すぎさる

 

 

 

 

小説を書いている。

同時進行で二本。でも、どうしても自宅で書けないので困っている。

茶店か、カフェか、図書館に行かなければならないので、出費がかさむ。

なぜなら、喫茶店かカフェでのみならず、外に出ると必ず、お茶かコーヒーを飲むからだ。

 

飲み物が好きで、このあいだ同時にオレンジジュースとコーヒーとお茶を購入して車に置いていたら、数時間で暑さに、お茶がダメになった。

もったいな、という見方もできるが、わたしはひとつ、違う見方をしたい。

したいというかしている。

 

あのな、コーラを飲みたいと思うやろ。

でも、カンカンの350mlも、要らんやろ、なぜなら、一気飲みレベルでいかないとコーラは美味しないし、暑い夏の日どんどんぬるくなるし、200いけたとしても、150残すやろ。

それを、もったいないと言ってしまえば言ってしまえるが、自分は満足してるわけやろ。

 

せやから、もったいなくはないやん。10手に入れても、10堪能しないとと気負うと、なんかしんどいやん。

10手に入れても、3しか堪能せんくても、満足したならそれでええやろ。

 

とか、こういう考え方を披露したら、

アフリカでは一分間に60秒経っているのですよ、とかいう類の反論が浮かびそうなもんだが……。

 

ブルジョアジーなのだろうな。考え方が。

基本的にブルジョアジーだ。これはもう育ってきた環境に完全に依るから仕方ない。

 

だから別に捨てなくてもまあ惰性で摂取したらええよね。

お腹がいっぱいになって食べられない最後の一口を食道にねじ込んでまるでソーセージのごとく………生々し!

 

すべてを消費する。おかしも、ウインナーも、ポテチもコーラも、小説も映画も、ほとんどの、人間も。

齧って味わって お腹いっぱいになったり味が変わったりして味わいきれない部分はポイする。

 

気楽に行こう。

おやすみなさあい

 

関ジャニ∞のコンサートをみてきたよ

 

 

 

関ジャニ∞ 15周年ツアー、GR8ESTに行ってきました

すばる君はやっぱりいなくて、途中で出てくるんじゃないか、ゲストです〜とか言って歌ってくれるんじゃないかと思いながら観ていましたが、最後まで出てきてくれませんでした

 

それで帰りの電車で、関ジャニのアルバムを聴いて、そこにはすばる君は当たり前のようにいて、もう何が何だかわからんくなりますよ

 

すばる君という 歌の中心を、核のエネルギーを失った彼らの歌は正直、ファンでなければ聴いてられないほど、下手くそやったんですよ

そもそも、アイドルに歌唱力を求めるのか?という原点に立ち返ることも考えるほど、まとまりのない歌声を各々、キーを外して出していてガタガタで、すばる君がいたときにはうまく歌えてたメンバーも、まあ下手くそで

 

すばる君は 熱くて、盛んに、観客をあおったり、歌詞にないシャウトを多用したり、したんで、それでまあ観客も燃えるというか イエーとなるわけなんですが

その 盛り上がりどころも きょうは関ジャニもファンも捉えきれなくて、ぬるっと曲が続いたりして

 

でも 伸びしろや!と思ったわけですよわたしは。

今まで 慢心してた関ジャニ∞、そりゃあ毎回のコンサートが楽しくて面白くて歌うまくて最強で、企画とかも新しいのしていって常にファンを飽きさせない努力は すげえしてて、だから百点!だったけども、

やっぱり売れてるわけで、個人個人仕事あるわけで、そういう環境での コンサートやったんですよこないだまでは、でも今は

 

嫌でもみんな 歌をもっとうまくならないといけない、すばる君のいない分を埋めるほど、

あの圧倒的な歌唱力と存在感を、カバーしないといけないんだ!!

それで、新しく生まれ変わった一年目、2018年時点で、彼らはまったくすばる君の不在から立ち直っていない!!

それなのにコンサートをして、笑顔を見せるわけですよ!!!!

 

伸びしろしかない。

平均年齢30代半ばやのに、伸びしろしかないねんで!

最強やんそれ……

 

それで わたしは一応 安田担当なんですが

彼は最近 身体の調子を崩していて、万全ではないくせにいちばんの笑顔を見せて、なんて健気、儚げやし、

シャウトもいちばん彼が すばる君の代わりにやっていて、ほんまに胸にくるものがありましたよ!!

