Saying goodbye to 2025 is like...
Hi there, how is it going?
今年もなんとか一年を終えることができ、たくさんのことに感謝です。例に漏れず激変の一年だったな、いつになると「ああいつも通りの一年だった」と思うときがくるんだろう、私の人生。
一年の初めにいた場所とはいつも違う場所で、精神的にも身体的にもその年を終えるのが常となっていて、もはやそれこそがルーティーンの一部となってしまっているような感じもある。
みなさんはどうですか。たとえば「まあまあだったな」とか思ったりする? もちろん予想外のことは生きているとたくさん起こるけれども、そのなかでもなんというか他の年との比較が少なくともできて、「可もなく不可もなくって感じだったな」とか、「まあこのイベントがでかくてそのぶん大変だったな」とか。それってある種の到達点にあなたがすでにいるってことですよね。大人だ。すごい。そこにくるまでに大変だったろうな。私はまだ、ぜんぜん、過渡期だ。
しかし今年もM1グランプリで観る漫才は面白かったし、霜降り明星のYouTubeは毎日欠かさず見ているし、変わらないこともある。いや、挙げてみてあんまりないな。ほんとうにランダムな毎日を送っている。
そんなアンバランスな日々のなか、数少ない恒例として、1月から今年を振り返ってみようと思う。
1月
どうにも新年、ついたちの記憶がないのは、友達と騒いで年越ししたからだった。日本人の友達、4人と友達の彼氏のフィリピン系カナダ人1人、ビールをピッチャーでぽかぱか飲んで、なにかをぷかぷか吸ってしこたまハイだったのだ。
友達の彼氏はぷかぷかオタクであり、医療機器としても使われているぷかぷか機械をわざわざパブに持ってきていた。新年であんまりパブが開いていなくて、白人だらけのダブリンスポーツバーというビールのまずいパブで集ったのだった。そして酒の席の韓国人たちのように、たびたび卓を順番で離れて暗く湿った裏路地へ行き、機械を回して吸うのだった。
楽しかったけれど、夜勤を控えていてお酒を飲まなかった仲良しの友達の頬をぺたぺたと張ってちょっと本気で怒られたような気がする。彼の器の大きさには感謝してもしきれないものである。
今はもう、友達の彼氏を除いてみんなこの国にいない。1人はタイに、1人は福岡、1人は東京。私はバンクーバー、友達の彼氏はサリー市という少し遠くにいる。
思い出したが、数日前のオイタで首ぜんぶにキスマークがついていたので、仕方なくてタートルネックをずっと着ていた。なかなかな年始。
年明け一発目は、どうやらきのこリゾットをお昼に食べたようである。2024年は関空のプロントでトーストを食べていて、今年はリゾット。2023年は韓国の空港で麺を食べているし、このところおせちとは縁遠い生活をしているなあ。
1月の6日にはお寺にひとりで初詣に行っている。初詣といえばキンと冷えた空気に青空か雪空のイメージだが、この街ではそのどちらも期待できない。雨のなかをひとりで歩いた。
この頃はまだランニングをやっていたらしい。寒い中、30ドルのダウンジャケットを着て。お弁当もプレップミールだと言って週の初めに5日分冷凍庫に用意していた。
ある日、カレッジの人の送別会でタコス屋に行ったら、ベジタリアン・フレンドリーのお店に行った関係でアルコールが置かれていなかった。ぜんいん日本人の会である、こんなことが許されていいのか、と、思いつつ、ぐっと堪えて笑顔を見せた。まずもってメキシコ人にベジタリアンなどいないはずである。豚、牛、鶏、臓物、魚介、ぜんぶタコサブル(tacos-able)な国であるのに。しかしメキシコ人にとって屋台で食べるタコスは、そこまでビール必須というわけではないらしい。私たちにとっての締めのラーメンのような位置だそう。許そう。
そして二次会、やっと酒が飲めるぜと思って皆、連れ立って日本食屋に行くと、1人が身分証明書を持っていないと言う。その人のせいでまた、お酒が飲めなかった。もうあの日は気が狂うと思った。その人は「私が帰った方がよかったら帰りますよ」とか言っていて、それで「帰れ!」って言う奴なんているかよ、とブチギレた私は、前々からそんなに好きではなかったその人を嫌いになった。
私は、ビールを飲む前提で注文をしていたので、「じゃあ全部キャンセルで」と言った。おでんや揚げ出し、お刺身など、お茶やジュースで食べるのは頭がいかれていると思ったし、そんなの話が違うからだ。そうしたら周りが「まあまあ」とか言ってキャンセルをキャンセルするので私はもう怒り狂った。食卓の何一つとして口をつけず、割り勘の代金だけ20ドルくらい払ってまんじりともせず、みなが食べ終わったころお店を出た。
一年経った今でも私はこの行いを子どもじみたものだとは思わない。ただ単に話しが違うのに、どうして「気を遣う」という一点だけに特化して注文をキャンセルさせてくれなかったのか。楽しくなかった。
他にもいやなことがあった。去年から持ち越しにしていた、あんまり乗り気にならない男の子の告白を断らなければならなかった。というより、酔っ払っていい気分になってなんとなくオッケーのようなことを言ってしまったのを、シラフになって考え直して、謝り直さなくてはならなかった。
告白をクリスマス前に一度断ってからの彼の譲歩はすさまじいものだったと思う。私が酔っ払って「プリンセスみたいに扱ってほしいの!」と(もちろん赤面ものである)言えば、じゃあそうするよ、と言ってタクシーに乗せてくれたりご飯をご馳走してくれたり甘やかして、くれたのである。慣れないなりに。
とってもいい子だった。北米ではかなり稼げるブルーカラーの仕事に就き、趣味は読書と鉄砲撃ちで、英語を母語とし日本語も堪能で、冷静で好奇心旺盛で、素朴で優しくて他人思いで。
けっきょく、新年早々タイ旅行へ出かけた彼が送ってくれるオリエンタルな写真の通知に怯え、帰国したら会わなくてはいけないと負担に思い、無理だ、と思って「やっぱり期待には応えられない」とメッセージをしてさよならをした。一方的だったかな、とも思うけど、私の決死の告白を軽く流して次に会う約束などの話を始めた彼が怖くて(ほんとうに怖かったのだ!)、だから、しかたがなかった。
しかししばらくは気に病んだ。いまは「自分が悪いなんて思ったら頭がおかしくなる」という村上龍の著作に書かれた一文に真実を見出しているので、あれほど反省したのは馬鹿だったなと思う。
いいこともあった。バンクーバーの図書館に行くと、吉田修一の著作がたくさんあって嬉しかった。

今も連絡をとりあっている友達2人とある日夕日を見にビーチに行った。するとあれよあれよとパブへ足が向き、1人が草を配合したグミを取り出し、3人でどうしようもないほどべろべろになった。この3人はある意味で相性が最悪で、全員が全員、飲み会で最後まで残るような人間なのだ。誰も帰ろうと言い出さずに、誰もやめとこうとは言わずに、最後はほぼ気を失っていた。私は帰宅して低血圧に襲われ、目の前が真っ暗になるという体験をはじめてやった。ほんとうに今度こそ死ぬかと思った。


月の最後には丸亀製麺にカナダに来て初めて行ったり(びみょー)、女の子たちと連れ立ってブルワリーに行ったりした。ここで他の団体の男の人に写真を頼まれたのだが、その人とのちにマッチングアプリでデートをするという偶然もあった。バンクーバーは小さな街なのである。
2月
2日には大雪が降った。世界が一夜にして変わったので、なにが起こったのかわからなかった。日本とは違って、天気予報を毎日見たり、ニュースが流れていたりしないのだ。雪はしばらく残り、あちこちに氷が張った。バンクーバーは、ハワイとかから気流がくるみたいなんで雨が多く気温の高い街だが、緯度は北海道くらい高いのだ。たまにドカ雪が降り、すべてが麻痺してしまう。

そんななか、雪が溶けた頃になって日本から2人友達が来てくれた。正確には1人がオタ活をしていて、好きなグループが合衆国ツアーをするというのでバンクーバー経由で南下してくれることになり、ノリのいい友達もう1人を含めてみんなで旅行しましょうということになったのだ。
2人は10時間のフライトを終え、時差ボケのなか一緒にビールを飲んでプーティーンを食べてくれた。持つべきものは胆力のある友達である。バンクーバーからバスに乗り、シアトルへ向かって観光をして、ライブを観に行きその次は飛行機でロサンゼルスへ。人生で三度目となったロサンゼルスは、2月というのに暖かくて、それだけでやっぱり好きやあと思った。
しかし昔のように、合衆国に住みたいかと言えばそうではなくなった。毎日のように流れてくる銃での大量殺人や、移民の強制送還など、近づいてこそあまりいい環境のようには見えなくなってしまった。バンクーバーの人が優しすぎるのかもしれないが、合衆国ではもっと皆が自立している感じで、コミュニケーションはもちろんあるが、ある種ドライな感じもする。
それでもエネルギーのある国なので、訪れるのに楽しい場所だ。
そこからそのまま、渡航後初の日本帰国。たらふく食べて犬と遊んで、地元の友達1人とバンクーバーに去年寄ってくれた幼馴染にだけ帰国を知らせて遊んだ。なにしろ2年丸々帰らないと大見得を切ってでてきたので、恥ずかしくて誰にも言えなかったのだ。
このときはなんか元気で、やっぱり日本の人たち(他人たち)の雰囲気ってきらーい、と思って出国した。
カナダに戻って、引っ越しをすることにした。総勢6人が住む半地下に、2部屋空いていたので日本人の友達と一緒に。今思うと、これが長い引っ越し人生の始まりだったのだな……。
それに、元の家へはよく好きだった人が車で迎えに来てくれていたので、なんかもう嫌だった。そういうのが思い起こされるような、車から出て両手を広げてくれたのを思い出すような、そんなのが嫌だったのもある。恋は短く、2ヶ月ほどだったというのに、影響は大きかったなあ。ずぶずぶに引きずっていた。
3月
誕生日に祝わないのが怖くて、ルームメイトとなった友達と一緒にケーキを食べに行った。ちょっと期待したのだけどご馳走とかはしてくれなくて、落胆した自分に浅はかだなあと凹んだ。しかしこういうところが、この友達と私の感覚の違いだよなあと思った。
当日には、けっきょく酒飲みのお友達2人がお祝いしてくれた。ちょっとお高めのご飯を注文したのに、ちゃっかりご馳走してもらってしまった。1人はスターバックスで働いていたので、廃棄のケーキと、本屋さんで立派な栞を買ってきてくれたりして嬉しかった。今も愛用している。あれは楽しい夜だった、CRAFTという気に入りのビールパブに行ったのだった。
そういえばその後すぐ、髪の毛をすごく短くした。今のところ、これが最後のショートヘアになるんじゃないかと思う。
これは今年起こった、自分の人生のなかの革命のひとつなのであるが、今までの人生、ショートヘアに誇りを持って生きてきたのが、覆った。実は似合わないのだ、顔が平たくて大きいから。毛量も多く、メンテナンスが大変だしビジュアル面では似合わないのに、気概とキャラクターで似合ってるように振る舞っていた。
この頃に新しくカレッジに入った女の人が、すごく難しい性格の人で、仲良くなるのに苦心した。一緒に飲みに行って、話をするのだが、どうにもリズムが合わないのである。
リズムが合わないからといって、嫌な人だと諦めることはしない私だが、このあと半年トライして結局仲良くなれなかったのだから、やはり第一印象というのは侮れないだろう。
この人の、なにかを発言するタイミング、他人の話し終わりを待たずに半ばマウンティングのように話し出し、話し終わると同意を求めて目を長い時間見つめてくる感じがどうにも難しかった。
しかし、ノースバンクーバーにあるブルワリーを教えてもらって当たりだったりしたので、ぜんぜん嫌な思い出ではない。傷つけられたりもしていないし、ただチャレンジだったなあ、というだけだ。
他には、マッチングアプリで会ってみた中国人が、しきりに「写真詐欺じゃないよね?」と訊いてくるので、なんなんだろうと思っていたら向こうが写真詐欺だったこともあった。こっちも「恋愛をするぞ!」と思って会うというより、日本人以外と話したいという気持ちでやっていたので、落胆などはなかったが。彼が「もしそっちがセフレとかになりたいなら僕もそんなカジュアルな関係でオッケーなんだ」とか言い出したとき、申し訳ないけど小太りで髪の毛の薄い、それを写真詐欺で隠している男の人が言うセリフじゃないかも……と思ったので、もう二度と会わなかった。しかしそういうセリフは、誰に言われるべきでもないのかもしれない。モテてどうしようもない男の人ならなし崩し的にそういう状況に陥ってしまうのだろうし。西洋のデート文化というのは、後になって嘘つきになりたくないがために誤った誠実さが跋扈しているように感じる。モテない君までそんなことを言い始めるんだから、これは深刻だ。
