睡蓮が私を呼んでいる。
このところずっとあの白ピンクい花弁に会いたくてしかたがないが。
異様な大きさの葉。太陽を離さないさやかな緑りいろ。
行きたいのはベトナム。不忍池ではなくて、いや、まあ、それでもいいのかもしれへんけど。
数年前、母はモン・サン・ミシェルに呼ばれたといった。
どうしても行かなくては、という気持ちに、生活のなかでなんども襲われたらしい。
襲われたことさえも事後報告な母なので、私は「なんで行かんかったん!!」と言った。
「今からでも行けばいいのに!!」と、もちろんコロナ禍まえ。
「もう呼ばれてる気しいひんからいいんよ」というのが母の答えだった。
「ええ〜〜〜、行けばよかったのに!!!!」と私。
「ほんまやねえ」と もはやひと事のような返事。冷めた情熱、欲求の石化、からの炭化……
モン・サン・ミシェルでなにが母を待っていたのだろう。
それがなんであれ、もしか母を私から奪いさろうとしたなにかであっても、私はそれと母を会合させたかったのに。
待っているからには、母を引き寄せたからには母に幸福をもたらすなにかであろうと考えるのは浅はかだろうか? そんなことないやろう。
そんな話のせいもあってかそんな予感たちをないものにしたらいかんというのは私の信条になりつつある。
なにかをしたいという欲望がどこから生まれたものであっても、それが自分にしか見えないなら、それを生かすのは誰だ?
まじでお酒を飲みたい気持ちのときにそうしないって理由をいっしょうけんめい探すことのほうが滑稽ってもんよ。
飲んだらいける素敵なところと飲まずに見える大切な現実……
人生をふたつにわけるものごと、〇〇前と〇〇後に、自分の半生をわける出来事がある。
その軸は たぶんひとつではなくて、これからにもたくさん私を待っている。(『君の名前で僕を呼んで』に書いてた)
今の私と完全に違う私に、今の私を会わせてくれる劇的かつまだ参入してない人間が私の人生のうえに どがんと座っていると考えるのは不思議で素敵なことだ。
もしもモン・サン・ミシェルでママを待ってた誰かがママを、今のママとまったく違う人間に変えていたとしても。
もしも蓮の花のたもとで、大きな葉のうえで胡座をかいて、いま私を待つ人が今の私から私をかっさらっていくとしても。
誰かに引かれた髪の毛引きちぎって半身どこかへ残してきてでもそこへ行こうや。
睡蓮咲き次第可及的速やかに睡蓮の名所行こう。おれひとりでな。
魚座でO型のひと〜〜〜
ねえたびたびじぶんにこどもができたらのはなしするけどそれってけっきょくわたしたちがおやからあたえられそこねたとかんじてるものにたいしてよわよわふにゃふにゃのぱんちくりだそうとしておとなのかおでじぶんのむねにつきたてたふりしてるってだけなんじゃねえのうらみつらみのさとうづけなんちゃってばーか
かに座の女は、そろそろきたる春に気持ち焦っても地に足つけて肉体に触れずに行け。
ふたご座の男は、スカートの布、その素材でなく色にも注視しといたらいいことありそうじゃんっ!
B型の女の子は今週いっぱいはワガママの精度あげてこ。
AB型の男には会ったことないな、男の人ってAB型率低いん? 逆に女友達にはAB多かったけどな昔、いまは、知らんけど
おやしみっ