人間に片想い

 

 

 

大学のゼミの先生が わたしの人生における唯一の恩師なんですけどね、

先生の言葉は 幾度となく私を救ってくれたのですが、とくに 日常的に救われてるのが

「好きという気持ちは一方通行ではない」って言葉なのですよ。

 

人間の気持ちがまじでわからんくて、自分からはほぼぜったいに声をかけられない私なんですが、それでも、「誰かを好きになる」という 人間同士 関係を築く上での第一段階が、この言葉によって わりにすんなりできるようになった気がするのですよ。

 

私が誰かを好きだなと思うとき、この人いいなと思うとき、必ず相手も私をいいなと思ってくれてるって先生は言うのですよ。

 

言葉というのは 不思議で、受け取ったとき 理解したつもりでいても、ほんまやなあって感心した気でいても、実は本当には吸収できておらず

自分にとって本当に理解できる瞬間というのはまた別にあったりするのですよ。

 

聞くこと と 本当に理解すること は まったく違う部分によって なされることなのですよ。

理解したあとに 自分の骨となったり肉となったりするのも また 別の話で、だから、自己啓発本を読んでも そこに書いてある言葉と 自分の人生がきちんと重なり 自分の身になるって保証はないのですよ。

 

私は すべての言葉を理解したいですよ。あなたの言葉を。言葉の奥の本質を。その表情を、仕草を、目線を。あなたの性格を。考え方の傾向を。昔に放った言葉を。あなたを攻略したいのですよ。それがひいては私の身の安全にもなり得るし、あなたの理解者になることで、寄り添うことで、私自身がひとりじゃなくなるから。友達ぜんぶに思ってますよ。わたし重い女なので。そんなことは秘密なのですけど

 

まあそれはよくて。

 

わたしがこの人 おもしろいな 友達になりたいな って思うとき、相手もそう思ってくれてるって、

ええ?ほんとに?わたしなんかを?と、一人称で疑ってしまった自分もいたのですが、

他人というのは自分を写す鏡で、誰しもが他人のなかに自分を見るし、そこが共鳴すれば 人と人がひかれあうのは 当然のことともいえますもんね。

私の自信のなさとは関係ないところで、人と人が話して 会話の粒子がその場の雰囲気を形作っていくのですもんね。

私は私の友達が私のなかにいったいどんな魅力を感じてくれるのか、魅力とはいかなくても会って話してくれるどんなメリットがあるのか、もう本当にわからなくて 自分やったら自分なんかと友達にはなりたくないなあと思いつつ自分に寄り添う自分を想像する快感、ああ、うんこ、わたしはうんこだ、とかなってるけどまあ私は人に優しくしたいと思っているので、そういうとこをわかってくれる人も世の中に何%かいてくれているんやなって思うわけですよ。

そして 無防備にも人たちを好きになって、それを必死にばらさないように、相手が私を招き入れてくれるのを息を殺して待つのですよ。

 

先生は偉大だな〜

ひとりじゃ気づけなかった。

わたしは人を必要としていて、人にとって私もときどき必要なのだということ。

代替可能であったとしても誰かの一部になれること。それを疑ったとしても切り捨てはしないほうがいいこと。

 

人っていうのは塊魂みたいであり流氷みたいでもあるのだな。

周りを巻き込んだり、ぶつかって削れたり。

どんだけ傷ついても それを忘れないでいても 新しく人と関わり続けることをやめられないなんてなんの因果だ。

人と話すのには体力がいる。自分がどんな人間かわかってもらうのにはもっと体力がいる。

それなのに理解を求めることをやめない私たちは馬鹿なのか。

許してもらうことに慣れすぎたらだめなんだろうけど、もし、数ヶ月前、孤独に震えて胃を痙攣させていた私にとって今の 人間にかまってもらえてる自分が想像できなかったように、数ヶ月後、また想像を絶するほど悲しくひとりになっても、いま、楽しいなら良いね。

寂しくないって素敵なことだな。

私は、もう、みんなを消費したくないよ。

って言うのにも本当に勇気がいったよ。

 

人間と関わるのって本当に怖いよ。

 

いやあ、まじ 雑踏のなかふと冷静になって、ここに存在する人間全員が感情を持っていてなにかに傷ついたり悲しんだりする、ってことに気づいたとき途方に暮れるよ。

誰にも悲しんで欲しくはないし傷ついて欲しくないよ。それなのに自分がつけた傷だって世界にたくさんあるんだ。残っているし乾いていないものも、あるし。

 

ひとりで生きていければいーのにね。自分には無理だとわかった今年でした。

2020年の締めくくりみたいになっちゃった

まだある!!!!まだ2020終わってねえよ!!!!!

 

 

いや、寝よう。

おやすみなさい