別の日には、チーズケーキファクトリーみたいな名前の、夜から深夜にかけてしか開いていないチーズケーキのお店に行ったら、日本人だらけだった。Treesというチーズケーキ専門のカフェも日本人女性および日本人女性好きの男たちに人気なので、どうやらチーズケーキは日本人の象徴らしい。(怖い。象徴という言葉を思い出す前に一度signature...と英語で言語化する段階が入った。こういうことが最近多い...。)
この頃、漫画『ぼくらの』が全巻無料になっていたので徹夜で読んだ。主人公は中学生たちで、他の人の感想を読んだりして、「中学生が大人よりも未熟であるという前提は間違っているのではないか」と思った。もしかしたら、経験による(判断への)自信という面では大人はしっかりしているけど、判断自体の正しさに加齢は関係してくるのだろうか。
3月の終わり、やっと街を春の息吹が通り抜け始め、雨の日の数が減ってくる。散歩をして、写真を撮る。たまに写真を褒められることがあって、それでようやく、草花や景色の写真を撮ることが趣味のようなものであることに気づいてきた。一眼レフがなくたって写真を趣味にできるんだよね。
月の終わりにはダウンタウンの桜祭りに行った。白い桜を、どぎついピンクや紫のライトで照らしてあって、いろんな音楽が流れている、不思議なお祭りだった。こんなにカオスな街なのに、広すぎるからかごちゃごちゃしていなくて、日本の祭りのように怪しい部分なんてなくて、まあとにかくこの国ではなんでも後ろ暗いような部分がないんだなあ、と思った。
しかしステージで演奏されていた"Take Me Home, Country Roads"には胸を打たれた。「カントリーロード」だ。Country Road, Take me home To the place I belong...「カントリーロード 僕を帰して、生まれた場所へ...」移民だらけの街にぴったりの郷愁の歌を、観衆たちもいっしょに揺れて歌う。
戦争、貧困、差別、不和……さまざまな理由があって故郷を離れた私たちがひしめき合って生きているこの街で、故郷を懐かしく思わない人なんていない。生まれた場所を、もしちょっと嫌いであっても、どうしようもなく「私」はそこに所属する。
4月
リッチモンド市というのは、バンクーバーの南にあり、中国人たちのパラダイスだ。かつて日本からの移民もたくさん住んだが、戦争により追いやられてしまい、その人口は少なくなっている。しかしいまだ、アジア人コミュニティが大きな市である。そして前年に失恋した人が住んでいる場所でもある。
カレッジの日本人の友人らと、本場の中華料理を食べようと言って訪れた。彼の働くモールのすぐそばまで行って、私は心中穏やかではなかったし、心中どころか言葉になってそれが漏れてもいたのだが、そこにあったソメイヨシノの記憶とともに、思い出されるのはもうだいぶ平気になっていたということだ。
たとえば山形出身の人と恋をしたとして、それが短い期間であったとしても、他に山形出身の人を知らなければ、テレビでその地名を聞いたときや旅行で訪れたときなど、否応なしにその人のことを思い出してしまうでしょう。リッチモンドはそういう場所になったのだ。完全に過去だ。過去の思い出の箱にしまうのに少し苦労したが、最終的にしまうことができることを、苦しみのただなかでもわかっていた。大人になるというのはこういうことだ。悲しみや苦しみは悲しいし苦しいけれど、その生傷の痛みに支配されているただなかでさえ、それが時間が経つと治ることが経験からわかっている。私のこれからの人生で、その冷静さだけはもう絶対に失われることがないだろう。
そういえば今も仲良くしてくれているメキシコ人の男友達と初めてふたりで食事したのはこの月だった。スペイン語を話せる日本人の友達の、友達だった。タコスを食べに行って、話が盛り上がった。家族や生い立ちの話など、深いところにまで話は及んだ。
しかし隣の卓に日本人女性とラテン系男性の2対2のグループが座り、少し気が散った。日本人女性らは、身振り手振りで単語を使って話しており、英語があまり堪能ではなかった。私は「共通言語がない卓でどうやって話をして精神的に繋がれるっていうんだ」と責めるように顔をしかめた。しかし、彼女らにとってはそういう環境に身を置くことこそが勉強の一環なのである、と、のちにこの話をした年上の教師であるお友達に諌められた。私は「自分の勉強に他人を使うって変なの!」と思ったし、今も思っているが、他人が同意の上でそういう勉強法を実践しているなら、もちろん責める筋合いなどないのだ。
まあ……でも日本人のこの街への馴染まなさは異常だ。人数は多いはずなのに、混ざっている人は稀だ。混ざるというのは例えば、ふつうにスーパーマーケットや服屋さんで買い物をしたり、ふつうにその辺のレストランで食事をしたり、ふつうに生活をするということだ。それをしている人が、日本人の多いはずのこの街で、異様に少ない。なんだかいつまでも、お客様なのだ。混ざる気がないというか。「僕・私はあくまで英語を勉強しにきていますよ〜」という人ばかりなのだ。「自分」の「勉強」のために場所を他人を一時利用してもいいかのような。そういうのを見るとなんだか寒い気持ちになる。みんなガチで生活をやってんのにそれを冷やかすようにやってきて「ローカルの友達ができないよ〜」とか言ってるのだ、そりゃそうやろ、言葉をコミュニケーションに必要なレベルまで話せるわけではない、一時滞在の外国人と、なぜ仲良くなりたいんだ? お客様です、楽しませてください、という態度の外国人と?
ところでこの頃からカナダ人の合衆国製品不買運動みたいなのは熾烈になり、公立の酒屋からはメイカーズマークなどが姿を消し、"Buy Canadian Instead(代わりにカナダ産を買いましょう)"と掲げられ出した。なんだか歴史のただなかにいるという感じだなあ、とでも私こそが他人ごとのように思ったものだった。
妹の誕生日には1人でカフェにケーキを食べに行った。帰りに見たコブシが見事で嬉しかった。
月の半ばにはポートムーディーという少し遠いところまで、日本人の友達とふたりでブルワリー巡りをしに行った。やっぱり周りは白人だらけ。でも窓を開け放ったブルワリーは風通しがよく空は晴れ、とっても気分がよかった。いろんな話をした。覚えているのが、「物事に疑問を持たない友達が多い」とその子が言っていたことだ。「あんまり物事を深く考えない友達が多いから、深い話をしない」と。私は逆に友達とは深い話しかしないので、「そんな人と友達でなにが楽しいんだ」みたいに言い返した。でもその子は、「深い話をしなくたって友達ではいられる」と言った。でも、まあ、たしかに、そうなのかなあ。人と人というのは、それぞれがいろいろ違ううえに、それぞれとの繋がり方まで違うので、複雑だ。
この友達はよく私を見てふと「なんで恋人ができないんだ!」と言っていた。「これはtheir lossだ!向こうが損をしている!」と。その度に私は嬉しくはにかみ、笑った。
その数日後にはひとりでケロウナという田舎町にバスで旅をした。5年前にワーキングホリデーで半年住んだ町で、愛着があったのだ。久しぶりに行って、ひとりで歩き回ってみると、愛着は消えた。なんのことはない、日本人や韓国人の英語のレベルが同等だった友達がいたから楽しめただけで、町としては綺麗だが別に居心地がいいというわけではないなあ、と思った。まあそれはそうで、100年くらい前にイギリス人たちが「開拓」し、大きな家をばこばこ建てた、白人たちの町なのだ。バンクーバーに戻ると、いろんな人種がひしめき合っていて、治安や景観などは明らかに悪いのだが、安心してしまった。
月の終わりには、カレッジから最寄りのティムホートンで働いているインド人男性をナンパした。ナンパというか、辞めるというので連絡先を聞いたのだ。するとどうしてか3時間くらい彼の彼女ということになっていて、びっくりして訂正した。幸か不幸か、遠くに行くから職を辞するということだったので、それからは会っていないし連絡もとっていない...人と人というのは難しいものだ…。
他には、UBC、ブリティッシュコロンビア大学という公立大学のアジア図書館へ日本人の友達とメキシコ人の日本語勉強中の友達と連れ立って訪れ、楽しかった。日本語をいっぱい浴びて帰った。
別の日にはカレッジの日本人の友達とビーチに集ってプチBBQをした。バンクーバーでは、夏の間だけビーチで飲酒してもよくなるのだ。基本的に道端でお酒を飲むことは法律で禁止されているので、これはいい試みだなあと思う。
ノンアルコール派の友達といるのに自分だけパカパカ飲んで、最終的にみんなで落ち着いたカフェで持ち込んだ白ワインをボトルからラッパ飲みしていたのを覚えている。私というのは限度を知らない人間だ。
晴れの日が増えて、それでもまだ要るジャケットを手に手に過ごしたひと月だった。
5月
アルコール可のスポッチャがあって、初めて行った。斧を的に向かって投げた。楽しかった。
メキシコ人の友達とその友達の輪に入れてもらったのだが、当然スペイン語が公用語であるし、うまく馴染めず、お酒を飲んでいたらそういう気持ちになってきたので当時仲良くしていた男の子の家に直行したのだった。ラインのスクショが残っていておかしい、「君が来たら何か作ってあげるよ」って言われて嬉しかったんやな私。
電車に乗ってはるばるサレー市へ行った。中国人でカナダに住んで長い子だった。結構好きだったんだけど、いつものように気持ちがすれ違ってその後すぐにさよならになった。
いつになったら気持ちがすれ違わずに誰かと同じタイミングで恋や愛をできるんだろう。
この辺りでペルー出身のゲイの女の子と仲良くなった。23歳とかで若くて、無謀で、無敵で、ナルシシストで、他人に傷をつけることを躊躇わないほど若くて、興味のままで進んで、そのくせZ世代らしく内向的で1人が好きな女の子だった。
思いっきり「あなた私が好きなんでしょ」のていで接してくるので悩んだ。私は、女の人に惹かれるけどゲイではないのだ。しかし魅力的な彼女の期待に応えたかったし、たしかに魅了されてもいた。ドイツ系チリ人とペルー人のハーフで、小麦色の肌にラテンの腰、小づくりで高い鼻と薄い目の色は美しかった。
「みんな面白くないしクールじゃない、あんただけがまあクールかなって思った」と言って近づいてきたのだが、いかにも高校生じみた幼い排他心だと思う。私も大学生のころはそんなだったろうか? そうかも。友達以外ぜんいんつまらない、知ろうとする気にもならないと信じていた。
ていうかちゃんと見たら、中国人とさよならになったのは5月の月末だった、ちょっとだけ続いたんやなあ。会おうと言われて、もちろんセフレ同士だと思っていたので、家に行くんだろうと思ってお酒を飲んでいたら、「今日は飲まない、一緒にご飯だけ食べられればいいと思ってた」と言われて面食らった。一緒にご飯……?なんのために……? ひとりでピッチャーほぼ飲んで、残りを彼がプロテインシェイカーに入れて秘密のお持ち帰り(不衛生……)をした、その写真が残っていておもしろい。「俺は明日が早いから少しでも寝たい、それを飲んで大人しくしておけ」と電車で言われて妙に嬉しかったのを覚えている。へたくそ!私もたぶん彼もへたくそだ。でも、自分が悪かったなあとはもう考えない。
他にもカレッジの日本人友達と宅飲みをした。ビールとワインとコニャックかなにか、お友達が持ってきてくれたよいお酒をたらふく飲んだ。
ビーチでビールとSushiもしたし、よく飲んだなあ。
6月
悪ふざけが止まらない友達とビーチでお酒を飲んだら、食欲が暴走してビーチにウーバーイーツを呼ぶことになってしまったり。
おばあちゃん先生に赤ワインを奢ってもらってみんなでビーチで飲んだり。
ゲイのラティーナの家でキャロルというエロすぎる映画を観てどぎまぎしてしまったり。
MACU teaというおいしいドリンク屋さんを見つけて通ったり。
ラティーナに借りた本を読んでみたらおもしろくて、初めて英語で書かれた本を読破した!
