かるとてきな

 

 

 

ゼミで、幼児誘拐の映画をみました。まだ前半だけ。幼児誘拐は中国の社会問題らしい、人権もクソもあったもんじゃないな。

前半しかみてないのに ぼろっぼろに泣いた。だって、友達が言ってて そうだなあと思ったんだけれど、「中国の社会問題である幼児誘拐」という文字やニュースでは絶対に伝わらない圧倒的なリアルが(映画は虚構であるにもかかわらず)そこにはあった。

悲しみ、やるせなさ、どうしてうちの子なのっていう虚無感、全部、痛いほどわかる。

そして、わたしが特に注目し、興味深く思ったのは、「子どもを誘拐された親達の会合」の存在だ。勇気付け合うのももちろん、お酒を飲んで楽しく過ごすのも、笑うのも泣くのも、日常生活では最早できなくなってしまったことすべて、その集団の中でならできる。逆に、その集団の中でしかできない。圧倒的な悲しみを受けた人は、同じ立場の人でしか自分を理解し得ないと思うからだ。他の人のことは、いくら優しくしてくれたって、突っぱねる、お前に理解できるわけがない!

これも本当にわかる、というかわたしにおいては共有できる人がいないし、多分できる場も探せばある(近親者を亡くした私たちの会…とか?笑)のだろうけど、決して参加しようとは思わない。共有したから何になるの?わたしが今回みた映画で一番 おえっ と思ったのは、誘拐された親達の会合のリーダーが「さあ、〇〇さんを応援しましょう、フレ!フレ!」だとか「さあ、手を繋いで悲しみを分かち合いましょう」だとか言って教祖じみた指揮をとっていたシーンだ。おえ。なんやそれ。きもちわる、でもその嫌悪の根底にあるものがなんなのかはわからない。

とにかく共有することなんて意味ないとわたしは思っている。したら楽なのだろうなとも。でも、やっぱり共有するとしても、相手はおんなじ 家族を亡くした人でしかあり得ない。同じ悲しみを受けた人。同じ気苦労を受けた人。

そこまで行かなくたって、上手くいっている家庭で育っていないわたしは、祖父祖母父母兄弟、みんな仲良し!という、上手くいっている家庭で育った人とは やっぱり違うなあ、と思う。そして、それは多分わたしだけではなくて、上手くいっていない家庭で育った人は、ほとんどそうだと思う。常にある負い目。それは好き嫌いや合う合わないではなくて、圧倒的に違うな、という、時に重大で時に些細なステイタスだ。

 

さて。世の中には「悲しい思いをした人ほど優しくなれる」という言葉がある。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」だとか、マイナスな経験を美化する言葉がごまんとある。

…??? である。

そんなわけないやろう。こういうことを言う人はきっと、本当に悲しい思いをしたことがないのだろうな。

悲しい思いをした人間は 苦しい思いをした人間は 相手にも同じ悲しみの 苦しみの 経験を求める。

小学二年生の頃 夜10時からのドラマを見せてもらえなかったわたしは、妹がその歳になったとき自分と一緒に夜10時からのドラマを見るのを許せないのである。

…それはまた違うか。

 

まあでもあれやんね やっぱり 子どもを誘拐された親達の会合が宗教じみてたのは、その集団が排他的で 狂気的だったからなのかなと思う。悲しみに耐えるために なんとかかんとかしのぐために 狂気的になるのは 当たり前の反応といえる。排他的になるのも、やっぱり仕方ないことやし。

他の人からみて 宗教じみてるかどうか、ましてやほんまに宗教にはまって 胡散臭く見えたりするかどうか、なんて関係ないもんね。なりふりかまってられへんし、、、

そういうのは ちょっとなあ、と思うか思わないか、どこで持ち直すか持ち直さないまま死ぬのか、それぞれの自由やしなあ

悲しみとか苦しみはそれを受けてない人とは共有不可能、でも同じ集団で普通に過ごしてるし。共有させようと強制したり わからんでしょ!って八つ当たりしたりするのは 見当違いやからしてはいけないし、、

じゃあ人々の負の感情はどこに行くんやろうなあ、、、

 

とにかくゼミでみる映画は全部きっつい!しんどいやつばっかり!それほど感動させられる映画ばかりやし、それを選ばはる先生がすごいんやけどさ!

ああ来週もキツイなあ、、、

おつかれさまあ