かるとてきな

 

 

 

ゼミで、幼児誘拐の映画をみました。まだ前半だけ。幼児誘拐は中国の社会問題らしい、人権もクソもあったもんじゃないな。

前半しかみてないのに ぼろっぼろに泣いた。だって、友達が言ってて そうだなあと思ったんだけれど、「中国の社会問題である幼児誘拐」という文字やニュースでは絶対に伝わらない圧倒的なリアルが(映画は虚構であるにもかかわらず)そこにはあった。

悲しみ、やるせなさ、どうしてうちの子なのっていう虚無感、全部、痛いほどわかる。

そして、わたしが特に注目し、興味深く思ったのは、「子どもを誘拐された親達の会合」の存在だ。勇気付け合うのももちろん、お酒を飲んで楽しく過ごすのも、笑うのも泣くのも、日常生活では最早できなくなってしまったことすべて、その集団の中でならできる。逆に、その集団の中でしかできない。圧倒的な悲しみを受けた人は、同じ立場の人でしか自分を理解し得ないと思うからだ。他の人のことは、いくら優しくしてくれたって、突っぱねる、お前に理解できるわけがない!

これも本当にわかる、というかわたしにおいては共有できる人がいないし、多分できる場も探せばある(近親者を亡くした私たちの会…とか?笑)のだろうけど、決して参加しようとは思わない。共有したから何になるの?わたしが今回みた映画で一番 おえっ と思ったのは、誘拐された親達の会合のリーダーが「さあ、〇〇さんを応援しましょう、フレ!フレ!」だとか「さあ、手を繋いで悲しみを分かち合いましょう」だとか言って教祖じみた指揮をとっていたシーンだ。おえ。なんやそれ。きもちわる、でもその嫌悪の根底にあるものがなんなのかはわからない。

とにかく共有することなんて意味ないとわたしは思っている。したら楽なのだろうなとも。でも、やっぱり共有するとしても、相手はおんなじ 家族を亡くした人でしかあり得ない。同じ悲しみを受けた人。同じ気苦労を受けた人。

そこまで行かなくたって、上手くいっている家庭で育っていないわたしは、祖父祖母父母兄弟、みんな仲良し!という、上手くいっている家庭で育った人とは やっぱり違うなあ、と思う。そして、それは多分わたしだけではなくて、上手くいっていない家庭で育った人は、ほとんどそうだと思う。常にある負い目。それは好き嫌いや合う合わないではなくて、圧倒的に違うな、という、時に重大で時に些細なステイタスだ。

 

さて。世の中には「悲しい思いをした人ほど優しくなれる」という言葉がある。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」だとか、マイナスな経験を美化する言葉がごまんとある。

…??? である。

そんなわけないやろう。こういうことを言う人はきっと、本当に悲しい思いをしたことがないのだろうな。

悲しい思いをした人間は 苦しい思いをした人間は 相手にも同じ悲しみの 苦しみの 経験を求める。

小学二年生の頃 夜10時からのドラマを見せてもらえなかったわたしは、妹がその歳になったとき自分と一緒に夜10時からのドラマを見るのを許せないのである。

…それはまた違うか。

 

まあでもあれやんね やっぱり 子どもを誘拐された親達の会合が宗教じみてたのは、その集団が排他的で 狂気的だったからなのかなと思う。悲しみに耐えるために なんとかかんとかしのぐために 狂気的になるのは 当たり前の反応といえる。排他的になるのも、やっぱり仕方ないことやし。

他の人からみて 宗教じみてるかどうか、ましてやほんまに宗教にはまって 胡散臭く見えたりするかどうか、なんて関係ないもんね。なりふりかまってられへんし、、、

そういうのは ちょっとなあ、と思うか思わないか、どこで持ち直すか持ち直さないまま死ぬのか、それぞれの自由やしなあ

悲しみとか苦しみはそれを受けてない人とは共有不可能、でも同じ集団で普通に過ごしてるし。共有させようと強制したり わからんでしょ!って八つ当たりしたりするのは 見当違いやからしてはいけないし、、

じゃあ人々の負の感情はどこに行くんやろうなあ、、、

 

とにかくゼミでみる映画は全部きっつい!しんどいやつばっかり!それほど感動させられる映画ばかりやし、それを選ばはる先生がすごいんやけどさ!