 

すばる君のいる関ジャニ∞とはまったく別もん、とも言えるし 延長、とも言えるし

そりゃあ すばる君がいてくれたならもっと最強やったけど もしかしたらどん詰まりでもあったんかなと思って、やっぱり、うん、辞めた理由をちょっとだけ、残された彼らを目にして、わかったような気がした。

 

それでも すばる君のいないことを 受け入れられたわけではないけどさ。

 

歌のクオリティ的には8000円の価値はなかったけど、これから先への第一歩を目の当たりにできたという点では、よかったコンサートだったな。

あとは、すばる君のパートをすばる君の真似をしなくても歌える彼らになって、すばる君と別なところで歌唱力をあげて、もっと最強になってくれたら…

そのときが来ても、過ぎても、たぶん見守り続けるやろう

 

 

おやすみなさあい

 

 

ワンナイトタイムスリップ

 

 

 

先日、中学の同級生と9年ぶりに遊んだよ。

わたしの中学は特殊で、併学、といって、女子校と男子校が同じ敷地内にあるような、一切男女の交わらない仕組みの、意味不明の制度を採用しておりまして

だから わたしは女子校育ちって言っても差し支えないんですよ

みなさん 女子校出身者と話したことがあればわかると思うんですけれども 特殊なんですよね彼女たちって、まあわたし含めかもしれないが

中高一貫の学校だったんだけどもわたしは、高校受験をして 驚愕かつ共学の公立高校に進んで、そこでの苦悩というのはたびたび披露していると思うんですけども

 

中学を卒業して以来 ずっと会っていなかった彼女たちと、遊んだらまあ、変わってなくて。すっげーーー安心してしまったというお話なんですよ、今日のお話は。

 

ユニーク かつ 完璧な 個人として 彼女たちは生存しており、この世の中で、自己を失わずに、ほとんど奇跡と思われるほど、中学生の頃のままで、優しく、我が強く、陽気で、共学の女子よりも男性的で。

彼女たちは 高校も内部進学したから、高校の頃の思い出も共有しているはずやのに、わたしのために、中学の楽しかったことごとを喋り、笑い、大いに笑い、高校時代の話が出れば、わかりやすいように、ときには学校のHPを参照して説明してくれ、決して置いていこうとしないんです、わたしは、行く前はめちゃくちゃ気後れしていて、彼女たちのような陽キャに、混ぜてもらっていいのかと、ほんとうに今思うと馬鹿みたいなのだが、恐縮していて。

 

中学生の頃の わたしを含む彼女たちに、インキャも陽キャもないのに。

一緒に重要な時代を過ごしたのに、勝手に恐縮するなんてほんとうに馬鹿馬鹿しいよな、そういう自信みたいなものを、確固たる自分を、あの素晴らしくお堅い学園に、置いてきてしまったのだわたしは。

 

 

ネクタイをぐるぐる巻いて短くするのが流行りだった、馬鹿げた重さの皮カバンの持ち手の片方だけを肩にかけるのが流行りだったためみんな持ち手をダメにした、しかしその流行に逆らった彼女のカバンは綺麗なままで、途中から導入されたリュックはダサくて誰も使わなかった、買い食い禁止なので 駅前のスタバに行くには先生がいないか見張りを立てる必要があった、「挨拶」を執拗にテストに出してきたネチネチした国語の先生、グラグラ不安定なみんな同士の友情、股を広げて椅子に座るのが当たり前の女の子たち、ああ…

 

失ったものを一夜だけ取り戻した、9年の月日を一瞬で逆行した、あの夜のわたしは、タイムスリップができた。

 

わたしを構成したのはまぎれもない彼女たちだった。1年8組の、2年7組の、3年7組の彼女たちみんながつくる雰囲気だった。

9年でジリジリ削られてきたあの頃の自信満々なわたし、存在することになんの躊躇もなく、誰かに不要とされることなんて微塵も恐れない、強い強い強いわたし。

 

残りカスみたいな自分でも愛そう。

さっきまであんなに青かった空が雲に覆われてねずみ色に変わりつつある。

なんだって変わるのだ。また戻ってくる可能性もぜんぜんなきにしもあらずさ。

 

おつかれさまあ

 

 

みんながすごい

 

 

 

