性交というものはひとつひとつ、ひとりひとり違うのだということを、教えてくれたのは男の人ではない。
江國香織だ。
彼女は進歩的で、昭和的で、ブルジョワ的で、奔放で、朗らかで、まあ、so on...
なので、恋についていろいろなことを教えてくれる。
「性交はひとつひとつ違う」というようなこと(正確な文章は覚えていない)を彼女はどこかの小説で書いたのだが、これはほんとうに、なんというか、あんまりにもひとつのことを表しているのに、あんまりにもすべてのことを表している、矛盾した解釈のできる言葉だ。
出会ったとき、私には恋愛の経験はなく、その言葉は、すと通り過ぎた。頭のてっぺんの毛を撫でるだけで。
しかし自分にも、曲がりなりにも恋愛経験や恋愛ではない経験が訪れ、そして、実感することになった。
性交というのは、独特でしかるべきなのだ、と。
ふだん、人々が社会のなかで普通の顔をして生活を送るとき、日本語の挨拶は「こんにちは」で、空の色は青で、ホッチキスは紙を留めてくれるし、コーヒーのシミは落ちにくい。
しかし、こと性交となると、人々は社会を脱ぎ捨て、個人対個人のぶつかり合いのなか、本性を見せる。
日本語の挨拶が「くたばれ」になり、空の色は朝11時に真っ赤っか、ホッチキスはがちゃんとしても紙に跡をつけるだけ、コーヒーは透明の気体、に、なりうる。
人が社会の輪からいったん外れ、ふたりきりになるとき、世界はひっくり返るのだ。容易に。
ひっくり返り方どころか、容器の中身も違うひとりひとり、そりゃあまったく違う人間だろう、と改めて感じることができるのである。私たちは、性交をするときに。
性交というのは友達とは多くの場合行わないものだから、シェアすることは難しい。
行い方や吐く甘言、化粧を落とすか落とさないか、どんなふうに一緒に眠るか、言葉で誰かに説明しても、それは、本当の性交とはまったく違うものになってしまう。
誰とも、共有できないのだ。片方が同じ人間でも、もう片方が違う人間であれば、同じコミュニティのなかでも、組み合わせが違えば、それは固有の性交となる。
そういう一見当たり前のことを、江國香織は教えてくれた。
茶化した下ネタの形をとらずに、男の人とのことを。
他にもたくさん教わったけれど、最近私の生活のなかで、友達に偉そうに「セックスってひとつひとつまったく違うからなあ」とこぼしてしまったことから、もう一度新しく、彼女のその言葉が、私にわかった。
固有でシェア不可能、歪で目も当てられない、だからこそ友情や労り・敬愛の不可欠な行為。
それをしないと生きていられないわけではないけど、でも、それでしか知られないこともある。
だから、「性交はひとつひとつ違う」は、性交のことだけを表すと同時に、すべてのことを表す。
秘められた閉鎖的な行為のバリエーションは、人間そのものの性質の数の多さ、それぞれの異質さを表す、のだと思う。
素敵な言葉だ。
やっぱり彼女は簡潔で、いつも正しい。