1年か2年か前までは、隠居したい!と思ってたわけですよ
田舎の平屋に住む 毎日 小さな家庭菜園に水をやり 近所の無人販売所で買ってきた採れたて卵を毎朝目玉焼きにして冬の早起き 靄の充満する美味しい空気のなかを散歩
……とかそういう、でもわたしの性格で庭を維持できるわけがないし、早起きを習慣づけられるわけがない
生きてる時間は夜のほうが長いわけです 孤独なんやから。
田舎は無理やと 気づいた
だから最近はだんぜん、大阪の都会のなかのマンションに住みたくて
そしたら 光ってるでしょぜんぶ、その光のなかに人がおろうといなかろうと光ってる
ひとりぼっちでもさみしくないんですよね
大人になってもし、ひとりでお酒を飲むお店に入られるようになったらなおさらにさみしくない、もうさすがに今みたいに馬鹿みたいな飲み方はしないやろうから安心、静かにひとりで飲む、ときには誰かと喋ったっていい、でもその誰かの名前は次の日にも覚えている必要はなくて。
精神的なつながりを他人に求めてたはずやのに
だから当然、あの隠居の夢には男性が伴っていたわけで
でも都会のマンションには わたしはひとり
誰かと生活を共にすることはとても恐ろしい
"芸術と生活の共存"は普遍的なテーマやって、ゼミの先生が教えてくれはりました
そうなんや!と思って、だってそれを明確に意識したのが『ニューシネマパラダイス』を観たつい最近やから。
わたしはどちらかというと"夢と生活の共存"というふうに強く捉えたけど、その実、芸術とは夢だ。生きるのに必要不可欠ではないから。
生の余剰部分が生み出した夢 だから ほとんどの人が労働者であるこの時代に、この時代の生活に、根付くことができるわけがなくて。
適度に享受するぶんには なんの問題もない、それは現実を生きるためで、少しの夢を見る時間は現実を生きるための糧となる
でも、夢に生きてるうちのほとんどを費やしたら、夢が生活を侵食したら、だれかとそれを共にすることなんてできない
夢はひとりでみるもの、つくるものだ
わたしはいつも夢をみている
男性に、友情に、恋愛に、社会に、夢に、街に、夢をみる
単純にめちゃくちゃ眠るし
そのうえ 本を読む 映画を観る それは他人の夢を覗くことで 夢の疑似体験だ
そして自分でも小説を書く 創作は現実から抜け出す行為だ
ほとんどの時間、現実を生きていない
だからその速さに驚く、現実の速度についていけない
ずっとバイエルをやってる、三輪車をこいでる、補助用の輪っかがついたお箸でご飯を食べている。
でも対人間に夢をみるのはそろそろやめたほうがいいですね、つまり男性に。
わたしはもう見た目は大人なんやから、女性とはできる対話を できない男性に、自分が大人じゃないことをわかってもらうすべはない
この場合の男性というのは、男性全般のことではないです、つまり、わたしを女性として見る男性のことです
とかまあ映画『ファイトクラブ』をエンディング手前まで観て 30分くらい速めの速度で歩いたらいろいろ考えちゃった
暴力で言葉を奪ったり 物質社会に反抗したり 労働者が労働者って名前でなくてちゃんと名前があることを証明したかったはずなのにみんな集団に埋もれちゃったり
とか してて なんか 辛くなっちゃった
基本的になにかに触れるといっかい辛くなっちゃうの辛いな
ちゃっちゃちゃっちゃうるさ 背脂か
同じ言葉を喋れるという思考停止の安心
ね〜。