女神

 

 

私は辛抱強くない。

我慢というもののやりかたをそもそも知らない。

自分では、祖父母に育てられ、たっぷり甘やかされたせいだと思っているけれども、好きな男は私が帰宅部だったからだろうと言う。

スポーツをちゃんとしたことがないからだと。

私は決まって、スポッチャならたくさん行ったことがあると言い返すのだけれども、野球少年だった好きな男にはその言葉は聞こえないらしい。

 

好きな男は臆病で、だから私とは一緒に暮らさないのだそうだ。

傷つけられるのがはじめから分かっているから、と、ときどき責めるように言う。

ほんとうは結婚をして子どもも欲しいのだけれど、お前を好きなままではそれもできない、などといけしゃあしゃあと述べる。なんてデリカシーのない男だと私は関心してしまう。

いけしゃあしゃあは、祖母がよく使った言葉だ。その言葉を言うときには、決まって祖母は意地悪な顔になった。主張が妥当でも、どうしてか顔は意地悪に、ししとうのように曲がったふうになるのだ。私もきっと好きな男のいやなところについて考えるとき、意地悪で歪んだ、醜い顔になるのだろう。

 

とにかく私は我慢が苦手で、すぐに男と寝てしまう。それが好きな男でなくても。

好きな男というのはほとんど固有名詞で、「好きな」「男」ではなく、「好きな男」だ。それは祐二だけを指す。でも、世の中に存在する「男」は祐二だけではない。

私の心は祐二だけのもので、別な男と寝たとしてもそれは変わらない。目の前の男に誠実でいることと、誰かひとりを好きでいることはぜんぜん、同居する事象なのだ。

求められると応えたくなってしまう。夜中じゅう一緒にいようと言われると、それが世にも楽しいことに思えて、甘やかでぱちぱち弾けるはちみつソーダみたいにいいものに思えて、そうしてその時間が魅力的なぶん、目の前の男が魅力的に思える。

まだよく知らない男と寝るのは、幼稚園の「お泊まりほいく」みたいだ。未知で少しだけ恐ろしい、でも期待があまりにも大きくて、たくさん楽しいことが起こり、好もしい存在がそばにいて、そしてベッドのなかで心細く、とても疲れて早く帰りたい。

求められて、それに応えて、自由な気持ちで話して、どんなふうな女にもなれる。

与えることができるのだ。誰でもなく目の前の男が欲しいものを、確実に。我慢なんてはしたないことのように思える。もったいぶるのは売女だけだ、自分と寝ることを餌になにかを求めるなんて卑しい。

私は自由なのだ。そしてたくさん持っていて、あげられる。無限に無敵で、上機嫌で愉快だ。

 

でも、こんなふうじゃなかった。

祐二とは大学で出会って、付き合い始めたのは卒業してからだ。

25歳の同窓会で、学部のみんなで集まったとき、不意に祐二が私の腰を抱いた。

みんな程よく酔っていて、私も祐二ももちろんお酒をたくさん飲んでいて、二軒目に出発する前の、寒い都会の夜だった。

そのときの祐二の顔は、熱に浮かれたふうでも、酔った勢いでというふうでもなくて、どちらかというと不快そうだった。あとで理由を訊くと、「あまりに危なっかしかったから」と言う。

私はそれを思い出すたびに、思う。

いつまでも危なっかしい私でいられたらよかったのにと。

そうして腰を、どこでもいい、手をつないででも腕を掴んででも、捕まえていなければならないとずっと、思っていてくれたら。

そうしたらどこにも行かない。

誰にも会わない、もちろん寝ない。

我慢をべんきょうだってする。

我慢どころか、エプロンの似合う髪型を研究して、常備菜のレシピもネットで調べて、基礎体温を毎日測って日記みたいにつけて、とか、とにかく求められるならぜんぶ、結婚だって妊娠だって、それがどれだけ不自由であれ、してあげる。

 

でもどうやらもう私にはなにもあげられないらしいので、ときどきやってくる好きな男と、ご飯を食べて話して、そして別な男と寝る。

 

 

 

 

おわり