ああ来週もキツイなあ、、、

おつかれさまあ

 

 

 

 

言葉

 

 

 

「僕らはいつも以心伝心♪」

「言葉などなくたって分かり合えるから♪」

 

などなど、「言葉で伝え合う必要のない絆が二人の間にはある」ことを讃える歌ってたくさんありますよね。

しかも、みんな それに憧れもする。だって魅力的、いちいち思ってることを言語化せんでも伝わるなら、そりゃあその方が効率的に決まってる!

 

でもさ、以心伝心なんて必要ですか?

言葉で伝え合うことを省くのってほんとに大事なんかなあ。

 

スポーツ⚽️🎾や 喧嘩🤜🤛には必要やと思う。どっちもまともにやったことないけど。

ダブルスで 味方の考えを読んで ボールを打ち返す!とか、喧嘩?闘争?で、味方に背中を預けてたたかうときとか(わたしは最近キングダムにはまっている)。

 

でも、通常時の人と人との二人の関係をつくっていくときに、言葉にしなくていいことなんてない。と思う。

"嫌い"は 言葉にしなくても伝わるけど、"好き"は伝わらない。感じ取ることができたとしても、大人になればなるほど人は臆病になるから、相手から染み出すプラスの気持ちなんて簡単に信じられない。

考え方だって 一人一人ほんまに違うんですよ。びっくりするほど違う。え、ここからこう思うの!?ってことは その人ときっと何年一緒にいてもたくさん出てくるやろうと思うわけで。

AということからBという印象を持つ人がいれば、Mという結果を導きだす人もいるしSという結論に至る人もいる。それらは、いくら一緒にいても完全には理解し合えないところにあるし、いくら近くにいても考えを擦り合わせていっても、言葉無しで伝わるわけがないじゃないですか。

人と人とが考えを場に出して理解し合うことまでに、効率化を持ち出したら終わりやと思うんですよ。

一緒にずっといたら、そりゃあパターンは見えてくるでしょう。でも、そのパターンは 冷静なときには見えてるけど、感情的になったら 自分とは違う思考回路で導き出されてるわけやから、想像できなくなるときだってあるじゃないですか。

違う人間っていうのはそういうことでしょ?そこが同じやったらたぶん、多くの人が言うように、面白くないんでしょう。

だから、自分の持ってるパターンとか 考え方とかを 根気よく言葉で伝えて、いついかなるときもそうであることをわかってもらわなきゃだめで、その過程は絶対に効率化できなくて、その上何十年という時間がかかると思うんですよね。

だって 人格の形成期である 最初の十年二十年を一緒に過ごしてない人間って未知やし。その遅れっていうのは、何十年も一緒に過ごさないと取り戻せないと思うんですよ。

で、その何十年だって ただ一緒にいるんじゃなく、ちゃんと言葉を尽くさないとだめやと

また、自分のことを理解してもらうっていうのはたぶん、それほど大変で、誰かと誰かが二人でずっといるっていうことには、でも不可欠なことやと思うんです。

 

じゃあ伝える手段ていうのは、言葉しかなくて、ってことは、言葉をきちんと使わなくてはならないですよね。

その努力を 面倒臭い、と感じるようなら その相手とはそこまでのことなんですよ。

考えてることを 上手く言語化できないなら、言語化できるまで待ってもらうなり それに似たたくさんの言葉を尽くして考えてることを遠回しにでも伝える努力をすべきだ。

そして、いくら正しいことを言っていても 話し方が高圧的やったり 感じの悪い感じやったら 相手には聞いてもらえないから、真摯に誠実に、清潔な心で 話すべきだ。

 

