腐りかけの果物を美味しいと感じる味覚

 

 

 

自ら死を選ぶに足る確信というのはたぶんあるような気がする。

それはなんとなく 「もう生きててもしゃあない」とか、「死んだ方がマシ」とかいうマイナスな感情ではなんとなくない場合があるように思う。

「死ぬしかない」という確信。

ときどき、「これしかない」と思うときというのはある。

ショッピングの場面で、文章を紡いでいるとき、「このワンピースを手に入れなければ」「これはこの言葉でしか表せ得ない事柄だ」などという確信に出会う。

それと同じようなものの気がする。

「死ぬしかない」、それは、ワンピースを買うときに人に褒められる場面を想像していないのと、この言葉のチョイス最高と言われるために文章を書いていないのと同じように、結果について想像の余地はなく、ただ「これしかない」という決断。

もちろん閉塞感に、世間に、将来に、家庭に、押し潰されそうな心を抱えて、しんどい結果の自死かもしれない。

でも それらに押し潰されそうでも踏ん張る心の強さの無根拠さと同じように 自死へ向かう気持ちにも根拠はなさそう。

死ぬ理由がないことは 生きる理由がないということと大して変わらない質量ではないか、生きるための気力とか そういう基本的な物事が欠けたときに容易く人は死ねるのではないか。べつに責められるようなアレもなく。

 

自殺をする人としない人との違いはなにか。

それはもちろん自殺を本当にしたかしないかだろう。

でも思うのやけど、その二つを違うものとしている、生と死をわけている塀は常に高さを上下していて たとえば南大門の敷居くらいまでその塀が下がってきたとき、ひょいと飛ぶ理由、ちょっとの理由がもしあれば、人は死ぬのではないか?

 

殺人よりも自殺のほうが いくぶん私には親しいもののように思える。

リヴァーフェニックスが死んだのは23歳、いまの私と同い年のときだ。オーバードーズで死んだ。

私は?

じゃあ カナダでコーヒーを飲み過ぎて身体を壊したときに カフェイン中毒

たびたび飲み過ぎるお酒のせいで 急性アルコール中毒になって

死ななかった理由がないのだ。

そして自分、23歳の自分は、死ぬことを決断しても いいように思う。

"若過ぎる死"なんて表現はちゃんちゃらおかしい。

23歳でも 死ぬことを選ぶことはできる。

死を選ぶ根拠は、じゅうぶんある。

 

自暴自棄とも言えるだろう。

べつに 私と、ちっぽけな、世間において無価値の・私と、リヴァーフェニックスをおんなじ土俵にあげるわけじゃないけど、彼が死んだその理由と似たような理由で今まで何度も私は死んでいたかもしれない。

そう思うと 自分が生きていることと死んでいることの境が曖昧にぼやけてくる。

私は死に得た。今までに。

 

病気や事故による悲劇的な死と それは違う。

自死や 何らかの中毒は ぜんぜん違う。

自ら死に向かうこと。

死ぬしかないという瞬間、敷居がぐわっと下がってきて ほんのワンステップで向こう側へ行けてしまう瞬間、それって恐ろしいものだろうか?

確かな形の解決策は もはや舌に甘い。

 

不安や期待、裏切りや幸福は 死の原因になるだろうが

それとは違う場所にあるスイッチで すべてが噛み合い動き出す。

天国とか地獄とか 思考の外だ。

家族とか恋人とか友達とかそれらが一堂に会するお葬式とか

まったく関係ない。

関係ないのだ。