4月くらいから計6人同居の家で一緒に住んでいた日本人のルームメイトとやたらめったら散歩して、Big Way Hot Potという麻辣火鍋のお店に3日連続で行ったりした。日本でも去年から流行り出したやつ、カナダの方が中国人が多いからか、早く流行っていた。
また、今回のカナダ留学で初めて面接に受かり、ベトナム料理屋でサーバーとして働き出した。が、すぐに辞めた。仮採用とかで賄いも出ないどころか休憩なしでフルで働かされ、閉店の時間も毎日まちまちの飲み屋、アジアが過ぎた。日本の飲食店くらい色々と法律に則っていなくて、でも違うところがめっちゃ稼げるところだった。チップとかもちゃんとお給料として分配されて、確か25時間くらいしか働いていないのに4万円くらいもらえたような気がする。
しかし別に出稼ぎに来たわけでもないし、働き始めでこんなに足が重いなら行かなくていいぜ、と思って辞めた。しかもレストランはバンクーバー屈指のスラムにあったので、まあ辞めてよかったなと思う。
6月最後にはカレッジのおばあちゃん先生主催でビーチ飲み会。先生がワイン好きで、ビールもワインもちゃんぽんで飲み過ぎて友達に噛みついて周りの人がドン引きしていたらしい。覚えていないのだが。新年で頬をぴたぴた張ってしまったのと同じ男友達だ。未だにメッセージをやりとりしてくれることが奇跡のように思う。
7月
1日は、カナダデー。カナダ連邦の建国記念日だそうだ。道ゆくひとは白×赤コーデ、自分も百均でメイプルマークの靴下やボディペイントを買って友達と街にくりだした。日差しの強いよく晴れた日で、ちょっと熱中症になってしまった。ティムホートンで飲んだフローズンレモネードがおいしかったなあ。夜、ラティーナから連絡が来て、仕事が終わったから合流したいと言う。しかし人が多過ぎて電波がずっと悪く、連絡がうまくいかなくて花火が始まってしまった。同じ会場の離れたところでどこにいるだろうと心配しながら同じ花火を観るのは、なんかちょっとだけロマンチックだった。帰りに日本人の友達と3人で1杯だけビールを飲みに行った。そういえば去年のクリスマスパーティーぶりのCactus Clubだった。店員がぜんいん美男美女のバンクーバー発祥のソーシャルパブだ。
その次の日にはパーマをかけに行った。今考えると、これ以前は地毛だったのが不思議だ。今では髪の毛がくるくるしていないとブスだなあと思うのに。スタンダードというのは形成されたら年月の如何に関わらず体にすとんと馴染むものだ。今の状態の自分が、ほんの半年前にやっと形成されたのだと思うと不思議。
それで言うと、この頃にルームシェアしていた友達の食生活を見て、自分って健康にずいぶんと気を遣った自炊をしているなあと初めて実感した。友達がインスタントラーメンやポテチを日常的に摂取するのを見て驚いた。自分以外の人というのは、お菓子とかをこんなに食べるのか!と。思えば他人と生活するのは実に5年ぶりであった。5年前は自分もお菓子を頻繁に食べていたような気もする……。
自分と同じくらいいろんなことへのタガが外れている友達が日本に帰るというので、さよなら会をしにビールを飲みに行った。この頃、飲み過ぎでずっとちょっと体調が悪かったような気がする。この友達といるとアンリミットだから。CRAFTという私の気に入りのビアパブへ行き、出来上がってから、日本にいる私の友達の知り合いが働いているというバーに行った。彼女のフェアウェルなのに、私の意見ばかりである。
友達の知り合いはもう辞めていて、しかし別の日本人のバーテンダーがいたので、お酒をつくってもらって楽しかった。ジンをソーダ割りにしてもらって飲んだのだが、意外なほど居心地がよかった。そういえば今まで白人主体のパブやバーにしか行っていなかったからだろう。出される料理はイタリアンだし、内装もウッディで暖かな洋風なのに、数人日本人が働いていて雰囲気が北米っぽくなかった。
その次の日、私が噛みついた友達も帰国するのでお別れパーティーを開くという。彼は自分の友達と彼女をぜんぶ招き、そこに女友達のフェアウェルも合体させるという太っ腹ぶりを見せた。女友達のカナダ人彼氏ももちろん来て、別の友達のフィアンセも来て、メンバーはほとんど日本人だったけれど、ぜんぶ一緒くたな感じが北米のパーティーという感じで楽しかった。
女友達はその次の日の早朝に飛行機に乗って帰ってしまい、そこから私はアルコールと縁遠い生活を送ることになった。
と思ったけど、数日後にはラティーナの友達とゲイバーに飲みに行っていた。デイビーストリートというレインボーフラッグまみれのゲイストリートでプーティーンを食べて白ワインを飲むと2人とも出来上がってしまった。とくに彼女は酔っ払っていて、しかも若く常にムラムラしてらしたので、私を相手に選んだらしかった。
それは不思議な体験だった。自分自身は興奮しているわけではないのに、状況に飲まれて体を動かしているような感じだった。恥をかかせるわけにはいかないなあ、期待に応えなくてはいけないなあ、と思っていた。好きじゃない女の人とホテルに行く男の人ってこんな気持ちなんかなあと思った。据え膳食わぬは、の気持ち。好きとか興奮するとか、第一のレイヤーにある感情や衝動ではなくて、もっと社会的な部分で、プライドとか裏切れないとか恥とかそういう部分で半ば演じるように事に及ぶような。
次の日の朝、明らかに後悔している(べつに決定的なことが起こったわけではないが)彼女に追い出されて、釈然としない気持ちでバスに乗ったのを覚えている。いや別に私がそうなりたかったわけじゃないんやけどな……。
そのもやもやはしばらく続いた。そんななかで初めて、もう1人のゲイの女友達と初めて飲みに行ったのだった。少し年上のバルカン半島の女である彼女は常にシリアスな顔で、実にシンプルで、底抜けに優しい。私の話を気に入りのパブで聞いてくれて、ちゃんと話しな、ゲイ的なことは混乱するからねと慰めてくれた。
数日後、ラティーナとビーチで日本食ピクニックをした。そこで彼女は「友達でいたい」と、申し訳なさそうに話した。私はもちろんそのつもりだったし、申し訳なさそうにされる筋合いもないなあ…と思って、自分の気持ちを説明した。「付き合いたいと思ったこともないし、確かに君の恋愛話をこの先聞くとしたら元彼の話聞くみたいで気まずくてこそばゆいけどそれは好きだとかそういう意味じゃないから」と、しかし、彼女は聞く耳を持たなかった。もう、私が彼女を好きである事は確定事項であり、私が何を言ってもそれを誤魔化す言葉に聞こえるようだった。なんかだるいなあと思って説明をやめて、ふつうに友達づきあいをした。彼女はしきりに、「どうやってそんなに早く私への失恋を克服したの!?」と訊いてきたのでうんざりしたものだ。結局、今はもう友達ではないから、やはり対話のできない人間と何かしらのつながりを維持することはできないのだろう。私もゲイっぽいことができて楽しかった。
月の下旬には、シアトルに旅行に行った。ルームメイトがマウントレーニアに登りたいと言っていて、便乗したのだった。マウントレーニアといえば、高校時代に毎日飲んでいたカフェラテの名前だ。あのロゴにある山なら、なんか親しみ深いし、登ってみるのもいいかなと思ったのだ。
旅は楽しかったし山は美しかったけれど、海外旅行はひとりでする方が圧倒的に好きだなあと思った。自分と友達が日本語で話していると、圧倒的に閉じてしまい、ローカルと繋がれないのだ。ひとりだと、口をひらくまでは場所から孤立しない。口を開いて共通語が出ると、繋がれる。しかも、ホステルで虫に刺されたりボディソープが肌に合わなくて発疹が出たり旅の疲れで口唇ヘルペスが出たりで散々だった。シアトルからバンクーバーに帰るのに乗った鉄道が楽しくてプラマイゼロやったけど!
