決まってランチなのはどうしてだか知ってる?
もちろん、彼は知っている。しかし彼がランチをしたいのは、そんな質問をしない友達なのだ。
家に帰っていちばんにトイレに駆け込む私の、こんな姿は死んでも見られたくないな。
「昨日もさあ」
大きな口を開けて、丸めたパスタを頬張った。彼の視線が皿に集中していることを確認してから、私はそのまつげを眺める。
"そんなに一口、おっきいなら、いっしゅんで食べ終わっちゃうじゃん。"
彼が不意に目を上げた。
近頃気に入ってずっとかけている、透明な縁の伊達眼鏡越しに、目があった。聞こえてしまったのだろうか。私の、愛おしさの滲み出た呼びかけが。なんて、そんなわけ、ないのに。ぎくりとしてしまう理由をそんな場所に見つけようとする。
「……食わねーの?」
何度も。
見ていることに気づかれたときの視線の邂逅を体験し、その雷鳴轟く神秘の時間、すぐ後に襲う気まずさ、彼の美しさに酔い時間を忘れて見入ってしまうことへの恥じ入りと後ろめたさ、他のところへ理由を探しに彷徨ってしまう自らの卑しい目玉、理性の及ばないところで跳ねる心臓、すべてを、すべてを何度も体験し、私はついに微笑むことを覚えた。
その表情はやっぱりただの女友達の枠を越えてしまってはいるのだが、最善の策だとは言えた、なぜなら、彼は明らかに安心するようになったからだ。
戸惑わない私に。恥じ入らない私に。顔を赤らめない私に。すなわち、期待をしてしまわない私に。
彼もそして、笑い返してくれる。
「食べるよ、昨日も、なに?」だから私はかろうじて答えられる。
手元の赤い麺を、銀色のフォークとスプーンを使って、くるりと巻いた。
馬鹿な。
彼と一緒にいて、食欲など湧くはずがないのだ。なにを摂取する必要があるだろう。心臓の体積が五倍に膨らみ、肋骨のつくる空間を占領し、他のすべての臓器をことごとく圧迫しているときに? 彼と時間を共にするということだけで空気から過量の幸せを取り込み、それを吸収することに必死で他のことに使われることのない血液を全身にぐるぐる巡らせて?
しかし私は名女優なので、赤い麺の塊を口のなかにいれた。彼のつくるパスタの玉の四分の一もない塊を。
義務を果たし、目をあげると、満足そうな彼はひっそりと口角を上げた。喜劇に出てくる密告者のような口ぶり。
「昨日の夜もまたウーバーイーツしちゃったよ」
「なにを食べたの?」
「それがさあ、彼女が冷凍のうどんを茹でてくれるって言ったんだけど、もうあとふた袋しかなかったんだよ。
そんなん足りるわけないじゃん? だって彼女も食べんだからさあ、そんでなに頼んだと思う?」
彼は、心底おもしろそうに笑いを湛えて話したかと思えば、こちらにはてなを投げるさいには目を大きく開けて眉毛まで上げる。分厚い唇のはしに、トマトソースがついている。
私はまた微笑んだ。ほとんど噛まずに飲み込んだ小麦粉の糸がせり上がってきそうだ。愛おしい人。二度とそんな話を聞かせないでほしい。可愛い人だ。その女の顔なんて絶対に見せないでほしい。澄んだ瞳で幸せを掴む人だ。
「なんだろ、パスタ?」
頭を下げて、私を覗き込む目が三日月型に変形し、唇は弧を描く。
「ほんとに言ってんの? おれどんだけ麺類好きなんだよっ!」
「じゃあなに?」
「ピザだよ!!」
彼は、彼自身のみが知るところの面白さにより爆発的に笑いだした。
「ピザ!? けっきょくアメリカ人じゃん!!!」
私はそう言い、笑ったが、それはもうほとんど言わされているのに等しかった。
