反射した光があなたの目に刺さるとき

 

 

蓋についての話をこないだ、このブログで した。

 

嬉しいという感情に被せる、蓋。

それは茹で鳥をつくるときに、お鍋にぴたりと被せる蓋(ささみや胸肉の入ったビニール袋に液体塩麹をぶち注いで熱湯に30分沈めると美味しすぎる)。

それは思い切り振ったコーラのペットボトル、噴き出る瞬間に閉じるような蓋(これはあんまりうまい例えじゃない)。

それは浮き上がるビート板に無理やり乗ろうとするときのように強い力で踏み閉じる、蓋。

 

誰かになにか、いいことを言われて、嬉しいと思う気持ち。

その湧き上がる純粋な感情の、うえから、でもそんなことはなんでもないんだと 諭すように締められる蓋。

それを周りの人も、自分も、ずっと右手に隠し持って準備してある。

 

その蓋の存在が、私は悲しい。

 

どうして、「お前は無能だ」を信じられて、「そんなことない、あなたは頑張ってる」は軽んじられるのだろう。

「デブが足出すな」を信じられて、「おしゃれですね!」は嘘だとみなしてしまうんだろう。

 

他人からの評価なんて気にするなって、ほんまにそうなんかな?

 

さいきん、目立つからかして、まえよりも周りの人に感想を持たれる。順当に社会人になったらほんとはもっと注目されるのかも。なったことないから知らんけど。どうですか?

 

まあ、

みんなほんとうに勝手にものを言う。

私だって勝手にものを言うから仕方ないのだが。

 

 

「派手ですね」

「楽しければなんでもいいと思ってるでしょ」

アウトローやね」

陽キャですね」(そもそも褒め言葉としてのこれはどうなんだ、と思う、この世の中。)

「落ち着いてますね」

「長いこと付き合ってる彼氏いてそう」

「え!? 彼氏いる(た)の!?笑」

「怖い」

「ダメ男を好きになりそう」

「頭いいね」

「アホやな〜」

「迫力ある」

「でかい」(これは ぶつり)

「声がデカすぎる」(これはただの事実)

 

いろいろいろいろ。

ぜんぶ、私は受け止める。

とくに、いい言葉は全身で受け止める。

よくなかったり、てんで的外れだと自分で判断できるものは、半身で受け止める。

 

だって、他人に印象を持つということは、どこかでは絶対にエネルギーのいることだからだ。

なんてないようにみんな言うけど、そこにはあらゆる判断が隠されている。

傾向に当てはめ、感想を持ち、自分の中から湧き出るものを吟味し、いろいろ、経て、そして最後の関門「この人にこれを言っても怒らないか?」を突破して、あらゆる言葉は放たれる。

それがコミュニケーションだからだ。

そんなエネルギーの小さな塊を、受け流すなんてとんでもないと思う。

 

そりゃたぶん、世の中の人は私が思っている何百分の一くらいしかものを考えて話していないよ、とかも、あるかもしれへん。

私だって、私に感想を持つ人たちがぜんいん、私のことを考えている、私という人間のいちばん熱い部分、コアの部分を慮ってものを言ってるとは思わない。

みんな暇じゃないから。

でも、だからといってその、なにも考えていない人が放つ褒め言葉に意味がないとは思わないのだ。

 

たとえば、私は太っているし足も短いので、私に

「スタイルがいいですね」

なんていう褒め言葉を投げる人はシカトだ。

だってそれはコミュニケーションですらないからだ。

 

でも、私の着ているハンカチの柄みたいなシャツを

「おしゃれですね」

と褒めてくれる人がいるなら、その言葉は まったくもって無意味なものではない。

だって私こそがそのシャツを可愛いと思って選び、着て、自分を表現しようとしているからだ。

その時点でその言葉は皮肉でもなんでも(もし面接会場とかに着て行ったらその限りではないが)ないのだ、だから、受け取られるべき褒め言葉になる。

 

 

また、

「誰とでも話せるでしょう」

と言われることがさいきん、ままある。

コミュ力高いですね」と。

こんなものは年齢を重ねてきたからそう見えるだけで、もともと私はコミュニケーションのうまい方ではない。

だから100%の事実ではない。

でもやっぱりそれらの対人面に関するポジティブな言葉は、私をかたち作るもののひとつを、確実に担って担って担っていっているのだ。

だから鼻で笑わない。

 

そう、だから、誰だってなにかを褒めるときにどきどきちょっとはするでしょう。

「髪の毛切ったんですね、似合ってますね」を言うまでに ひとつ以上の過程は踏むでしょう。

しかしもって「くそ、いつも髪の毛ぼさぼさやんけ」って誰かに対して思うときには、苛立ちや少しのムカつきから直で口まで道が開けるような感じになるでしょう。

いや知らんけど。私はなる。

 

悪い言葉にはそれを吐く根拠があるけど、

いい言葉にはなくない?

その人に好かれたくて嘘混じりにかけるお世辞みたいなものだって少なくとも好かれたいと思う時点でポジティブだ。

 

だからポジティブなことだけ信用すべきなんだ。

こと対人関係においては。

ネガティブな言葉だけが本物の顔をしてる社会はおかしい。みんなネガティブだけ吸収してポジティブな言葉を吸収せず排出しちゃってたら身体にネガティブ溜まってまう。あなたの便秘の原因はそれかもしれない。

 

そして、それは知り合い程度の仲の人のでも、友達の言葉でもそうだと思う。

咎める言葉、貶める言葉、窘める言葉、なにかを強制するような言葉、そのすべての源は、言葉を発する人間のなかにある。無視してもなんの損害にもならない。

私の発する存在感という光を反射して相手がこぼした言葉、反射光だけを信じるべきなんだ。

 

他人なんて鏡でしかない。

ポジティブな可視光だけが輝いてあなたを照らす。その光の源泉はまぎれもないあなたなのだ。

 

とか言って。

他人からの評価にネガティブになりがちな母に書くつもりで。母にはこのブログ教えてないし教えられへんけど。

ふだん支離滅裂にただ書き連ねていることを整理してみようとしたらやっぱりとっ散らかったよ、だれが整理整頓下手くそ公共料金払えな人間や、うるさ、

 

そして唐突に飽きる。

おやすみなさい。

 

あなたが明日 外向きにはポジティブでありますように。

内向きは知らん。ネガティブのほうがおもろいときもある。