わたしにおいて、言葉は唯一絶対なので そう思いますけども

でも 言葉に頼りすぎてる部分ももしかしたらあるのかもしれない。

なにせ文学部に入るくらい 文章というものを愛しているので 人と人とが関わるときには絶対に言葉が正しくあるべきだと思う。

「べきだ」なんて他人に強要すべきではないんですけどね。

でもじゃあ言葉以外にどうやって伝えましょう。言葉を尽くしても人を安心させて信用させきってしまうのは難しいのに。

心は目に見えなくて何を考えてるのかわからなくて不安になるのは当たり前で、それをなんとか伝えようとするには言葉に頼らざるを得ないでしょ?

もし、それ以外に方法があるなら誰か教えてください。

でもそれを教えてくれるのも言葉でしょ、、、

うーん🤔

やっぱり、人間の文化自体が言葉に頼りきりすぎているのかな。

でも 言葉の裏に潜む意味や、本当の気持ちやが主役ですよね。それありき。

感覚だけで何かをやりとりし合う時代がくるのは、絶対に嫌だ。短くて意味のない言葉や、見た目ですぐわかる絵文字の氾濫。おえ。

 

 

おやすみなさあい

 

 

 

トマトのパスタのスパゲッティ

 

 

 

わたしの男の人における好きなタイプってのは

鼻が超高い 背が高い (無精)ヒゲが似合う 野球人体型 髪が短い ちょいぽちゃ

なんですけど そういう男の人って大抵 ちいちゃくて髪の毛の長い 細っこくて守りたくなる可愛らしい女の子…悪く言うとふっっっっっつーーーーの、女の子が好きなんですよね。知ってるんですわたしは。

で、ですよ わたしは身長が165cmもあるだけでなく 太っており、髪の毛は短く色も青やら緑やら金色やら ころころ変わると。

真反対なんですよね〜〜〜、、、なりたくてもなれないのです野球人体型に愛される女の子に。

今の自分を嫌いではないし、特にブスとも思わないどころか冬においては自分は比較的可愛くなるよな〜という高い自己評価を下しているわけではあるのですが やっぱり常に あるんですよ。

ふっっっっっつーーーーの、女の子に対する劣等感。

くるくるの茶髪を揺らし 甘いものを食べても太らず ふわふわしたスカートの似合う女の子。ふとした圧倒的な悲しみで精神を乱してしまわない、綺麗な心の女の子。店員さんを呼んでも気づいてもらえないようなか細い声の女の子。

なりたい、一回でいいから。コスプレ〜♪とか言ってロリータ趣味な服を着られる女の子になりたい。なりたい。なれない。

男の人より店員さん呼ぶの上手い。大抵一発で気づいてもらえる。

 

でもどうだろうか ふっっっっっつーーーーの女の子はもしかしたら わたしみたいな邪道女子になりたいと思うことがあるのかもしれない。

髪の毛を短くして金色に染めたいと思う時があるかも。パーカーをがばっと被って学校に行けたらなと思うかもしれない。店員さんを一発で呼べてしまいたいかもしれない。

それでも やっぱり野球人体型男性に愛されるのなら そんな不自由は切実だとは思えないな。わたしはね。野球人体型男性が好きだから。もしかして 変わり種女子好き男性に 普通女子が惚れてしまえば わたしみたいなもんに劣等感を抱くかもしれない。その思いは切実やろうな。

 

まあね。わたしみたいなんは 男の人にちやほやされにくいから やっぱり普通女子が羨ましいわな〜。

それでもわたしをわたしのままに 好きでいてくれる人だっていないとも言えない。通じ合ってしまえば 野球人体型だろうが サッカー人体型だろうが アメフト人体型だろうが 騎手体型だろうが 好きになれる。逆に 野球人体型であっても受け入れてもらえないなら 一緒にはいられないし。

人と人って上手くいかないもんだな。

 

