鋸で切ったその断面

 

 

 

弟は覚えているだろうか。

 

私が17のとしのころ、夏はこんなに暑くはなかった。つまり人を殺してしまうほどには。蚊さえも狩りに行けないほどには。

本家はすこし田舎にあって、探検していない道は山ほどある。田んぼのあぜ道は急に終わり迷路になりうる。大きな家々の隙間に隠れた細い道は私を魅了する。

弟は私に手を引かれて、素直に手を引かれて、静かにしていた。5歳の男の子にしては言葉少なで、アクティブでない弟は、私の視線と関係のないところで つと指を突き出す、「あれ。ねこ。」「ほんとや、ねこやね。」

どこかで焚いている蚊取り線香の匂い、夏の終わり、姿の見えない風鈴、道端にツユクサの群れ、麦わら帽子に青いハーフパンツの弟の顔は高身長を持て余している私からは見えなかったろうに、どうして覚えているんだろうか、じっと猫を見つめる真剣な表情。黒目がちな目。柔らかいのが触らないでわかる、柔らかいほっぺた。ぎうと大きな私の手を強く握りしめた弟のふくふくした指、そのじっとりとした手のひら。はっと息を飲む。

ここはだめだよ

猫が言った。それは素人の英語通訳のように輪郭不確か、夕方の雲の色ほど概念的な言葉だった。言葉だったのかもわからない、でも猫が伝えようとすることは不思議なほど強くわかった。どこかの器官が呼応したのかもしれなかった。弟が私を見ていた。「戻ろう」、大人びて決然とした四文字。

振り返ると突然に日が暮れた。もしかしたら、気づいていないだけですでに暮れていたのかもしれなかった。どちらでもいい、そのことに、よかった、と私は思った。

怖くなかったのは弟の、熱の塊みたいな存在そのものが、私の手を握っていたからだろう。