ヲタクに戻って1年になろうとしている

 

 

 

たとえばストちゃんの現場(ライブや舞台)に行くとき、母は気持ちよく送り出してくれる。

「楽しんでね!」または、「現実逃避してきてね!」

 

たとえばストちゃんの現場で、中学時代の友達大集結なんてシーンがあったとき。楽しかったよおおと母に報告すると、

「よかったね、また集まれるなんて最高やね!」または、「わりとみんなも現実見てないんやね〜」(友人たち、見ていたら気を悪くしないでね)

 

 

 

う〜〜〜〜〜ん、と私は毎回思いながら、

「楽しんでくるね!」や、「そうやね〜笑」

と返している。

 

母のその言葉には マイナスの影はゼロで、批判もしておらず、ただ単に「ヲタク(活動)=現実逃避」と認識しているだけのことなのだろう。

だろうというか、そうなのだ。

 

じっさい、私がどれだけジェシーちゃんを好きなのかということも母は知ってるし、実家のリビングでストンズの動画を流せばいっしょにみて笑っている。

ヲタ活に関しては楽しそうでいいや〜んぐらいの感じだ。

なにかに夢中になるということ、その対象がなんであれ、否定するような人ではない。

 

だからまあただの認識の違い。

 

 

私はヲタ活を現実逃避だなんて思ったことはない。

そして同じく(というか私を引き摺り込んだ)中学の友人たちだって、現実から逃げたくてヲタクをやってるとは微塵も思わない。

 

だって現実に存在する彼らを現実的な手段で応援しているだけのことだからだ。

 

 

 

たしかに!!!!

 

「あああ〜〜〜向こうからジェシちゃん歩いてこんかな〜〜〜〜〜」

というささやかな妄想や、

「舞台終わったジェシちゃんはたくさん食べてビール飲んでるかしら〜〜〜」

というささやかな想像、

「アロマとかキャンドルとかいい匂い好きなジェシちゃんはきっといい匂いなんやろうな〜〜〜〜〜」

というささやかな、、、、あっ待っていまジャニーズJr.チャンネル べーって流してたら急にストンズの動画になってジェシちゃんが大写しになって目が釘付けになってしまった、、、

 

まあ、そう、ささやかかつ非現実的な独りよがりが、ヲタクをやっていると、ないと言えば嘘になる。

現実として肉体同士、会って認識しあえる位置にいる人ではないので、ときには知らない知れないブランクを自らで補うことだってある。

 

でもそれは一部だ。ジャニーズヲタクをやっている生活のうちの、ほんの一部でしかない。

ヲタク活動のほとんどは、妄想、ではなくて実際の彼らの写真や動画、ブログを”見る”あるいは”観る”こと、ラジオを聴くこと、が占めている。

つまり現実のエンターテイメントとして提供されるアイドルという偶像を摂取しているにすぎないのだ。

 

加えて私の中学友達たちは、みんな可愛い。

このブログでも述べたことがあるように………あるっけ?

忘れたけど、まあ、可愛いってつくれるのだ。

可愛い女の子というのは世の中にたくさんいて、そして、必然として、可愛いにはメソッドがあり、だから、目指せるし叶えることができる目標である。

彼女たちは完璧にそれをクリアしているし、プラスアルファで可愛い。

媚びないし自立しているし、そのぶん隙はなく、気が強い。

 

何が言いたいかというと、現実逃避なんてする必要がないのである。

だって現実に持っている自分に対して(たぶん)満足しているわけだし(少なくとも私にとって彼女らは輝いているし自分だって自分を好きだから)、誰かに手を握っていてもらわないと意見を言えないような弱さはなさそうだし(私の目から見て)、男性性というものがたぶん必要ないのだと思う。

 

 

これはほんとうにほんとうに勝手な見方で申し訳ないのだが、(ごめんね)

彼女らには べつに愛したものに愛される必要がないのではないか。と思う。

 

いま、目に付く中学友達のジャニーズヲタクたちは、中学の頃からジャニーズヲタクあるいはなんらかのヲタクだった。

恋愛がとくに浸透していない 少女であるときも、ある程度いろいろまあ経験したっちゃしたなという女性になった今でも、そんなことは関係なしにジャニーズのヲタクをやっているのだ。