言葉を持たないことに甘んじている。

難しい言葉に直面するたび「ほえ〜」と思うけれど、それを使うよりもヤサシイ言葉に言い換える作業の方が楽しい。

しかし 語彙を増やしたいとも表層ではたしかに思っているので、矛盾が生じてきてそこにしんどくなったりして。

 

知識を持たないことに甘んじている。

馬鹿であることは 楽やし 楽しい。知識を持ってなかったら、持っている人が教えてくれる。「はえ〜」と言って聞いていることの方が、説明するより断然楽しい。

だって説明するには 順序立てた筋書きが必要で、そういうの考えるのん苦手やし。

 

自分がカシコになったらどういう風やったかな。

昔は、勉強できたんですけど、中学生のころは。でも途中からなんか知らんけど怠けだして、ぜんぜん勉強せえへんくなって……

たぶんついていかれへんようになったから高校受験したんですかね。もう忘れてしもたなあ。

だから根はたぶん馬鹿ではないんやと思うんですけどね。勉強しないだけで。それこそ馬鹿であることに甘んじてるんです。

てかまあ周りから求められるわたしというのがカシコなわたしではないんかなみたいなとこもあったんですかね。今の自分がどう形成されたのか、あんまり覚えてないなあ……。

でもたぶん周りの印象が第一やったんやろうなあ、中学生のときとか高校生のときとか、だって世界は学内にしかないと思ってたもんね。

思わされてたんかな。世界が広いことなんて誰も教えてくれへんかった。自分が自分のままでいいなんて誰も教えてくれへんかった。

そんなん、自分で見つけ出すしかないんやろうけど。それで見つけたころには ありのままの自分がどこから生まれてきたのかなんて わからなくなっている。

 

環境に合わせて 都合のいいように受け取ったものごとに合わせて 感じることや考え方を変えてきたけど 変わる前にどうやったかなんていちいち覚えてられねー

今のわたしで出会った人たちが多くわたしの周りにいてくれてるから 今のわたしをゼンコーテーするわけですよ。するわけでしょう。みんなも。

 

みんな変わるじゃないですか。置いてかれた気分になるわ。みんな社会に順応していく。びっくりするわほんまに。

好き嫌いで判断せんのやね。やりたくないこともしやなあかんのやね。やりたいことも我慢すんのやね。すごすぎる。みんな大人っぽすぎるわ。

わたしなんて子どもみたいな白いTシャツを着て突っ立って駄々こねてるだけ。みんなちゃんと戦闘服着てる。わたしは未だに歩道の縁石に上ってしまうのにみんなまっすぐ歩けるんやもん。

 

 

 

 

 

 

カメラを止めるな!』、えらい話題になってますね。すごいね。興味あったんやけどテレビとかでえらく持ち上げるから観に行くの億劫になってしまった。胡散臭いやん、そういう選りすぐられた大きな意見って。

結局は マジョリティの流れを伺ってわざとそれに背くしかやり方がないんか?わたしは

しょーもない人間になりましたよほんまに。

観に行くか。みんなは行く?どう?感想言うたらあかんらしいね。わたしはまだ決めあぐねております。

 

おやすみなさあい

 

 

ネットも社会も うんち

 

 

 

 

顔の造形に恵まれない人にとってネットって毒でしかないですよね。

頭の回転が遅い人にとっても、童貞にとっても。

なにもかもが個性でしかないはずやのに それが圧倒的な欠点となってその人を襲うんやから。

 

顔がブサイクでもモテる人はたくさんいるし、ていうか「モテる」ということ自体人間が生きていく上でまったく必要ないことやのに さもそれがすごいみたいな風潮、え?ここはなに、サバンナですか?男一人にメスが群がってこそ、みたいなの日本社会で要らないじゃないですか。

一夫一妻制が生物が種を残すのに向いてるか否かは今は置いといて、この世の中で一人の伴侶に出会うことが 大半の人にとって大事なわけでしょ。

だから モテる必要なんてなくて、そしたら別に顔が良い必要だってないんですよ。

顔が良ければ 特別扱いしてもらえる場合も多いんでしょうけども、顔が悪くて得することはなくても損することだってそうそうないでしょ。顔が良い方がむしろ 得することも損することもありそうやし。

 