この頃から、異様な健康志向のラティーナの影響もあってレンズ豆を煮てお米や麺の代わりに食べたり、糖を控えたり、食生活により気を使い始めた。
州対抗の花火大会があって、見に行ったりもした。
パラレル49という大きなブルワリーに行って、スペースキティというIPAを飲み、これがたぶん今年でいちばん美味しかったビールのひとつだったと思う。
他にはバルカンの友達に、展望台に連れて行ってもらったり、悩んだ末にノースリーブのドレスを買ったり(一回も着たことない)した。
8月
バルカンの友達に、バルカン料理屋さんに連れて行ってもらった。年上の日本人のお友達と、ラティーナを連れて。バルカン料理は、お肉、お肉、お肉、揚げパン、だった。強い食前酒とラガー、5時間にも及ぶテラスでの食事、喫煙。友達は暮れなずむ空の下で嬉しそうだった。まさに故郷の食事だと、満足そうだった。
次の日はプライドパレードの日。まさにゲイとばかりつるんでいた私はおめかしをして顔にシールを貼って、パレードに出かけた。メンバーはラティーノとバルカンの友達と、それから帰国した男友達の彼女。彼女もラテン系でバイセクシュアルなので、ちょうどいいだろうと思ったのだ。
夕方から街に出て、ハイヒールを履いて歩くドラァグやぷりけつを晒す男ゲイたち、色目を使い合う女の子たちが闊歩するデイビーストリートで私はちょっと泣いてしまった。こんなふうならいいのに、世界中どこでもこんなふうに、お祭りみたいではなくても、でも、それぞれがそれぞれらしくあるのに躊躇いも障害もなく、自然に共存して、楽しく、歩いて、踊って、笑って、できたらいいのにと。ここが、たくさんある正解のうちのひとつなんじゃないかと思った。この気持ちは、バンクーバーを好きな理由のひとつになっていると思う。私は確かに幸せだった。知らない人たちのなかで、ミニスカートを履いて、日本では着て外に出たことのないタンクトップだけを身につけて。
しかし最終的にかなり飲んで、女の子だけのイベントをやっているクラブに行って、バルカンの友達に色目を使うラティーノを見て私は彼女との友情を終わりにした。私にある夜、したのとまったく同じやり方で、私の大事な友達に手を出そうとする彼女を見て、気持ち悪っと思ってしまったのだった。そして、明らかに対話のできるバルカンの友達の方が、大事だったのだ。彼女とは最近会う頻度が減ったけど、ぜんぜん友達だ。まるで答え合わせだな。人生は望むと望むざるとに関わらず、選択の連続であり、それは確実に今の結果に直結している。
その数日後に、とつぜん、地球愛してる!という大きな感情が湧き出る1日があった。
マッチングアプリで会ったカナダ永住権を持つコロンビア人の男の人と遊んだのだが、家に行ってから近所のコロンビア料理屋さんに連れて行ってもらい、少しだけビールを飲んでWhite Rockという国境の街にドライブした。
晴れた日の日没はあまりに美しく、空が地球の色そのもので、涙が浮かんだ。反対側から出た月が満月で、あまりに巨大で、発見したときには声が出た。
その夜は広場にDJが来ており、ラテン音楽が流されていて、地元の人たちが集まって踊っていた。コロンビア人の彼は、いたく感動していた。白人の街で、ラテンが流れていて、DJがコロンビア人らしく多くが若い時から親しんできたもので、こんなこと予想していなかったと。
私たちは手を繋いで歩いて、少しだけパブに入ってビールを飲んだ。飲酒運転という概念があまりないので、彼も普通に飲むのである。
あの夜は完璧な夜のうちのひとつだったと思う。デートの相手とはもう会っていない、どころか、これが最後だった(!)が。そんなこと関係なく、なにか、バンクーバーという土地に歓迎されているような不思議な夜だった。祝福されていた。この夜は私がバンクーバーに留まる理由のうちのひとつだ。
他にも気に入りのフォー屋さんでたらふくビーフフォーを食べてからDeep Coveというハイキングスポットに行って、ハンバーガーを帰りに食べて大満足したり、バルカンの女たちを連れて日本食料理を食べに行ったら彼女らが肉食すぎてなにも食べてくれなかったり、スティーブストンという元日本人街のあった南の観光地に行って歴史を学んだ帰りにシーフードサラダとビールと白ワインを堪能したり、ルームメイトの帰国フェアウェルでマレーシア料理を食べに行ったり、した。
そんな8月の終わり、母から骨折したという連絡が入った。それはルームメイトと朝のピクニックに行こうと約束していた日の朝のことで、ビーチで泣きながら帰国を決めた。
あのときは何故か絶望的だった。探し続けていた仕事がやっっっっっと見つかった矢先の出来事だったからだ。ビザの関係で、その仕事を逃したらカナダにその先滞在できるかわからなかった。カレッジの先生は「お母さんは強いでしょう、1人でも大丈夫なはず」などと勝手なことを言ったが、母1人子1人であるギリギリの状況で今まで10年間ふたりでやってきたのだ。それに5年ほど前、母が腰を骨折したときにそばにいてあげなかったことを猛烈に後悔していた。私には選択肢はなかった。
9月の頭に引っ越すことになっていたので、新しい家に荷物だけを移動させてもらった。車の免許証をカナダのものに書き換えていたので、日本で運転できるように国際免許をとりに行った。そうして2日後には飛行機に乗り、帰国した。なんかすごく泣いたような気がする。心細さや、無力感。母の健康なしには海外生活なんてありうるわけがなかったのだという、当たり前のことへの気づき。
しかし帰国するとなれば、会える友達もいて楽しくはあるわけで、帰りの飛行機では一睡もせずにお酒を飲みまくった。ビールにワインにごくごく飲んで、映画を三本観た。これは、バンクーバー国際空港で麻薬検査を受けさせられた腹いせでもあった。しかも、帰国した先の関西国際空港でも麻薬検査のスクリーニング、荷物を広げての検査を行われたので笑い話ではなくなった。日本人女ひとりでの移動は、そんなに怪しいというのか。
帰り着いた大阪は耐え難いほど暑く、故郷というより東南アジアのようだと思った。実家へのバスに乗って見る夕日の色が、White Rockでのものとはまるで違って淡く優しくて、帰ってきたなあと思った。大感動して写真を撮りまくったら、iPhoneのカメラがパシャパシャ音を立てて、また帰ってきたなあと思った。カナダではシャッター音が鳴らないのだ。
半年ぶりの帰国で、それでも物価は上がっているなと感じた。関空のローソンで買った十六茶が記憶よりも高かった。
高速バスを降り、タクシーで実家に帰ると負傷した母と元気な犬が出迎えてくれた。嬉しいのと、心が痛むのとで忙しかった。とりあえず、おそうめんを食べた。日本の夏。
母はやはり憔悴していて、帰ってほんとうによかったと思う。1年ぶりの車の運転で、ぎゃーぎゃー言いながら気晴らしのためお出かけをした。犬を連れて行った滋賀や、いつもの大阪のジェラート屋さん、初めて行く神戸のパン屋さんなど、楽しかった。そして腕を使えない母のお世話をするのは、心が満たされることでもあった。どれだけ疲れていても私の世話をすることを義務だと思っている母に、気を遣わせることのない滞在は意外なことに気が楽でもあった。そして母は、こんなにお世話をしてもらって幸せだとしきりに言った。
9月
大学からの悪友と飲みに行って、飲みすぎてICOCAを無くしてしまった。カナダに戻ってから問い合わせをすると、電話でしか受け付けていませんと言われ、詰んだ。
友達は大学からの彼氏と結婚をしたので、お祝いを渡した。私が当時の彼氏と付き合ったその同じ日に、彼女らも付き合うことになったので、当時はカップルぐるみでの付き合いがあった。私たちの方は大学卒業を前に別れたが、彼女らはずっと続いていて微笑ましい。お互いのことがずっと面白いのだそうだ。ふたりでずっと笑ってられるらしい。私たちもお互いをギャグセンスが高いと思っていた。私の元彼の方は、高校時代の元カノと元鞘に収まり、結婚したという。あの頃の私たちがあの異様に狭くて予約の取りにくい焼き鳥屋さんでひしめき合っているときにそれを聞いたらびっくりするだろうな。びっくりするけど意外ではないかな。男たちのほうが線が細くて、女2人は幸せにふくよかだった。女たちのほうがもちろんたくさんお酒を飲めた。あの夜。あの夜々。
別の日に会った愛する男友達は、失恋により荒んでいた。共通の友達が合流すると入れ替わりのように帰ってしまい、お会計だけは済ませてくれていたので笑った。格好つけなのがずっとずっと変わってなくて、弱っているくせに愛おしい。カナダから日本に戻り、おいしいビールが飲めていなくて拗ねていた私を、自分の働くビール屋に連れて行って飲ませるのだった。「美人連れて!」と、同僚や上司、お客さんたちにからかわれていた。私はもちろん満更でもなかった。
途中合流の共通の友達とは焼肉を食べ、ラブホテルに泊まった。彼女はいつもスケジュールが詰まっていて、次の日は推しのライブに行くというのだった。その合間に、お酒を一緒に飲んでくれて、一晩一緒に過ごしてくれて、人がシャワーを浴びるのをガン見してくれて(「背中綺麗やなあ」)、出発する前にはジャグジーを溜めてくれた。そうして連れ立って行ったびっくりドンキーで、またビールを飲んだので私たちっておもしろい。2月のロサンゼルスぶりだったので、会えたのは少しだったけど嬉しかった。
堂山町のホテル街で泊まったので、朝の東通りを見ることができた。きちゃなかった。風俗の広告ばかりがごみごみと下がっていて、今にもネズミやゴキブリが飛び出してきそうだった。この通りには思い出も染み付いていて、におった。
昔の職場の友達と野球を観に名古屋まで行って味仙でたらふく飲んで食べカラオケをした。別の職場の友達と淡路島までドライブに連れてってもらってお寿司をご馳走してもらった。
2週間だけの一時帰国の終わりには、母と気に入りの東大阪の焼肉屋さんまで行った。母は言葉少なだった。明らかに消沈しているのだった。こんな母を置いて、外国に戻るというのは、ほんとうに意味のあることなんだろうかと悩んだ。そしてこの月はずっとそれで悩むことになった。
飛行機に乗る前日、地元の友達と地元の中華でご飯を食べた。結婚・出産を経ても対話が成り立つ、懐の深い友達だ。彼女は、「人と人が違うということがわかってきた」と言った。「でもあなたは高校生のころからそれがわかっていたね」と。いろんなことをわかっていたのは君だったねと、褒めてくれてはにかんだ。私はちゃらんぽらんだけど、彼女は堅実で、仕事もずっと同じものを着実に歳を重ねながら続けていて、尊敬しているので、そんな友達に褒めてもらえるのは嬉しい。それに「仲良い友達がいるんやけどな、その人がいろいろ他所に行くから、なかなか会われへんねん」と、ふざけて私の不在を寂しがってくれたので余計に嬉しかった。出産祝いに渡したラルフローレンの赤ちゃん帽子を、頭に乗せた赤ちゃんの写真を送ってくれる。家族ごと愛している。
大泣きしながらカナダに戻った。しばらく、塞ぎ込んでいた。なにしろ友達はぜんいん日本に帰国しているし、バンクーバーにいる理由がわからなくなっていた。新しく引っ越した家は、同じタイミングで越してきたインド人のマナーがしぬほど悪く、環境が最悪だった。またヘルペスができた。
