美しーン(最悪のダジャレ)

 

 

 

 

やはり、シーンに必要なのは物語である。

 

 

たとえばじゃあ 映画『ララランド』で、最後の最後、セブが微笑み、ミアが微笑み返すシーン。

そこだけ切り取ったって美しい。美しい男性と美しい女性の 微笑の応酬、単純な画としてそれは成立していると言っても過言ではない。

 

 

 

たとえばじゃあ 短編集『号泣する準備はできていた』のなかの『熱帯夜』という私の大好きな大好きな小説の一節、

マンションに帰ったら、私たちはくっついて眠るだろう。たぶん今夜は性交はしない。ただぴったりくっついて眠るだろう。男も女も、犬も子供もいる世の中の片隅で。

だって、これだけでもう美しく、価値のある文章だ。その部分だけでも何度だって読みたい、読み心地の良い、そして、ある種完結していると言ってもいいほどだと思う。

 

 

たとえばじゃあ 今は大好きなSixTONESの動画、そのうちの友達が最初の最初におすすめしてくれたいくつか、

旅行に行ってる見目麗しい男たち6人や バーベキューをしている見目麗しい6人、なんてないゲームをしている見目麗しい6人、

彼らのことを深く知らなくたって動画は面白いし 見どころもたくさんあって楽しい。それだけで、独立してひとつひとつプログラムとして成り立っている。

じっさい「ああ、京本大我KAT-TUNの弟がおるグループやろ」ぐらいの認識だった1年前の私にも、彼らのYouTubeチャンネルは面白く、なんでも途中でやめてしまえるくせに最後までぜんぶ観られた。

 

 

 

 

 

でもやっぱり

あの微笑みの応酬には たとえば公園で確かめた「I'm always gonna love you」であったり、訪れなかった未来、それそのものの上映会であったり、ふたりだけで想像したジャズバーのロゴだったり、そういうそこまでの過程、微笑みに深みを持たせるバックグラウンド、がなければなんの意味もなかったりする。

 

 

でもやっぱり

「男も女も、犬も子供もいる世の中」には たとえば女性だけを恋愛対象とする主人公と バイセクシュアルの恋人だったり、ふたりの素晴らしすぎた旅行だったり、ぬるいビールだったり、最後の一節(上で引用したのはその物語の最後の一節だった)を脚色するすべてがなければ、完成された美しい一節は、ただの"美しい一節"にしかならない。

 

 

でもやっぱり

このふたりの掛け合い、誰かの細やかな気遣い、には たとえばこの人とその人がお互いにどう思っているかだったり、誰を中心にグループが回っているかだったり、表に見えやすいキャラとは違う深みがそれぞれに隠れていて意外な人が冷静だったり、知らなければ、彼らのYouTubeチャンネルは、ただの流れていくテレビ番組と変わらない。

 

 

 

シーン、つまりは一部、を本当に楽しめるのは物語、つまりは見えうる限りの全部、を観て読んで見てきた者だけだ。

 

だからこそ 様々な映画のオマージュが組み込まれたララランドという映画を私は100%は楽しめていないのだろうし、

まあ……江國香織の小説に関しては何回も何回も繰り返しほとんどの著作を読んでるからだいたい100%楽しめているとして……

SixTONESの なにか大きな役目を与えられたり初めて自らの楽曲がカラオケに入ったりしてたくさん喜んでいる動画を観たって100%の気持ちではその嬉しさを理解はできないのだ。

 

 

やはりなんらかのコンテンツを楽しむ、本当の意味で堪能する、には、歴史が必要なのだろう。

かけられた長い時間、観察や体験、没入に要した多大ともときに言える努力の結果、やっとなにかを本当に楽しむことができるのだ。と思う。

 

 

私はいつも映画を観て思う、

「映画って2時間程度視聴者を縛るだけでストーリーぜんぶ把握できて、手軽でいいよなあ」と。

そういう積み重ねののちの本当のシーンの美しさ、を享受するのが簡単だからこそ現代、人々はこんなに映画配信サイトに登録するのだろう。

「それに対して小説は、みせたいシーンまで読み手を縛るの難しすぎるやろ」、これはほとんど愚痴だ。

一冊の文庫本を一日で読破するには 常軌を逸した集中力がいるし、そんなに一気読みできるほど面白い小説ならそれはもうすべてが美しいシーンで構成されているのだろう。

でもふつう、一冊の文庫本を読むのに人は何日かかける。忙しい社会人なら数週間かけるかもしれない。つまりそれだけの求心力がなければ小説というのは成り立たない。

何時間も何十時間も、紙切れの上の文字に人を縛り付けるほどの力、そして読み手の我慢強さ、集中力。どちらもなければ小説という娯楽は成立しない、

 