でも そんなタイプとかなんとかを吹っ飛ばして人間的に好きなのが森山くんだ。関係の名前は変われど その気持ちは絶対に変わらないと言える。恋人というラベルを剥がしても好きでいられる。剥がしたからこそ限りなく一緒にいたいと思えるの、かも。

森山くんは日本人体型だ。身長もわたしと変わらない。脚の長さにおいてはわたしの方が何故か長い。でも野球は好きだから野球人なのかな。

 

みんなはどう?みんなのタイプを教えてよ

おやすみなさあい

 

 

 

かたまらない 性別のこと

 

 

 

 

男はどうなのか知らないけど 女という自覚って、女として見られてるんやな って思うことから生まれると思うんですよー。

わたしは 小学生の頃から 近所の公園に捨てられてたエロ本に女子で唯一群がったり、下ネタチェーンメールに興味津々やったりな馬鹿やったんですけど それが今のわたしを作ってるとは思うんですけどね

小学生の時の"エロい"って自分からは遠く離れたものだったんです。まさか、まさか身近にエロいがあるとは思ってなかったもの。まさか自分という存在の起源そのものにエロいが関係してるなんて!

そのままわたしね、大人になったんです。

中学生のときは女子校で周りには女の子しかおらずもちろん女としての自覚なんてゼロで。女子中学生同士で話す下ネタに現実感なんてなく。

高校生のときは先生への恋患い紛いで忙しくて、そんなんほんまの恋愛でもなんでもないし、先生はわたしを女としてみるわけもなく、もちろん馬鹿みたいに先生好きって喚くデブを女としてみる男の子もおらず、男友達もおらず。

それでやっと 今ですよ。大学生になりました。大学生の男女関係は大体がセフレと言うのは皆さんの知るところだと思うんですが(嘘です)まあなったじゃないですか。ね。大学生に。ちょっと頑張って痩せても、みるじゃないですか。そしたら、あれ??なんか、男の人に可愛いって言われる。そんなん言われたことなかったのに!みんな普通に言うんや…あれ?なんで言うんやろう?…は!そうか!わたしが女やからか!女に見られるようになったからか!

 

と。

男の人というのは女の子にぽこぽこ可愛いと言うものなんですね。わたしがめっちゃ言われる〜っていうエセ天然の自慢じゃないですよ!他の女の子達にもめっちゃ言ってる人の話ね!

それともわたしが出会った中にたまたまそういう人が多いのでしょうか。もちろん言わない人もいるけど。

わたしが女やから 多少ちやほやされるのか ということは 全然ちょっとじゃなく それなりに ショックでした。

今まで自分のこと 女やなんて思ったことなかった。なのに、ちょっと痩せたらやっぱりおしゃれしたくなって小学生時代以来のワンピースとか着ちゃって外に出たら わたしも女に見えるんや!

男友達と一緒にいて 「デート?」と聞かれることにも戸惑いました。え?なんでデート?あっそうかわたしって 人の恋愛対象に入るんや 男女の片方を担うような 女に見えるんや!笑

 

…可愛いと言われたり(もちろんお世辞で)女として見られることに慣れたら 女然として振る舞うようになってしまいました😫

なんて嫌な奴になったんだろうと ほんまにふと思うんですが、、 中学生だったわたし、高校生だったわたしに 顔向けできないですよほんとに。

でも、中学生や高校生の もっと言うとエロ本を公園のゴミ箱からふざけて発掘してた小学生の自分のままだったら 逆に怖いですもんね。

女としての自覚は 絶対どっかで生まれるし それが自分の場合大学生になってしばらくした秋のことで。

わたしの人生にとって男の人の存在というのは突然で圧倒的で驚異的で時に救いでもあるし絶望的でもあるんですが、一番言えるのは"特別だ"ということです。いつまでたっても慣れなくて、普通ではない。、情けないことに!