 

ということは、一方的になにかを愛するということになんの抵抗もないということだ。

愛されることを目的になにかを愛さない、ということだ。

それはなぜか? たぶんすでに愛されて、当たり前に愛されて育ってきたからではないだろうか。それはまあ知らん。各々 理由はあろう。

 

何が言いたいかというと、現実に存在する男性であるジャニーズ、我らが担当ちゃん、を、愛されるためではなく純粋に愛するために愛しているのだ。私たち。

愛される妄想や、満ち足りる想像なんてなしに。なしにでも、愛することができるほどすでに十全なのだろう。

だからつまり、私(たち)にとって、担当に会いにいく……こういう言い方をするから現実逃避的になるのか……担当を みにいく、ことは、しんどい現実の生活から目を背け、ユートピアに逃げ込むということとはまったくもってイコールになり得ないのだ。

 

担当と付き合えるかもしれないと思っているからこんなに愛を注いでいるわけじゃない。

見返りゼロなのだ。好きだから好き。

 

 

そしてヲタクになったことのない人にとって、見返りなしの愛を注ぐ行為というのは狂って見えるだろう。

「辛くないの?」とさえ訊かれたこともある。

「そんなに手の届かない人、絶対に会えない人のこと好きで辛くないの?」と。

(私はまあリアコなのでこの質問は特に的を外れていないが、リアコでなく純粋にヲタクをやってる人からしたら見当違いな質問だろう。まあそれは置いといて)

答えは、「辛くない」。当たり前だが。見返りを求めず物理的でない恋ほど傷付かずにすむ行動はない。

しかしそれはたぶん理解できない人にとっては徹底的に理解できないのだ。

つまり、愛されることが愛することとセットであることに疑いのない人たちにとっては。

ヲタクとパンピ(これってまだ現役ワード?)の間には深い深い溝がある。

 

 

大学時代の私を知っている人からしたら、「え? あなたってどっちかというとオタク嫌いじゃなかったっけ?」って疑問もあるかもしれへん。

ちなむと、私は現実逃避型のオタクは未だ嫌いだ。

自分の中学時代を思い出してむずがゆくなるし現実逃避の道具に担当や推しを使うのは、対象を消費しているだけじゃん〜って思っちゃうから。

流行り物を追いかけることを悪いことだとは思わないし、私だってストンズが流行ってからハマった、トラジャちゃんだってそうだ、アンテナは基本的に鈍く、ミーハーよりも新しいものに触れるのは遅い。

ただ、次々流行り物から流行り物へ、流氷を渡ってどこかへ行こうとするみたいに、熱で溶けかければ捨てるようなやり方でものを好きになるというやり方が好きではない。

なにを好きか嫌いかなんてその人の自由やから、私においてはそんなふうにものを消費していくだけの人と関わらなければいいというだけなのだが。

 

 

そう、だから私たちはどこかへ行くツールに、担当を推しを、しないというだけだ。

夢の国に連れてってもらうために好きでいるわけではない。

 

 

私個人の話になると(ずっと基本個人の話なのだが)、だからといって傷つかない恋にずぶずぶになってくといざ愛される段になるともう体が持たないのではないかということだけだ。

あてにされたり愛されたいと願われたり将来を共にしたいと願われることは想像するだけで恐ろしい、はあ、誰かと一緒に生きられるのか?

 

 

 

ベランダのひまわりを枯らした。

もうほんとに水やりを待たれるのがプレッシャーで、毎日愛と言う名の水(逆〜)を注ぐのがしんどすぎたからだ。ある日やめた。水やりを。

ほんとに笑ってする話じゃないと思う。ひまわりだって生き物なのだから。まじでだめなことしたと思う。

母に言ったら「あなたは二度と植物を育てようとなんてしたらだめ。この先二度と。」とガチで怒られてしまった。

でも、そういうことなのだろうと思う。

自分以外の生命がことごとくプレッシャーだ。

ずっと ハイハローハウアーユー、くらいで、いいのかもしれない。

 

 

 

いつも冗長なのに今日はストちゃんとトラちゃんのYouTube観ながらなので余計に冗長です。

ひとり焼肉の楽しかった話でも次は書こうかな〜

 

 

ほな!