくなかで そうでない客に当たると気分がよくない。
そうしてそこで、「まあ中国人やから仕方ないか」と考えることは、一種の予防線でもあるのだ。
それは絶対に軽蔑も見下しも入ってはいけないと思う。ただ、「中国人にそういう文化がないなら失望しても仕方ないか」と心でその態度を受け止める。
これって差別なんだろうか、違うんじゃないか、てか違うくあってくれ〜
と思う。
そこで、愛想のいいアジアンに出会ったさいに「アジアンのくせに愛想いいな」とは考えたくないよな、とも思う。
つまり、気分を害するような行動を受けたときにそれは文化やからと受け流し、気分のいい対応をされたときにはその人個人のものとして見る、ことをしたい。
「アジア人で、カナダに住んでいて、そうして愛想のいい人」
ではなく、
「愛想がよく気持ちのいい人」
という個人で相手のことを見られたら・・・・・いいんやけど難しい。
あまりにも人種というのは目に見えすぎてしまう。
見た目は文化に直結し、文化は態度に出てしまう。
まったく違う文化のもと、まったく違う言葉を使い、まったく違う教育を受けた人たちが一緒に英語を使って暮らす街に、私は住んでいる。
これは たまにほんとうに難しいときがある。
「人種なんか関係ないやん!」と思って人に接している人も、どれかの人種に当てはまる。どれか一つの文化の元で育ってきているのだ。
いま、初めてカナダで働いた場所を辞め、出会った人々に「あなたの英語は上手だよ」と言われる回数も増えてきた。
ジョークもたまに言えるようになってきたし、同僚と日本人抜きでご飯にも行った。
そんな少し余裕の出てきた状況で、「race=人種」について考えている。
「raicist」という言葉が「人種差別主義者」という意味なのもいまいち意味不明。
黒人だけが「black」という言葉を自由に使えるのもへん。
そういえば、明日か明後日誕生日です。
22歳も終わりかあ〜