一時帰国前に決まった服屋さんでの仕事は、幸運なことにぽしゃっていなくて、出勤が始まった。慣れないながらに、服を触ったり、種類を学んだりするのは楽しかった。それでも、なにか場違いな感じがずっとずっと続いた。母はまだ完治していなくて、私はバンクーバーに身寄りもなくて、なにをしているんだろう。毎晩のように泣いていた。
帰国している間に、冷蔵庫に入れていた調味料がぜんぶ捨てられていたことも萎えた。数日間、ささみばかり食べていたら痩せた。モロッコ人であるルームメイトの1人が仲良くしてくれて、ご飯を買ってきてくれたりスイーツをくれたりして、ぎりぎり生き延びていた。
彼とは一時期とても仲良くて、同じ家から時間を合わせて日本食を食べに行き、私がご馳走したかと思えば次はモロッコ料理を食べに行こうと言ってご馳走してくれて、同じ日にレストランをはしごしてお腹がぱんぱんになった夜があった。
しかしその夜、まだ帰りたくないなあと言って海辺を散歩して、告白みたいなことをしてくれたので気まずくなってしまった。私は傲慢なので、期待に応えられない状況が嫌いなのだ。
10月
また引っ越しをした。どうにもインド人ルームメイトの常識が私のものと違いすぎて、次の月の家賃も払うという約束で無理やり退去した。
次の家は、去年の今頃住んでいた家と同じエリアにある。馴染み深いエリアで、好きだったので嬉しかった。ただひとつ、当時デートしていた台湾系カナダ人の男の子のこと(失恋)と、そのあとの日本人ハーフのカナダ人の男の子とのこと(不始末)を思い出してしまうのが難点だったが、ふたつとも克服したのでそこまで苦ではなくなっていた。それでも同じ季節、太陽がなりをひそめる暗い日々への変遷のなか、感傷的になってしまうのは避け難い。
少し痩せたのが嬉しくて、まだサラダや鶏胸肉ばかりを食べていた。ずっと過去の写真とかを見ていて、まだまだ時差ぼけの中にいるようで、望郷の念たらたら。
そんな中でバルカンの友達が連れ出してくれて、ノースバンクーバーのパブで飲んだBREW HALL IPAが美味しすぎて、これも今年一年でいちばん美味しかったビールにノミネート。店員のサービスが笑ってしまうくらい悪かったのだが、ビールの美味しさで吹き飛んだ夜だった。
しばらくは彼女だけが心の支えだった。彼女は彼女で大変だったが、タイミングが合ってよく遊べてほんとうに良かったと思う。
この頃、体の形が少し変わった。たぶん、歩き方や食生活がぐんと変わって、今まで筋肉がまるでなかったところにそれがついたりして、それで今まで履いていたジーンズが似合わなくなった。服屋さんでの仕事が、最低賃金のくせにノルマがあってプレッシャーに苦しんでいたのも大きいかもしれない、少し痩せたのだ。まだ豆ご飯ばかりを食べていたのもある。
バルカンの友達が、グラウスマウンテンという山に連れて行ってくれた。この夜も、完璧な夜のうちのひとつ。そして、バンクーバーにもう少しいなさいという啓示のようなものなんだなと思った、そのくらい、胸を打つ美しい夜だった。
その日以外はずっと天気が悪かったのに、嘘みたいに山に行く日だけ綺麗に綺麗に晴れて、雲一つない空に、遠くに白いロッキー山脈が見えた。ほんとうにほんとうとは思えないほど桃色に美しい空。
レストランでビールを飲んで、ふたりでたくさん話した。彼女には感謝してもしきれない、あんなに素晴らしい夜のおかげで、私はまだこの国にいる。
別の夜にはメキシコ人の男友達とビールを飲みに行った。その日、当然のようにサラダで始めた私は、しかし2軒目でたまらなくなってサーモンのグリルを注文し、それでも足りずにステーキを食べた。ちゃんとフライドポテト付きのやつである。そこで私は、ひとつの結論に辿り着いた。「どこまででも一緒に行ってくれる人じゃないとだめ」だということ。彼と恋愛とかの話をしているときだった。気づいたのだ。馬鹿みたいに飲んで、食べて、どこまででもハイになって、どこまででも行ってくれる人が現れたらそれがその時だと。
彼は「マジックマッシュルームとかなら一緒にできるけど、ハイになれるよ」などと言ったので、私は当然その言葉を半ば黙殺した。わかってないんだよ、胆力の話を、してるんだよこっちは。彼のおかげでクリアになることはたくさんあって、私は彼を好もしく思っているのだ。
他にはノースバンクーバーによく1人で行った。寂しい海は自分のマイナスな感情を癒してくれた。自分で稼いだお金でケーキを買って食べた日に、初めてバンクーバーにいることが、しっくりきた。
この頃から今の、外見に関する自信みたいなものが顕著に出てきた。服屋さんで働くことに気持ちが馴染んできて、お客さんや同僚から褒められたりすることが増えたのも大きい。髪の毛をぱちっと決めて、いつものお化粧をして、堂々と歩くことが楽しく思えるようになった。
しかし働いているからということを盾に不必要な1人での外食や甘いものの摂取、ウーバーイーツが増えて、当然太った。
ハロウィーンには、バルカンの友達に、テーマパークみたいになっている公園に連れて行ってもらった。そのあと行ったパブで、店員さんは私たちをソーキュートだと言った。たぶんカップルだと思われていたのだろう。直接言及されたわけではないので否定もしなかったが、私たちというのは圧倒的にそういうのではないのだよなと思うと面白かった。最初のほうはちょっとときめいたりしたけど、すぐに友情が優ったのだ。エロい雰囲気になったことも一度もなく、話していて慰めるために手に触れることがあっても、徹底して友情であり続けた。
彼女のために嬉しいことだが、このすぐ後に彼女の恋人が別の国からバンクーバーに戻り、ふたりで出かけることはこれを最後になくなった。私はかなり寂しい。
11月
そんなこんなで、ひとりで出かけた。年末に向けて服屋さんは忙しく、隙間の休みにはカフェに行った。ほとんどお酒を飲まない、珍しい月になった。その代わりにスーパーで買い物をするのが度を過ぎた趣味になった。ひんぱんに安いお肉でステーキをした。思い返しても孤独な月だった。たぶん、2回くらいしか友達と遊ばなかった。
そして月の終わりから、スムージーを飲み始めた。信じられない!今では欠かせないのに、ほんのこの頃からなのか、この習慣は。
初めはケールとヨーグルトとブルーベリーを混ぜて飲んでいた。しかしそれだと、血糖値が上がり過ぎてしまうようで、体調が悪くなった。それならばと思い、Twitterで見たのとchatGPTが勧めてきたのとで、プロテインパウダーを入れるようになった。するとこうかはてきめん! ご飯の後に動けなくなるということが、なくなった。へんな頭痛もブレインフォグもほとんど消えた。タンパク質、お前だったのか、答えは。年の瀬も近くなってきてようやく、自分の体と向き合うに至った。年の半ばくらいからグルテンに弱いことは気づきはじめていて、米粉麺やお米、グルテンフリーパスタなどを主食にしていたのだが、それでも体調を崩してやる気もぜんぶなくなって休日を台無しにすることがままあった。このスムージーを開発してから、そういうのに振り回されることがなくなった。これは今年の大きな発見のうちのひとつで、これからも役立つ財産になるだろう。
12月
カレッジの行事でノースバンクーバーのクリスマスマーケットへ行き、バルカンの友達と久しぶりに会った。そして、その恋人とも初のご対面。すごくいい人で、対話もできて、同い年で、心からふたりはお似合いだった。可愛くて対等なカップル。みんなでビールを飲んで、たくさん話した。パブで食べたサラダに髪の毛が入っていて、嫌だったけど、女たちたくさんに慰めてもらって機嫌が治った。女同士のカップルというのはいいなあと思った。影になっている部分が少ないのだ。
別の日、年上の日本人のお友達が、ずっと親しくしている台湾人のルームメイトとついに会った。去年からずっと噂はきいていて、ずっと会いたかったのだ。話に聞いている通りのいい人で、すぐに大好きになった。彼女は飲みすぎてキュウと潰れてしまった私の頭を、愛犬にするみたいに撫でてくれた。生い立ちの話をすると、「どうしてそれで大丈夫だったの」と悲しんでくれたので、「大丈夫だったことなんてないよお」とちょっと泣いた。楽しい夜だった。彼女の愛犬を連れて日本食屋さんに行き、ブルワリーに行き、愛犬を家にお留守番させに戻って、クラブに出かけた。20、30、40、50代とそれぞれ世代が違う4人で、だくさん話して飲んだ。最後まで飲んでいたのはでも、40代と50代のふたりだった。お酒というのは若さで飲むんでなく、熟成させた肝臓で飲むものなのだ。
年末に向けて気持ちは高まる。リーバイスのセールでジャンプスーツを見つけて、試着するとおかしいくらいに似合った。お店中が褒めてくれた、褒めてくれなくても似合い過ぎていたので購入したけれど。こういう運命というのがあるので服を買うのは楽しい。
M1グランプリはひとりで配信で観た。その間、ルームメイトといびきの騒音で揉めた。そして今も絶賛、揉めている。
クリスマスイブは同僚とハンバーガー屋さんに行って、6時半には追い出された。北米ではクリスマスはもっとも大事なイベントなのだ。どの店もイブには早く店じまいをし、25日には開かない。
クリスマス当日の夜には、月の始めに初めて会ったばかりのお友達のルームメイトの家におよばれして、パーティーに参加させてもらった。ほんとはバルカンの友達の家におよばれしてその恋人と3人で過ごす予定だったのだが、少しごたごたして、その後カップルが喧嘩をしたとかでキャンセルになってしまったので、よけいに助かったし、嬉しかった。ホットポットパーティーだったのが、インド人の人が山羊カレーを持参したり、チキンが振る舞われたり、食べ物がたくさんあったので一年でいちばん満腹になって動けなかった。みんなで歌を歌ったりして、知らない人同士なのにふしぎにあたたかで楽しかった。
およばれのおよばれで参上してきた日本人の男の子が、すべっているなあと思ったことがやけに印象に残っている。クリスマスマーケットの日に会って、そのときが二度目だったのだが、やけにスラングを使いたがりそれがコミュニケーションの邪魔になっている典型的な英語学習中の伸びが見込めない日本人男性という感じ。一部の日本人にとって英語を話すことがどうやらコミュニケーション方法ではなくイケてる自分演出になっているようで、それを見るのは悲しい。自分をかっこよく見せるために発する一方的な言語のようなものでは、人とは仲良くなれないのだ。それで私が準備をほっぽって他の参加者と話していると、あとから「お鍋おいしいでしょ!僕が準備しましたからね!」と、時間を置いて2回も言ってきた。2回目は無視した。価値を見出す場所が間違っている人なんだなあと思った。だって主催者の彼女たちは一度も感謝を強要したりしないのだ。準備をしたのは彼女らで、準備の手伝いをした俺なんてほんとうにどうでもいいというのに。