いつもそうなのだ。面白いことも面白くないことも、すべてを爆笑の渦に巻き込みめちゃくちゃに面白くしてしまう。彼の周りはだからいつも体を折って大爆笑する人たちで溢れる、彼のギャグやボケが周りを笑わせるのではなくて、彼のその人柄と大きな笑顔に、その善良さに、彼を大好きなみんなは安心して腹を抱えてくずおれるように笑うのだ。
そして私も。微笑みの鉄壁を崩し、どこかから湧き出る衝動に任せて笑う。
「うるせー! 彼女はうどん茹でようとしたんだから日本人だよ!」
彼はまだ笑いながら見当違いのつっこみを重ねた。私は、彼の善良さにより、笑うことを許されて笑う。
これ以上の幸せはないのだ。
ここがいちばん、到達できる範囲でいちばん、彼に近い場所なのだから。
「てかおまえどんだけ少食なんだよ、もっと食えよ」
笑いが収まったらしい彼は私のまえの皿を見ていとも簡単に言った。
「おれの彼女なんておまえの三倍ぐらい食うよ」口角を下げたと思えば、
「食ってるときの顔もかーわいいんだけどね」目をほとんど閉じて幸せそうに笑う。
馬鹿じゃないの、と言われることを前提とした、その、惚気話に。
「馬鹿じゃないの」
私はきちんと言ってあげるのだ。呆れた、という顔をつくって。
「へへへ」
だから彼はお手本のようにきちんと笑う。
そうして店を出たら彼は服を見たいと言ったり彼女になにか買って帰りたいなどと言う。私は時計を見る。四、五時間もいっしょにいると幸福感の放つ熱によって肉体がずるずるに溶けて排水溝に流れていってしまうような気がするからだ。汚いシンデレラだ、こんなに時間を気にする理由は悲しい。私はまずもって彼の不在よりも彼と一緒にいることに耐えられないのだから。
駅まで送ってもらうと、私は逃げるように電車へ走り下を向く。頭を真っ白にしながらついた自宅、駆け込むトイレ、便器に顔を埋めて、ぜーーーーーーーーーーーーーーんぶ、吐く。
ぜんぶ、吐く。
予想通り消化されているはずのないアマトリチャーナ。指を突っ込む。まだ吐ける。
ありがとう、彼女の名前をぜったいに言わないでいてくれて。指を突っ込む。まだまだ吐ける。
惚気を言うあなた。美しいカップルの深夜の不摂生。水分をたくさん含んだ白い頬、下まぶたの薄い皮膚。指を突っ込む。
あなたはぜんぶで愛すのだろう。あなたの彼女を。大事にすると何度も聞いた。結婚したいと言い始めたのは彼女と付き合うまえからだったけど、私だけはそれを笑わずに信じた。背の高いあなたの彼女はきっとあなたにとても似合いで、いっしょに歩けば誰もが振り返るだろう、だから私はあなたの住む区には足を踏み入れないの。タクシーで通過したりも、しないの。ちょうどの身長差、あなたは後ろからハグをするのが好きとか言った、指を突っ込む、もう吐けない。
吐くものは体のどこにも残っていなかった。
決まってランチなのは、夜に会えば酩酊して好きだと言ってしまうからだ。必ず。こぼすように、こぼれるように。心臓からせり上がる好きが口から溢れ出るように。
私は彼をとても好きだ。
彼の周りの人間は、みんな、ぜんいん、彼を大好きだから、麻痺した彼の奇跡的な寛容さで、そばにいることを私は、許されているだけなのだ。
みんなが彼を好きだ。彼もみんなを好きだ。みんなに好かれる彼を彼自身も好きだ。
私は泣いた。泣きじゃくりながら、レバーをひいた。
渦を巻いて吐瀉物は、下水道へと吸い込まれていく。溶けてしまわなかった私の身体もいつかは。なんて。いろんな気持ち、日付の変わる前にきちんと流して、
これでもう、次に彼に会う準備はできた。
おわり❤️