月並みな例えでいうと光があるから影がある、みたいなことで 男の人がいるから 自分は「女」になるんかなと(下ネタじゃないぜ)、対極の存在がいるから自分の所属を確認するんやな、と思いますね。

男の人が存在しない空間で初めて女の人は女の人という所属から解放されるのかなと思う。それは「普段から男のこと意識して(笑)」とかじゃなくてただ単に、んー例えばA中学の生徒、B中学の生徒という対立はそのどちらの集団も存在する場所だけであり得るじゃないですか。A中学の生徒だけの空間やったら、また別の分け方がされるじゃないですか、一年生二年生三年生とか。そういう意味での、女の人という所属って話です。それは男の人もそうやと思う。

男とか女とか 関係ないよ〜 って主張もあると思うけど その人にとっては関係なくても その人自体が男か女かどっちかで。でもそれが悲しいこととはわたしは思わなくて、女の私と男友達、男の俺と女友達、ででも全然友情って存在するやろうし、性別なんて関係ないってことはないけどその中で友情だって、うーんあると思っててなんかよくわかんなくなってきた!

とにかくだから 性的に男でも女でも異性と一緒にその人のままでいられるんやでっていう過去の自分への励まし?励ましでもないか…

まあね、一つ言えるのはやっぱりわたしは下ネタが好きなので全然面白くなくても下ネタやったら笑ってまいます。頭は小学生のまま。なんの話やねん。

 

 

 

 

追伸

バイトしている喫茶店でかかる有線が今日マンマミーアの歌たくさんかかって嬉しかったのでずっと歌いながら作業してた よ

 

 

 

 

おやすみなさあい

 

 

 

文学…とは?

 

 

今日の文学論(大学の講義)おもしろかったな〜今までで一番おもしろかったんですよ

 

 

未曾有の事態になると必ず 詩が詠まれるらしい。

 

日本史上初めて編まれた詩集が 市民一丸となって日本国を守るという意識を持たせるため、つまり戦争の道具やったわけで

文学はマインドコントロールの手段なんですよね。

だから 戦時中は市民を鼓舞して国のために死なせるために文学人に詩を書かせ、核で攻撃を受けたら 反核の詩を文学人は書くんです、それらは純粋な叫びであるから市民は 正しく賛同する。

 

東日本大地震のときも 福島に住んでる詩人が 迅速に しかも現代的にtwitterで 140字以内の詩をたくさん書いて(打って?)発信した。直感のままに文字を打って人々に短い詩をたくさん届けた。やっぱり 自然災害という圧倒的なものを前には日本人は魂の言葉として詩を使って発信するっていうのは、SNS時代の今も変わらんのやなあと感心するわけですが

その なんていうか キャッチーな、時に数十文字の、悲痛で純粋な叫びっていうのは みんな賛同せざるを得ないじゃないですか。入って来やすいし馬鹿でもわかるし題材が題材やし。

別にフォロワー数を増やすために 地震を被災を別れを詩にするわけではないから、まったくの純粋な詩人としての使命百パーセントでtwitterに、その詩人は、投稿して。

それを絶対にわたし達は否定できずに 全部丸呑みに肯定して感動させられる。全員が絶対に頷くしかないもの。

それが文学のめちゃめちゃ危険なところなんですって。そういう 目立った直感的な絶対に否定できないもの、受け入れざるを得ない力が働くから。

 

めちゃめちゃ面白いなあと思って、だってこの世の中、知名度のある 社会に影響のある 人が最もらしいことを言えば絶対にある程度の人数がついてくるし twitterやってたらわかるやん、ほんまにジャンキーに文字を摂取してるなあって思いませんか?

わかりやすい意見や 感情やを バリボリろくに噛まず飲み下してる感じがいつもとてもする。

言葉にできない部分は言葉にされないままみんなにわかるように短い文章で書かれる詩は本当に詩なのかと。

それらを打ち込んで実際に世の中に発信するまでの間に その文章は本当に吟味されたのか?と。

そもそもがtwitterの使い方として直感的な発信をすることが正しい。

そんなツールに、人々の否定を許さないような文章を投稿してもいいのか?

圧倒的な悲しみや苦しみや自然の脅威を、そんな感覚だけで人に訴えてしまってもいいのか?