30日には同僚たちとボウリングに行った。あんまり盛り上がらなかったのは、主催者が職場の揉め事のせいでドタキャンしたせいでもあるだろうし、もともと私たちがそんなには仲良くなかったせいでもあるだろうし、お酒を飲むのが私ともう1人だけだったこともあるだろうし、公言はしてないもののカップルがひとつできあがっていたせいでもあるだろう。
それでも私はビールを2杯飲んで上機嫌で、帰ってひとりでワインも飲んだ。大晦日がおやすみになったからだ。
すると今朝、5時に、ルームメイトの騒音で起こされた。彼はいびきに対してノックで対応した私のやり方にまだ怒っており、朝から大音量で英語のラジオを流すという嫌がらせをしてきたのだ。スペイン語ででしか動画を観ていないことは知っているし、彼自身はシャワーを別室で浴びているのに自室で耳がおかしくなる音量でラジオをかけていることから、嫌がらせなのは明らかだった。
ルームメイトに恵まれないなあ。嫌がらせは今年までにして、2026年が始まったら大人しくしてくれたらいいけど。職場でも揉め事がありなぜか巻き込まれたし、滞在先でも揉めていて嫌がらせをされているので、内憂外患といったところで、あんまりいい気持ちのしない大晦日なのだが。
カウントダウンイベントにありがたいことに誘っていただいたのを断って、この日記を書いている。振り返りを終わらせて、お蕎麦を食べたいと思ったからだ。それに、それほど親しくない人と寒い中で新年を迎え、滑ってる日本人と話すことがないなあと思うより、ひとりで静かに迎えたほうがいいと思った。日本では年はもう明けていることだし。
いろいろあって、今はあまり居心地がよくなくて、気分が悪くなることも多々なここ1週間なのだが、総括すると有意義な一年だったと思う。
自分の体についての理解を深めることができて、もっと仲良くなれたかなと思う。下半期はある種の修行のようでもあった。デートの機会もなかったし、色っぽいことなしで自分を見つめ直した。
そして必要なパートナー、探しているのは「どこまででも一緒に悪ふざけしてくれる人」だと改めて発見したのも大きい。
他には、またまた読みなおした村上龍『テニスボーイの憂鬱』のなかの、「自分が悪いと思った瞬間に人は頭がおかしくなる」といった旨の教訓はほんとうに役にたつ。真実だ、とこれも改めて発見した。なにがあっても、自分が悪いと思ったらいけない。誰かに、他人にしてあげられることは、自分らしく輝いていることだけであって、その他のいっさいにおいて責任や義務などはないのだ。これは、これからも自分の関わるコミュニケーションの核になっていくだろう。
来年は、どんな年になるだろう。今、考えているのは、これから先に生きていく場所についてだ。やっぱり私は、日本の文化が好きだ、当たり前に。好きとかではなくて、それは「自分」という人格に、切り離すことが不可能なほど含まれている。しかしやはり、あそこに住む自分の家族・友人以外の人たちがどうにもこうにも苦手だ。バンクーバーにいる日本人でもほとんど苦手なのだから、もう、ほんとうに苦手なのだ。好きな人たちとだけいられるなら日本でも生きていけるだろうけど、それは本当に可能なんだろうか。他人と摩擦が起こってもそれが苦にならない街に今、いて、ほんとうに戻ってやっていけるのかと不安になる。
いっぽうで、母の怪我で、やはり離れてはいられないと実感した年にもなった。ただ単に不自然なのだ、世界でただ1人の愛する家族である母と離れていることが。意味がわからない、意味がないとさえ思う。失うと終わってしまう愛する人と、その未来に訪れる喪失から目をそらすために別々に暮らしているのならそれは無意味だ。逃避でしかない。
でも母を安心させるためにパートナーを見つけなくてはいけなくて、それは日本人ではないと、どうしてかいつからか、感じているのだ。だから日本にいては出会えないと。
たぶん来年も同じことで悩んでいるんだろうな。今日、バスで赤ちゃんを見て、一年後妊娠している可能性だってあるにはあるのだ、と思いはしたものの。他人が必要となるインシデントは、いつだって予想不可能なのだ。
しかし何があっても、強く自分のままでいよう。そうしたらその時々の自分が最適解を見つけ出すのだ。誰をも信用していなくても、自分だけは信じられる。私はいつだって私のために正しい。
じゃあ来年、またどこかの時点で会おう。大好きな人たちが、あけましておめでとうとメッセージをくれる、私って悪くないよ。
大好きな人をちゃんと大事にして、つながりをぶちぶち切らずに、ちゃんと感謝を忘れずに、基本的なことをやっていこう、来年も。
ああ、楽しいことがいっぱいあった一年だった。こうして終えられることもありがたいな。
じゃねっ!年越しそば食べなきゃ。またすぐね!
暇すぎなので登場人物紹介
最近、やってることといえば服屋さんで働くことだけなので、コワーカーについて書いてみようと思う。
どうやったって彼らがここへ辿り着く可能性はゼロポイントゼロゼロゼロいくつかパーセントなので、名前も書いちゃおうかな。
まずは大ボス、ジェネラルマネージャーのジェシー。カナダ人であり、やたらと人をmy dearと呼ぶので、イギリス系だと考えている。常にスーツを着ているが、覗く手首はタトゥーまみれだ。
ほんとうに底意地が悪く、捻くれていて、従業員を人間だと思っていないんだろうなというコミュニケーションの仕方(あるいは避け方)であり、他のリーダーたち以外に嫌われている。シフトを通して粘着質に人を操ろうとする。
この間、働いていると出しぬけに「あや、君は本当によくやってくれている、君のカスタマーサービスや商品に対する姿勢は素晴らしい、頼りにしているし感謝しているよ」とつらつら喋りかけてきたので恐れ慄いた。本来なら感激するような、良い言葉を使っても裏があると思われるような人柄だ。
確実に女という性別を嫌いなのだろう、少なくとも女性と結婚はしていないだろう、と思っていたらやはりインド人男性の配偶者がいるらしい。そのせいで一時期インド人ばかりを雇っていたというのだから、なんというか想像通りだなあという感じである。
語尾によく「ハハッ」とミッキーマウスみたいな笑いをつけるので始めの頃は本当に混乱した。今は黙殺している。
次にアシスタントマネージャーのフランシス。彼女は大柄なフィリピン系で、いつもアイラインを濃くひいており、仕事以外で友達になったら楽しそうな人だ。この人も大ボスの影響で従業員や客をmy dearと呼ぶ。むちゃむちゃむちゃと言う感じで喋るので可愛い。ストアのビジュアルを担当し、レイアウトやどの服をどこに置くかを決める権限がある。その割には余裕がないときの指示の仕方が曖昧で一人称的なので、「なんで〇〇してんの?△△って言ったのに」とヒスお母さんみたいになるときがある。
しかし私の面接をし、是非来てくれと気に入ってくれたのはこの人なのでニコニコして話を聞こうと思う。
そしてもう1人のアシスタントマネージャー、セピデ。イラン人のシングルマザーで、ものを率直に言う。「ほらほらほらお喋りはなし!売る売る売る売るの!」といつもエナジェティックである。デリカシーがないので、他のイラン人とセピデ、私の3人という状況でも平気でペルシャ語で話すのでそんなに好きではない。「中国で戦争が起きて日本も巻き込まれるみたいよ、たくさんの預言者が言ってるわ」とか言ってきて引いた。「あなたはカナダにいるからいいじゃない」「私たちにできるのは祈ることだけよ」と続けるので閉口。
リーダーズの最後は、リチャード。ハイチ人のおじさんで、フロリダに子どもが3人いるという。しかし今はバンクーバーの隣の市でルームメイトつきのマンションの一室に住んでいるらしい。背が高くてシュッとしていて、眉毛にピアスがついているし長髪。でもおじさんなのでお腹が出ている。
この人が職場にいると私はちょっとだけアガる。前にふと「君の魂は美しいね」と歯の浮くようなセリフを言われたからである。笑顔が、西洋人に珍しくくしゃっと崩れるので、嬉しい。私もそうだが、たぶん笑顔でいろいろ乗り切ってきたんだろうなと思う。
休憩から帰ってくるときには煙草の匂いがする。香水が雨の街にぴったりな胡椒みたいないい匂いなので、ふがふがして嗅いでしまう。
そんなに頭のいいタイプではないので、意味わからん指示を出してくることがある。そういうときは黙殺することにしている。同僚によると、大ボスの犬らしい。
私がなにかに悩んでいると「そういうときは、生産的になるんだよ、いろいろ考えずに」とアドバイスをくれた。生産的になった結果別の国に子どもが3人おるんかいな、と思った。
ここからはパートタイムのスタイリストたち。
アンモルは23歳くらいのインドはパンジャビ出身の女の子で、顔がめちゃくちゃ小さいのに目がめちゃくちゃ大きい。客に「女優さんみたいだ」と求婚されたことがあるらしい。背も小さいから威圧的な感じはない。完全なベジタリアンで、卵も気持ち悪くて食べないらしい。そのせいだろうと私は思うのだが、よく体調が悪そうにしている。
母親が信心深いようで、故郷では1人で出かけることはほぼなかったそう。カナダで出会ったパンジャビの男と一緒に住んでおり、大きなジュエリーのついた指輪をもらっていた。
私がなにか服を着て「これよくない!?」ときいてみても「ん〜私のタイプじゃない」と私基準でしか答えてくれないのであんまり参考にならない。
ファキーラはインドネシア人、25歳の女の子。髪型がガーリーなウルフでめちゃくちゃ似合ってて可愛い。いつも音楽を聴いている。優しい。usuallyの言い方がめっちゃよくて、それを言いたいけど言ったら引かれてしまうと思う。このあいだ、日本のこんにゃくゼリーをくれた。物静かでしれっといろいろやっている羨ましく要領のいいタイプで、嫌味がない。しょうじき絶賛である。クールなのだ。ロングスカートを履いても黒いジャケットを着ても似合う。
モハメドはイラク出身で、本業はモデルであるという。いつもいい匂いがする。顔のパーツがすべて大きく、笑うときにはそのすべてでにっこりするのでとろけてしまう。人に優しく自分に優しいというタイプの典型という感じで、この人を好きになる人は辛いだろうなあと思っている。ジゴロのような雰囲気で、青のベルベットのスーツなどをさらりと着こなす。
いつも穏やかだが 言うてることの筋があんまり通ってないなあと思うのでいい人ではあるのだろうが全て聞き流すことにしている。
タラネはイラン人で、息子や旦那さんと移住してきたという。いつも眉間に皺を寄せ、「退屈すぎる」「もう疲れた」と言っている割に売り上げ成績はめちゃくちゃいい。
私のことを「ベイビー」と呼ぶ。私がいつも無知で慌てているからだ。my dearのときもある。この人にそう呼ばれると嬉しい。
イラン人はお店に4人いるが、全員基本的に真顔である。なのでこの人もそうなのだが、私に会うとハイベイビー!と笑ってくれるので嬉しい。
デイビッドは東アジア系のカナダ人で、恐ろしく早口で話す。たぶん中国系なのだろうが、他の中国系のカナダ人も早口の人を2人見たことがあるので、傾向があるのだろうか。いつもマスクと手袋をしていて、始めびっくりした。そういえば一度も素顔を見たことがない!