なんというか小説ってお金にならない気がする。

そんな素晴らしい力の結晶が、1000円もせずに買えるのだ。

まあ、小説を書くこと自体にはお金はかからんのやろうけども。

映画をつくるのには何百万から何億もかかるし、関わる人は何百何千やろうから、そりゃあ、一人2000円くらいするのも仕方ないかもしれへんけど……。

 

なんというか……

映像メディアというのは限りなくパッシブで、

いちばんみせたいシーンまで、さすがの現代人でも1時間ちょっとなら我慢できるし、

だからたくさんの人たちに作品の魅力は伝わりやすい………。(もちろん本当にその映画一本を楽しむためには何度も、3回以上繰り返し観なければならない、当たり前だ、大学で習った通り。)

外向けの、陽キャ的な媒体だから。

 

反して文字媒体というのは パッシブではあれどある程度アクティブに歩み寄る必要があり、

忍耐力が少なからず必要で、だからたくさんの人にはその良さが伝わりづらい。

内向けの、陰キャ的な媒体だから。

 

 

「趣味は読書です」に話の広がりが期待できないのもそのせいだ。

いいと思うポイント、好きのポイントがあんまりに個人的すぎて、作者のみせたいシーンまでたどり着く人数がそもそも少なくなってしまうのだろう。

「趣味は映画鑑賞です」には、共有の余地がたくさんある。

まず映像はわかりやすく綺麗だったりかっこよかったりするし。視覚はそもそもシェア向きやし。

 

 

そうしていま、10〜20分で面白いの上澄みを簡単に消費できる世の中。

創作というのはなんのためにあるのでしょうねの気持ちにもなる。

単純明快でわかりやすく、失望のダメージのない娯楽が溢れている。

 

 

 

 

 

なんか急にディスるやんと思われるかもしれへんけど、これから述べるのはディスじゃないです。

ハライチの岩井ってとっても「あるある好き」らしいんですよ。

で、”っぽいもの”を作り上げて面白くするのがたぶん得意で、私はそれがとても好きなんですが、

あるあるほど門戸の広いものはないですよね。

加えて彼は、アニメ好き・かつ運動神経は良く、絵が描けてコミュ力がある、そして毒舌なんです。

つまり、誰にとっても共通点があるすごい人間なんですよね。

黒い服着てるし色白で顔の系統は暗めで二次元好きであるところも陰キャ寄り、でも先輩の懐に飛び込めたり人と一緒じゃないとご飯食べれなかったりずばずばものを言うところは陽キャ寄り、

彼はブレイク(死語?)すべくしてしたのでしょう。

彼自身はほんまに個性的で面白くて唯一無二やけど、彼を構成する要素は驚くほど普遍的というか。

だから好きになるのが簡単なんやと思うわけです。

まあ………私 まったくファンとかではないのですが(だから敬語になった)ハライチに関してはかなり語ってしまえるので………ハライチの摂取の仕方はほんまに褒められたやり方じゃないのであんまり大声で言いたくないのですけども………。

 

だからまあ彼に関しても、物語がなくてもじゅうぶん好きになれる、彼のすべてが彼のみせたいシーンである、のかもしれないが。

あるあるというジャンルと同様に、彼自身もとても門戸の広い人なんやと思うねんなあ〜〜〜〜なんかうまいこと伝えられている気がしません。

誤解がたくさん生まれる気がしています。

 

 

 

だからまあまたハライチについてもいつか言葉を尽くして書くかもな

 

ストちゃんについて、も書くし

外国人という言葉について、も書くし

書きたいことたくさん、世の中は興味深い。

あ、でもたぶんいちばん直近で書くのは「ショートヘアについて」になると思われるな。

 

2年くらい前に「ショートヘアは思想か否か」みたいなブログを書いて、内容が最悪やったのにAマッソちゃんについて言及したせいである程度の閲覧数が常にあり、めっちゃストレスで削除済みなので、「ショートヘアは思想か否か・改」を書く。

 

今日も支離滅裂!

 

じゃあね〜