と、考えさせられましたね。

 

大体がでもこのブログだっていっつも直感で文字を打ってるわけで脳みその投影でしかないわけですから 文学ではないわけです。

言葉を辞書的な意味のまま使って並べてどこにでもあるような月並みな主張をするオリジナリティのかけらもない。

でもねわたし 詩って苦手なんですよね〜。誰にでも理解できるように作られていない、誰かにわかればよい表現、辞書的な意味から離れたところで使われる言葉は魅力的やけど。

そんなん自己満やん!って思ってまう自分がおるわけですよ。

 

文学は美しさ?

その人にしかできない言葉の組み合わせで世界を作る。

小説が高尚な文学ではないことはわたしにもわかる。

でもじゃあ詩と純文学小説とは何が違うんやろう?

 

 

 

大抵の利器は戦争から生まれますが

文学もまた戦争と切り離せない場所で育って来たのだと思うと脱力してしまいます。

言葉を使ってしか話せないし書けないし読めないのやから、仕方ないことなのでしょうけど。

 

おやすみなさあい

 

 

 

彼氏が風邪をひくと必ず貰ってしまうという話

 

 

 

わたしは 精神的にはめちゃめちゃ弱い でも身体はわりと強い、ただし胃腸は弱い。

森山くんは 精神的にはそんな弱くない でも身体がめちゃめちゃに弱い。しょっちゅう風邪をひく。

 

わたしは 風邪なんてひかないから 風邪をひいてても森山くんと普段の距離で一緒にいる。

今回もそうだった。でもやっと気づいた、毎回高い確率で 風邪をもらってることに。

森山くんが治りかけるタイミングでわたしも風邪をひく。

でも、森山くんが治りきる前にわたしが治る。

森山くんが治すのに1週間かける風邪をわたしは2日で消費してしまう。

 

風邪をひくことは わたしにとって苦ではない。一緒にいれないことの方がよっぽど苦だと思う。

それに、風邪をひくとみんなが優しくしてくれるでしょう。ママンがお粥を作ってくれたり 森山くんがポカリを買って来てくれたり(一緒にふせっている確率の方が高いので滅多にないけど)するのは嬉しい。

 

風邪やインフルエンザで、単純に子どもの頃を思い出すのはわたしだけですか?

小さい時は病気をすると素直にずっと眠って。ふと夕方に目覚めた時の心細さったらなくて、でも階下に降りたら母と妹は普通にテレビ見てて。

詰まってて効かない鼻と ぼーっとする頭に冷えピタ。

おはよう、大丈夫?お腹すいた?って聞いてくれる母。冷えピタの上から頭を触って熱があるか確かめて、熱はないね!お粥食べる?って…

でも、妹にうつるからマスクしなさいってちょっと厳しく言われたり

 

今では 熱があるかないかなんて自分でわかるし、風邪をひきそうになったら風邪薬を事前に飲むこともできるし、眠らないとだめやのにずっとケータイ触ったり本を読んだりで それで怒られないやり方も知ってて

寂しいんだよな〜〜〜〜〜〜

独立なんてまったくしてない親離れのできないわたしやけど 確実に昔よりは一人で判断して行動することは増えてるし 寂しいよな〜

時間って進むことを心から求めてないのにどうして止まってくれへんのやろ

 

結局いつも昔に戻りたい話になる。

悲しいなあ

お粥ってそんなに美味しいものではないのにたまに食べるとごっつ美味しない?