いつも🙄この顔をしてアピールしてくる。すれ違いざまに「今日はジェシーがひときわウザい」とか愚痴ってくるので面白い。「大丈夫、売り上げあんたに貢献したよ 僕は味方やから!」としきりに言ってくるので、私を数少ない愚痴相手と気に入ってくれているみたいで嬉しい。客と定型文で話しているので 昔はコミュニケーション下手くそやったとかそういう人なんかな、と思う。
アヴァはイラン人の21歳で、恐ろしくアクセントが強いのでいつもほとんど何を言っているか聞き取れないが不思議と馬があう。しかし売り上げ目標達成に必死なために他の人の売り上げを黙って自分の数字にするのでけっこう嫌われている。私くらいしか仲良く話す人はいないんではないかと思う。久々に会うとハグをしてくる。
いつも真顔なので始めは とっつきにくかった。イランのパスポートではどこに行くにもビザが要るのでカナダ人と結婚したいが、今はカナダで出会ったイラン人と付き合っているらしい。彼氏の見た目はタイプじゃないけど、笑わせてくれるから好き、らしい。私はその話を聞いたとき「オーシャンズ11じゃん!」と言ったが、その映画は観ていないようだった。
私とそっくり同じパンツを別の時期に偶然買っていて、今は黒のフレアパンツとウォッシュドのブーツカットジーンズをオソロで持っている。
トゥチェはトルコ人のすらっと背が高く綺麗な女性。忙しい日でもなにか優雅な感じを漂わせている。しかしお店の売り上げを競わせる方針が嫌いすぎて近々辞めようと思ってるわよと言っていた。
ペルシア人の彼氏がいる。ある日コンサートに行ったら、ナンパされたらしい。はじめはそんなつもりがなかったのに、何度もアタックされるので付き合った、もう2年くらいになる、と笑っていた。なにそれ!素敵やし、ぴったりなエピソードやんか!
私のことを「だって日本人はもっとシャイだから!」、韓国人だと思っていたらしい。
他にも、トムフォードのタバコアンドバニラという香水をつけていてとってもいい匂いの香港出身のエドワードはいつもクールキッドだぜという歩き方をしていて面白い。ある日香水を変えたよと言って嗅がせてきたので「タバコアンドバニラがいいだろ」と言ったら次の日戻してきたので ちょっと犯罪を犯した気持ちになった(彼は18歳なのである)。
4人目のイラン人のエシーはメガネのおじさんなのに人のスタイリングはうまくて時々言う皮肉が面白い。
カナダ人のロリはいつも旦那さんとどこどこへ行ってね〜という話をしている。古の女性のコミュニケーションのとり方をする、まあ、50歳を超えてそうなので仕方ない。
カラテクとかいう名前のインド人の男の子は、アクセントもひどいし言うことがいつも支離滅裂であまり好きじゃない。その割に意味不明のタイミングで「あや?手を貸そうか?」とか聞いてくるので余計に嫌だ。しかも名前が難しすぎて誰も正確に呼べていない。私もいまだによくわかっていない。
他にも最近入った人たちが4、5人いる。挨拶されていないので名前も知らない人もいる。
非常にインターナショナルな職場で、やはりいいのが、中国系以外の東アジア人がいないところである。ほんとうに、日本人、韓国人と働くことにいい経験がまったくないのだ。だから今はとてもストレスフリーだ。
私はもうすぐ30年くらい生きていることになるので、知っている。今はこんなに鮮明に、一人一人頭の中で生きているみたいに、ビビッドな存在感が3Dだけど、2ヶ月もすると状況もメンバーも変わってすべてうまく思い出せなくなる。思い出せなくなることにも構わなくなる。
いつからか、日本の同級生や昔の同僚と自分のことを比べるのをやめてしまった。「普通かどうか」という基準がとても他愛無いものに思えるようになった。それでも、少し比べてみて、私の人生には他の人より登場人物が多いだろうか?
少なくともインターナショナルではあるなあ。
違うか、数の多さではなく解像度の高さだ、昔に「よくそんなに他人に興味を持てるね」と言われたことがある。観察しまくっているから、それぞれこんなに記憶に残るのだ。
ほんとに、生身の人間ほどおもしろいものはないなあ。
霜降り明星のせいやが昔、お酒を飲むのが好きすぎて「人間」のことを「酒袋」と呼んでいたが、たしかに人間は袋であると思う。
それぞれの人生がぱんぱんに詰まった袋!中を覗くのが楽しすぎる。
英語、日本語の表現
かなり初歩的なことなのだが、5年前、英語を勉強し始めた頃に、「今行く!」を"Coming!"と言うことにびっくりした。
「エマ、早く!遅れちゃうよ」
"Emma, hurry up! We'll be late."
「今行く!」
"I'm coming!"
comeは来る、でも日本語で「今来る」とは言わないわけだ。そして英語で"I'm going!"とも言わない。
勉強し始めた頃は、主体がどこにあるかよくわからなくて不思議だなあと思っただけだった。しかし、今考えてみると、問題は主体ではないのかなと思う。
goという動詞は、「行く」という意味で、目的地としての目的語を必要とする。(その割に前置詞のtoがないと場所と意味がつながらないのはへんだけど。)
その点、come、「来る」は、目的地視点である。I am comingとなると、私が今いる地点からあなたがいる地点まで来ますよ、と、会話における2点が明確なのである。
I am goingとすると、どこへ?となるのだろう。私のいる1点しか明確でないために。
でもやっぱり、日本語であっても「今行く!」はあくまで私目線で私がどこかへ行くのであり、「私」が相手の場所へ行くかどうかには言及していない。
主体のバラエティが比較的少ない日本語であるから成立する言い方なのかもしれない。感情や出来事などもやはり、日本語での主体は「私」であるような気がする。
そうすると英語とは、主体のあちこち移る言語であるような気がする。
日常会話で私がよく自分で使うなあと思うのは、"It's surprising that~."「〜であるというのは驚きだ。」という言い方なのだが、これは日本語のやり方に当てはめると奇妙である。
"surprise"は、自動詞の「驚かせる」という動詞だ。だから形容詞化されると"surprised"となる。「(主体が)驚いている」という状態を形容詞化するには、「驚かせる」という動詞を受動態にし、「驚かせられた」としないと意味が通らないからだ。読んでる人は中学の頃を思い出すだろうと思う。
なので、日本語での「〜であるというのには驚きだ。」を直訳する場合、"I was surprised that~."「〜であるということに驚かされた」とする方が主体の位置では正しいことになる。
しかしなぜ私が"It's surprising that~"と言うのかというと、that以下の物事が、驚きの事実であるからだ。なんかそっちの方がしっくりくる気がするのだ。驚いたのは私なのだが、驚いた私よりも先にある事実が私を驚かせるのである、という感覚。
let me knowの"let"のような使役動詞に馴染むのにも時間がかかった。「私が知る状態にあなたがしてね」、つまり"you let me know"の"you"が省略されているのだ。
"Let me see"「見せてごらん」も面白い。省略されているyouという主体が、「私が」見るという行為を示す文章に隠れていることが、日本語を母語とする者として理解しづらかった。
話が変わるが、日本語で「お待ちください」が丁寧な言葉であると思われていることが私には不思議だ。
どこまで行っても「待て」の丁寧語ではないか。「〇〇ので少しお時間頂戴致します」とか、「すぐ〇〇致しますね」とかなら丁寧で真摯だと思うのだが。
これも主体の問題で、「お待ちください」はつまり、You waitであなた(客)が主体。「すぐ〇〇致します」はI do 〇〇 right awayなので私が主体。つまり、あなたが待つか待たないかには言及せず、ただ私が早くしますねという事実だけがある感じ。客に「待つ」という行動を指示したり、あるいは他の行動を制限したりしていない。なんかこの方が丁寧じゃない?