そやのに今の世の中、「結局は顔」とか「※ただしイケメンに限る」とか、なんでそんな風に自らの自信を自らの手で奪うかねえ。

そういう風潮がもう出来上がってしまってるから、今の若者たちはそれに飲まれてしまうんですよね。

いや仮にブサイクであることでモテない人がいたとして、現代以前においては ブサイクやからモテへんねんやな〜って自分で、自分の体験でもって、わかるわけじゃないですか。

でも現代の若者は違くて、「ブサイク=非モテ」っていう 通念がすでにあって、それに則って自ら 非モテに走るというか 甘んじて非モテであるというか……

 

だから別に、ネットがこんなに普及して、猫も杓子もアホも馬鹿も、ネット社会という共通の場所での法律が頭に入っていて、

だから なにもかも個性として許されなくて

「○○という人がいる」という一人の人の話のはずが「私の周りにもいます」「職場の人はこうこうこういう理由でそうでしたよ」とか、みんなの話に拡大していって、それで、個人なんてなくなっていってんですよね。

ネットがなければ 「こういう人がいる」っていう話は、その辺の輪の中のうちのたった一人を表すだけやったのに。

 

なにもかも さあ あのさあ

個人を見れば解決する話なんですよ。

社会とか言っておしなべて全員を画一化するから ぜんぶかみ合わずにややこしいことになるんでしょ。

みんな は 一人 がいないと成り立たないのに 一人 を見ることをできないんだよなあこの社会ではさあ。

 

とかいって自分もそうなんです だってそういう社会で育ったから。

まあベースが社会じゃなくて 自分なんですけどね。

わたしが辛いのにあの子は…とか わたしが曲げてるのにあの子は…とか、僻みばっかりですわ。ほんまに。

そういう風に自己が拡張してるのはかっこ悪いですね。わかってるんだけど 自分が液体化してでろでろと空気中へ霧散してゆきます、たすけてくり〜

 

社会のために 個人がある っていうならもうそれは死んでくれって感じですよ。

もう死んでくれ。泣かないために感情をなくすのか?考えないために脳みそをすっぽりくり抜いてしまうのか?

 

 

 

おやすみなさあい

 

大学生の着てるシャツ

 

 

 

「大学生の着てるシャツ」とネット検索するために打ったら お、これは好きな言葉だな、と思った。

案の定 大学生の(7)着てるシャツ(5)である。

 

ゴーシチゴー、ゴーシチゴーシチシチ、わたし日本人は五文字と七文字の組み合わせに歓びを感じますよね。

書いてて気持ちええし 読んでて気持ちええし 好きと思った文章は8割、五文字と七文字の組み合わせ。いやそこ5割か7割ちゃうんかい。

 

 

お、今彼氏が隣で 「ほえほほあほえん」と言ったので なんて? って聞いたら

「その言葉以外♪(って言った)」とキレ気味に答えてくれました ちなみに眠ってるんですけど

キレながら歌うなや と思いながら 続きを促したら顔をしかめやがった

急に言葉を発して 続きを促したらキレんなや。

 

 

 

まあ〜   のろけって不思議ですね。

わたしは基本的にのろけなくて 本人以外に「(彼氏のこと)めっちゃ好き!」とかをあんまり言わないんですけど だって恥ずかしいやないですか。本人に伝わってたらいいかなというかまあそんな感じでたぶん

家族のことを好きやと言うのが恥ずかしいのと同じ感覚なんですかね、彼は彼氏というよりきょうだいという方が近い存在なので

じっさい ちょっと妹に似てるとこもあったりして。妹がいなくなって 一緒にいなくなったわたしの8割を 取り戻すまでは言わないですけど 残りの2割にちょっと肉付けしてくれる的存在というか

いやそこ5割か7割ちゃうんかい。

 

 

まあいいじゃないですか。ね。そういう話はやめましょうよ。こっぱずかしいなあもう

 

今読んでる宮沢賢治の『注文の多い料理店』も若干 字余りながらシチゴーですね。いやいつ読んでんねん。文学部のくせに卒業間際になって宮沢賢治読んでるって相当遅れてるぞと、小学生のときに読んどけよというような気もするんですけど

面白いですね宮沢賢治、電車で読みながら一人でニヤニヤしたりして

まあわかりやすいものが好きなんですよねわたし。わかりにくいものとか 抽象的なものとかあんまり好きじゃなくて

絵とかも妙に隠喩を駆使したやつとか 史実や常識を当てはめて見やな意味わからんやつとか 好きくないしね。

直感やろなにごとも。はじめに好き、もしくは嫌いじゃない という印象を持たせないものは要らないからね。

こうして大事なものをぼろぼろと取り落としていくとしてもわたしはそれはそれなりの取捨選択やないかと思うわけよ。

その点宮沢賢治はわかりやすくていいよな、読んでて情景がありありと浮かぶんだもん、胸を張る山猫とか問いかけに応じる松林とか。

 