このところ自分のためだけにお料理をして一人でお部屋で 美味しっ!やばっ! と叫んでもくもくと食べる生活が続いてて寂しい。

美味しいものを食べても 「でも、一人じゃなあ……」となるのは美味しいものに対してもとても失礼だ。

早く大学を卒業してママンと暮らさねば。

 

よく、「70くらいの母親と50くらいの娘の二人暮らし」という字面を見て 微妙な気持ちになっていたけど 今では それもいいやん全然それでわたしは幸せよ と思える。

母の方から多分願い下げやろうけど。笑

授業で 人生の折れ線グラフ的なやつを書かされて 一人で受ける授業なので思うまま書いてみると、2年前の圧倒的マイナスから死ぬ予定の70歳までなだらかにプラスマイナスゼロに向かう表になって 自分で引いた。

わたしの人生これから幸せ満杯のプラス軸になることってないんかあ ってさ

 

風邪の話からまた飛躍したぜ 鳥人かわたしは

笑い飯のネタで一番好きやったのは鳥人でした。

明日は9時に起きねばなりません。6時間睡眠はわたしには足りません。

頑張るぞ。

頑張るぞと書いてみたけどそんなこと思ってなかった。

おやすみなさあい

 

 

 

 

ココットの中のカスタード

 

 

 

彼氏の、自分の一個前の彼女が五年とか十年モノやったら どう思いますか?

 

わたしは 嫌やなあ だって 絶対に何もかもで比べられるやろうし。

一年とか二年とかなら、すぐに忘れそうな小さな癖とか習慣や言い回しでも 五年とか十年とか積み重ねたものはそう簡単に失くしてしまえないもの。

 

でもそれは わたしに 五年とか十年も人と付き合った経験がないからなのだと思う。

2ちゃんねらー処女厨が多いのは まさしく2ちゃんねらーの童貞率が高いからだと考えられるのと同じように。

自分に過去があるからこそ、「彼にも過去があって、それは私達の間には関係がない」なんて言えるのだ。

 

人なんて狭量だ。自分に許せることしか相手に許せない。

苦労した人間は 相手にも自分と同じだけの苦労を求めるらしい。

身をもって納得できる。わたしは不幸だからみんな不幸になればよいと思う。

自分の経験した内でしか物事が測れないのは当たり前のことだ。幸せな人間には相手が幸せでないことなんて想像もつかない。やっぱり知らないことは、良いことだと思う。

 

 

 

 

 

 

わたしにとって ケータイ(ガラケー世代なのでスマホをケータイと呼ぶのは相応しくないとわかっててもこの端末をケータイと呼ばないと気が済まない!)は小銃。

汚い、攻撃的な、言葉をバンバンネット社会に、彼氏に、撃ち出す凶器だ。

こんなもの、ブルーライトは出しよるし、繋がりがかえって孤独を際立たせて寂しいし、害でしかない。

それやのにこの持ち重りのする大きいのか小さいのかわからない機械を手放すわけにはいかない。

とにかく現世に依存しなければ。思考の海で記憶も、大切なものもそうでないものも一緒くたに輪郭を失ってドロドロと漂っている。

見えないものは見えないままでいいのに。変に可視化されてしまって見るべきでないものまで見てしまう。それも気味の悪いことに自ら選択した形で。

 

何もかも隠して生きていけたならいいのに。

誰も何も晒さずに。

知る必要なんてないのに、なんで好奇心や知識欲や 無駄なものが備わってるんや。

一緒に時間を過ごすのに、相手の家族構成を知ることは必要ないし、内面の激しさも、理解を求める寂しさも、知る必要ない。

だからやっぱり、何にも依存せず健康ですよという顔をして平気で外を歩く方が異常やねん。

こんなにみんな 病んでるのに。

 

 

 

 

今日は二部制でお送りしました。

途中に行間を開けたからいつもより話題転換がわかりやすくなってる気がします。

また、朝です。五時半です。わたしは一睡もしていません。

眠るために流していた映画版シャーロックホームズに、もう五回くらい観たことがあるというのに見入っていたせいでしょうか。

はたまた人と会話しなかった(正確にはウォーキング中チャリンコを転倒させたお婆さんの散歩していた猫が逃げ出したのでそのリードを走って捕まえてお婆さんにお礼を言われていいえとかなんとか言った)からでしょうか。

どっちでもいいから 眠いし寝たいわ。

ブルーライト、この、クソが。

おやすみなさあい