まあ、私が勝手にそう思っているから例えばお店に入って「お待ちください」といの一番に言われると「まず命令してくんな」と思い、自分がサーブする側であれば命令はしないようにしている、というだけなのだが。
言葉の正しさは軽視されつつあるが、他人のブログなどを見ると文章がただ正しく書いてあるだけで読みよいなあ、心地よいなあ、と思うものである。
このブログは眠くてほとんど推敲もなしに投稿したので読みにくかったことでしょう……。
よわき 2
さて、前のブログを書いてから5日間元気に、このままバンクーバーに留まるつもりで過ごしてきた。
しかしまた、心が折れかけている。ヘルペスが再発したのだ。前回は7月の終わりだったので、2ヶ月ぶりである。その前は2年前の4月だったことを考えると、頻度は格段に上がっている。身体が悲鳴をあげている。1年ふつうに過ごしたくせに、だ。
その上で、今日ふと周りを見てみて、思った。1年過ごしたこの街で、会いたいと思える人が、もう、1人もいないのだ。会いたいと思って ぱっと、会いたいと連絡しようと思えるような人が、1人も、いない。なんて悲しいことだろうか。根っこがまったく生えなかったのだ。根を下ろすことができなかった。
たしかに、母国へしばらく帰って昨日こちらに戻ったセルビア人の友達と一回飲みに行っておきたいし、新しくできたモロッコ人の友達とまだもう少し遊びたい。仲良かった友達の元恋人であるチリ人の女の子は私ともう1人しか友達がいないと言って連絡をくれたので嬉しかった。まだしばらくこちらに居るであろう日本人の友達と、ペルー人の友達を連れて韓国料理を食べに行かなくては。
そういうひとつひとつ、小さな繋がりを少しずつ大事にして、綱渡りのようにたぶん、過ごしていくことはできるんだろう。このまま ああこの子に会わなくては、でも忙しいから来月になる、だとか、どこどこのレストランに、でもまた次の週だ、とか、予定をちょこちょこ先延ばしにしたりして、騙し騙し充実させれば。
でも孤独を感じたり身体に不調の出るたびにこうして、ああ帰りたい、なんでこんな場所に1人で居るんだと、しくしく泣くのか? 不毛なんじゃないかそんなの。
去年のクリスマスを、今年の新年を、一緒に迎えた友人たちはもう全員いなくなってしまった。日本人の友達はぜんいん帰った。今こっちにいる年上のお友達も帰国を検討している。
孤独で寂しい現在だけでなく、未来も見たときに、簡単にずっと滞在できるわけでもなく家賃もべらぼうに高い、インフレが国内でいちばん激しいようなバンクーバーに残ることは、あまり現実的な選択肢ではなくなってしまうのだ。
みんなが、帰国の選択肢をとるなかで、地元に友達がいるわけでもなく、アプリを使ってデートをするのにも飽き、クラブに行くほどもう若くもない、私もこちらに留まる理由がただただなくなってきている。加えて、実家には愛する母と犬がいるのである。
そうだ、でも、今日友達と自分の欠点、嫌いなところの話になった。
考えて、お酒を飲み過ぎるところと我慢ができないところ、そのくらいかなあ、と結論が出た。
しかしお酒を飲み過ぎる理由を突き詰めて考えると、やはり我慢ができないからであるので、私の唯一の欠点は我慢ができないところ、のみ、なのだ。
我慢ができない、今の状況に、ひとりぼっちの、楽しくない、寂しい、鏡と家族の写真の前で1人で食事を摂るような、空き時間にやることも会う人もいなくて1人で海に行くしかないような、本を読んでも読まなくても孤独であるので変わらないような、身体のあちこちに常に不調が出るような、そんな、状況に、我慢ができない、今この瞬間の状態に。我慢ができないこのままで、家に帰ってしまうとまた、欠点を温室のカビのように育てるだけじゃないのかと、思う。
もう本当にそれだけなのだ、帰らない理由は。
今現在、楽しくないもの。そして楽しくなるようなわくわくする予兆もない。帰ると後悔するかもしれないとそれだけが怖くて、まだバンクーバーにずるずると滞在する予定を立てている。仕事を始めて引越し先を見つけて、ずるずる、ずるずると。
もう別に英語で本も読めるし人と話せるしニュースも見られるし、これ以上 言語の上達のために何かしようと思わない。ボキャブラリーは足りないし、頭が回らない日はうまく喋られないけど、そんなものはどこにいたって向上させられる些末な部分だ。
仕事だって、企業系の通訳とか、医療の現場の通訳とか、面白そうやなと思うのに、こちらで始めたのは服屋さんの店員だ。やりたいことをやれているわけではないし、やりたいことをやるために今ちゃんと最短距離を取れているような気もしない。第一、バンクーバーで通訳なんてできないのだ。こちらに来る日本人は英語をできるか勉強しているし、少しの需要は永住権を持っている人たちがパートタイムで満たしている。
月に10万払って、数人でキッチンやバスルームをシェアする形態でしか住むことができない。馬鹿げているでしょう。どうしてまだそんな街に、目的もなく住んでいるんだろう。
と、思うとやっぱり、母のいる家に帰りたくなる。
こんなに心の揺れる時間、プラスにならないことを考える時間は、本当に心身の浪費であると思う。
もう考えたくない。でも考えないためには実家に帰るしかない。
そしてこういう話を真剣にできる相手も、こちらにはいないも等しいのである。
疲れたな〜
よわき
さて すでに2回帰国しているとは言えカナダに来て1年が経った。この短い間に様々な人と出会い、離れ離れになった。おもしろかった。まさに日本で燻っていたとき、憧れたものがあった。多文化共生の街を、我が物顔で歩いた。
そして今、あと1年を残して、本当にこのままここにいたいのかとそればかりを考えている。分岐点にいる。学校とビザの関係で、あと1年残るか今帰るかの二択しか今、この手にない。
こんなに心が揺れているのは、やはり母の怪我が大きいだろう。左腕を骨折した母の身の回りの世話をするために、8月の最後から2週間だけ帰国していた。
そして、そのときの充足感たらなかったのだ。
世話すべき母、毎朝お茶を淹れるべきお仏壇、散歩に連れて行くべき犬、水をやるべき植栽、すべてが私の存在を求めていた。
いつでも使えるキッチン、裸足で歩けて寝転がられるリビング、急な他人の訪問のない家、どこへでも行ける自家用車、なんて快適なんだろう、そして私は望んでこの快適を手放している。なんのために?
そう、なんのために?
この1年間、立ち止まらずずっと動いてきた。常に人との出会いを求め、なにがベストかを考え、友達と精神が擦り切れるまで遊び、恋愛も当たって砕けて自己を追求してきた。
ハイキングに行き、パレードに行き、海を見て山を見て湖を見た。
カナダ人やメキシコ人、セルビア人やペルー人、コロンビア人や中国人、パナマ人やハンガリー人、モロッコ人やインド人、それからもちろん日本人、いろんな国から来た人と話した。
ビールを飲み、テキーラを飲みジンを飲みワインを飲み、ミチェラーダを飲みシーザーを飲み、カナダ料理(プーティーン)を台湾料理を四川料理を、メキシコ料理をコロンビア料理を、東欧料理をベトナム料理、タイ料理、マレーシア料理をペルー料理を、ケバブを豚まんをジェラートをハンバーガーを、しこたま味わってきた。
友達ができ、気に入りのお店ができて、恋人はできなかったけれどもデートはできて、それでじゅうぶんめっちゃ楽しかった。
これからもこの、誰と話しても常になにか発見のある街で、まだ行っていないレストランで誰かとボトルを分け合ってワインを飲むのは素晴らしいことに思える。まだ全然わくわくする。
でも、なんのために?
なんのために母を、家族を置いてここにいるんだろう?
いや、なんのためにという問いは破綻している。来たかったから来たのだ。あのまま日本で過ごしていられないから来た。自分自身のために来た。だからその問いはおかしい。
しかし友達みたいな先生が昨日言っていたことには、「君が1年前来たときにはどんなふうにバンクーバーで過ごすか、どうやって生き抜くか、それしか考えていなかっただろうけど、今は家族やこれからのことも考えなくてはいけないもんね」。
だから、来たときには目の前のことに精一杯で、そして今もうこの街に慣れて視界が広がり、すると置いてきたものが見え出した。変わったというだけなのだ。考え方、というより、考えなくてはいけないものの範囲が。
早くに妹を亡くしているし、そのせいで大切な人がいなくなるということがとてもクリアに想像できる。実感として、恐怖として、身体の中にある。
だからこそ外に出て、誰かを見つけて人生に引き込み、母に大丈夫だと示したかった。母がいなくなれば天涯孤独の身なので、外部に大事な人を持つ必要があった。今もある。
日本じゃ見つからないと思ったから、出てきた。でも………
見つかりもしないパートナーを、人生を共に過ごす人を見つけに外へ外へと出て行くよりも、母との残された時間を大切にした方がいいのではないかと今回帰国して思った。
母は病気ではないし、もし100歳まで生きるなら、あと40年以上時間はあるけど、でもそんなことは仮定さえできるものではない。失う恐怖は底知れない。
それなら、べったりではなくても週に一度会える距離ででも、いられるならそれが私の人生にとってベストなんではないか。
カナダに永住することを目指そうか、それとも他の外国に棲家を見つけようか、なんて、1年前は漠然と考えていた。日本にはもう戻りたくないなんて、反骨心を訴えていた。
でも、日本に帰りたくなくたって、あそこは私の生まれた国で、そして愛する家族の今まさに生きる国なのだ。カルチャーが嫌い他人が嫌い、コミュニケーションが嫌い差別感情が嫌い、なんて、ぶわぶわした概念を嫌ってみたって、そんなものは生活には関係がなかった。
文化の壊されてしまったバンクーバーで、それぞれの人種は毛嫌いしあったり贔屓しあったりしながらうぞうぞと生きている。日本でだってそれは変わんないんだろう。自分の環境を整え、快適に過ごすことができれば、他人なんて。
だから最終的には日本に帰る。長い家出だったのだ。手に入るものを当たり前に享受していた。それを知ることができたんだから外国で過ごしてよかった。
そしてあと1年だけ、この家出をやってもう終わりにしよう。1年だけ家族には何も変わらずいてもらおう。
この日記は頭を整理するために書き始めたし、滞在するメリットと帰国するメリットを比べようとしてたけど、なんか、結論が出た。
まだもう少し頑張ろう。寂しさに不便に体調不良に不衛生に面倒くささに、まだもう少しだけ負けないように。あと1年したら帰られると思えば、少し元気も出てくるものだ。だってこっちにいることだって楽しいんだから、今は少し気分が沈んでるだけ。
今日はお友達の誕生日なので、夜に少しだけ顔を出そうかと思う。
洗濯機を回したままなのを忘れていた。乾燥機にかけなければ。
今年のクリスマスは誰と過ごせるんだろうか。ともすれば1人かも。ちょっと寂しい。
去年のニューイヤーは馬鹿騒ぎしたけど、それをした友達は全員もうここにはいない。
出来事たち、存在と不在。こんなことは日本にいたって感傷的なものだからね。
じゃっ
アップス アンド ダウンズ
今日、気付いたところによると、私はずいぶんドラマティックらしい。
というのも、友達と話していて、なんかおかしいなと思ったのだ。
「食事のたびにめちゃくちゃ幸せを感じるんやけど、食べるのが好きじゃないあなたの幸せってなに?」と、友達に訊いたら、
「そんなにコンスタントに幸せを感じることはないし、それに慣れている」という答えが返った。
それを聞いて、この人は満ち足りているんだ、ひとりでちゃんと、と思った。
私の幸せは劇的で持続しない。美味しいものを食べて10分間幸せになる、セックスをして3時間幸せになる、お酒を飲んで5時間幸せになる、友達と話して6時間幸せになる、それ以外の時間は基本的に不幸だ。
幸せだと感じるとき、そこに常に不幸の影があるのは、ジェットコースターのレールが頂点に達した後当たり前に急転直下を経験することと同じだ、とても、クリシェ、つねに、予測可能。幸せのあとに不幸が来て、またその後に幸せが来る。
それはたぶん人生山あり谷ありということわざにある通り、ある程度は誰にでも言えるんだろうけど、私の場合は高低差で耳がキーンとなるほどのスパンで山と谷が訪れる。
そしてこれは、ホルモンの分泌量だとか、家庭環境とか母親の性格とか、そういう身体的かつ精神的な自我に帰依するのだろうと思った。
外部からの刺激でやっと幸せや不幸を繰り返す、
だから、恋愛では自分のことを好きではない人を追いかけてしまう。振り向いてもらえたときのgoodsと、冷たくされたときのbadsに、ドーパミンが分泌されてやっと安心するのだろう。
だから、食べることやお酒を飲むことが好きなのだ。たくさんの味を楽しみ、油や糖、アルコールで脳を麻痺させて、精神的にも身体的にも刺激されてこそ満たされる。
だから、セックスも好きなのだろう。一時的に猛烈に必要とされることの喜び、脈が上がり息が浅くなり身体がハイの状態になる、他人と擬似的に重なることの精神的充足。
外的な物事、物質や人を、消費して消費して消費して消費し尽くす。食い尽くす。
追いかけて追いかけてぜんぶ許して相手の嫌なところを見つけてしまうまで。お腹いっぱいになって、苦しくなって、食べたことを後悔するまで。性癖やパターンに飽きてきて苦痛になるまで。
友達は毎日、ちょっといいな、と、ちょっとやだな、を繰り返して生きているという。私を見て忙しそうだなと思うらしい。
私は毎日、これしかない幸せ幸せ幸せだ!!!!!と、もうほんとうに何もかもの終わりの最悪最低、を繰り返して生きている。
違うということは面白い。
そして、唯一消費せずにいられるものが友人たちだ、と、思えることは私の唯一最強の救いだ。
恋と愛
一昨日、友達とビールを飲んでいて突然悟ったところによると
恋は自分の介在しないもの
愛は自分と相手との間に生じるもの
ということでいったんsettle。どうかな?