本の中には真実が書いてある、と思っている。その確信は本の中に救いを求め始めたころからより強くなった。

知っていたけど知らなかったこと 言語化されえないと思っていたもの、自然に目線を合わせて見える自然。そういうものが書いてある。そこにはフィクションもノンフィクションもない。作家がその筆で直に書いた文章、架空の物語も事実に基づいた伝記も その間に違いなんてない。

この言葉以外♪伝えることができない♪唯一無二の文章で世の中のほんとうのところをわかりやすく教えてくれる、ああ小説家ってなんて優しい人たちなんだろう。

 

 

おやすみなさあい

 

 

夏の思い出手を繋いで

 

 

 

 

ファミチキは6時間で廃棄されるらしい。

鶏肉、ただ切り裂かれて冷凍されて揚げられて捨てられてミンチ。

(情報提供は高校のときからの友達!ありがとうございました!)

 

 

な、あのさ、夏が嫌いだと思ってたけど 冬の方が好きだと思ってたけど夏が好きなやつとは話が合わないと思ってたけど

そんなことなかったわ、夏もぜんぜん冬よりむしろ詩的かもしれへんね。

カリフォルニアのヤシの木を見たからかな。なんてね〜最後の夏休みやから ちょっとセンチメンタルになっているのかもね。

 

でもまあ〜、夏はそれでもすべてを意味ありげにしてしまうマジックがあるわな。

昼の暑さと夜の涼しさの 差が 物足りなさを生むのかな、しかし冬には 人肌恋しくて寒くて震える。

熱帯夜とかクソやね。なんの風情もないよね。お昼間にどんだけ暑くたって夜が涼しければ許してあげるよ。

みんな 過ぎ去るときになってようやく 寂しそうな顔をして縋り付く

馬鹿なんだよな。

 

 

 

 

ゼミの教授と 友達と三人でおしゃべりしたよく晴れた日の午後にすべて満ち足りたのになにかを喫茶店に忘れてきたような気がしてそわそわしてしまう。

きっと 一人になった途端に自分が自分の元から違うどこかへ行ったんで 落ち着かないんでしょう。

 

先生をみていると こんな大人にはやくなりたいと思う。

「先生わたしはぜったい大人になんてなれません」と言ったら

「大人とか子どもとか難しく考えすぎなんだよ」と言われた。

そうなんやろうな。ほんまは2つの間に違いなんてなくて大人の基準がもしあるなら みんな、必要なときに必要とされる大人の顔をするだけ。

でもやっぱり先生をみたらこんな大人になりたいと思うし 自分はなれなさそうと思う。

 

 

 

 

何人かの人が「もっとちゃらんぽらんやと思ってた、ぜんぜん自分の考えをちゃんと持ってるやん!」とわたしについて思うらしい。

しかしじつはこの女、その逆である。

「馬鹿に見えてかしこに見えて馬鹿」なのである。だから人々に誤解を与えまくる。

事実、本能と感情とその場の空気に寄って生きている。思考なんてないに等しい。

馬鹿にはするな、でも、買いかぶるな、というのが世間へ言いたいことである。

わたしは評価になんて当てはまらないぜ。

 

 

 

日文の人たちはみんな優しいんだって先生言ってた。

みんな いろいろ しんどいバックボーンを持ってることが多いから。

人生に憂いがない人間に読書なんてする必要ないもんね。創作も、映画に没頭することも。

別の学部よりも 文学科は そういう暗い部分を共有しやすいから ちょっと異色なんかもと思うところもあるね。

まあ純粋に教養として 文学に関わろうとしてる人も たくさんいるやろうけど。なにごとも「ばっかり」ではないよね。

 

 

 

ばっかり で思い出したけど マイノリティなんてなくなればいいのにね。

個人個人を見れば、絶対評価をくだせば、マジョリティもマイノリティもないはずやのに、っていうこれはいつも言ってることやけど。

絶対評価しかすべきでないのに。社会なんてぶっ壊れろ!

 

 

じゃあね