妄想のはなし

 

 

 

 

 

例えば

今日みたいに半端にあったかい日じゃなくて こないだのシャレにならない寒さの日の、夜

バイク飛ばしてうちに来てくれよ

あ、でも、サプライズとかはやめてほしい

わたしは自分のペースを乱されるの嫌いなので

 

例えば

珍しくクッキーなんて焼いたら目を輝かせて喜んでくれよ

些細なことでめちゃくちゃに頭撫でくりまわして

あ、でも、演技はやめてね 悲しくなるので

 

などなど妄想。

空想の人にして欲しいことならいくらでも、あるな。

 

例えば

泣きたい夜には理由を聞かずに黙ってとなりにいてくれよ

そしてなんか悲しいことがあったら全部わたしに言ってくれ おまけに悲しい過去の話も聞いて欲しいしして欲しい

 

例えば

わたしが不当な目に合えば全力で馬鹿みたいに怒ってくれよ

それがもし不当でなくてもわたしが虐げられたり怒られたら 相手にキレてくれよ

 

最近忘れていたけど元来わたしは妄想好きだったのだ。

日常生活で妄想をしないからか実にたくさんの夢を見る…

脳みそが均衡を保とうとしてやがるのかな。

 

 

 

 

あのさ

バイト先の喫茶店

いろんな老人がくるよ

その中で一番 満たされた顔をしてるババアはゆで卵を店員に剥かせるジジイの連れなんだけどさ

いつも二人のくせに四人座席につきやがる それだけじゃなくて 隣同士で座りやがるんだ

そんで ジジイは 「頼むもんぐらい決めとけよ」とかなんとかババアを虐げやがるんだ

でも そのババアが客の中で一番幸せそうな顔してやがるんだよ。

 

ああこれかと思ったよわたしは。

以前書いた江國香織の「紅茶に添えられた角砂糖」に、大人になってもなれる方法。

無条件に愛されるしかない。だれか一人の男に完全に愛されるしかない。

存在するだけで存在を全肯定してくれる人間は、大人になったら、男の人しかいないんだと思ったよ。

教えてくれてありがとうわたしはこれからもジジイのためにババアの代わりにゆで卵の殻、剥き続けてやるからね。

 

 

角砂糖になりたいけどきっとなれないわたしはいよいよ手に職を持たなければならない。

そしたら一人で満たされた気持ちで一人きりの部屋で角砂糖になれる。

 

おやすみなさあい

 

 

 

リスペクト

 

 

 

 

クリープハイプが好きなんですけど。

さんざっぱら言ってるのでいい加減覚えて欲しいのが、わたし、好きなアーティストがクリープハイプケツメイシNICO Touches the Wallsで、好きなアーティストというのの定義はこの場合 曲の全部が大体好き、という感じで考えて欲しいんですけどまあ

この3つをずーっと延々高校生の頃からローテで聴いてるわけですよ。

そのクリープハイプの、世界観の、言うことが全部もういちいちわかって嫌すぎる。嫌になるぐらい的を射てるもんで嫌になる。

 

その最たるものが

『百八円の恋』の中の「どうして うまくできないんだろう」っていうフレーズ

めちゃ短くて 引用するほどでもない、と、思うやん?

でも ほんま 切実やねんやぁ!

「うまくできる」って 普通何かをやるときの言葉じゃないですか。「うまく〇〇できますように」とかなにかを、作ったり演じたりうまいことできたぞ、という ときの 言葉で

でも 「どうしてうまくできないんだろう」は もっと切実で全部のことに対して使ってる言葉で、一見抽象的に見えて逆にめちゃくちゃ具体的な言葉なんですよ。

どうしてうまくできないんだろうって聞くたび心臓ぎゅんってなりますよ。どうしてうまくできないんだろう?どうしてわたしはうまくできないんですか?辛い

とかいろいろ言いながら『百円の恋』観てないんですけどね。

 

他にも、「ちゃんとする」とか「きちんとする」とか抽象的になはずなのに全部のことを指しすぎて嫌に具体的で鋭利な言葉。

どうしてうまくできないんだろう。どうしてちゃんとできないんだろう。どうしてきちんとできないんだろう。

わたしが常日頃思ってることで 同時に 考えないようにしてることだ。

「どうしてうまくできないんだろう」「いや、別にうまくやる必要なんでないし」「ちゃんとしろって、言われるけど、ちゃんとできないんやもん」「うまくできるように生まれてきてない」「みんなの標準装備はずるいなあ」

いっつもそう思ってるよ。

じゃあうまくやるってのはどういうことかというと 例えばちゃんと人と仲良くできること、例えば目上の人に反抗的な態度をとらないこと、例えば大事にすべき人をちゃんと大事にすること…

みんなが生きてて普通にできることたちで、でもそのみんなが誰を指すのかなんてわかんないんやけど。

でもたしかに いちいちが全部みんなが普通にうまくやってることだ。

少しできなかったり たまにできなかったりするんだったらなんとも思わないけど 恒常的にできないのだ。

だから行き着く先は「どうしてうまくできないんだろう」「クソだな」なわけですよ。なんか増えた。

 

もしみんながうまくやってるふりをしてるだけならその強さが欲しい。

うまくできてないのにうまくできてるように見せられる強さはすげー羨ましいよ。

 

それだからもう誰かと比べないためには一人でいるか家族としかいないかしかするしかないわけなんだけどそれもできなくてでも一人は本当に静かで楽だ。

なんでも自分の思い通りになる 四肢を脳みそが支配しているように自分の周りの物事が自分の支配下に完全に下るのだ。

時間さえ。

こーんなに一人は居心地がいいのにどうして一人で生きられないんだろう。

誰かと居たいはずなのに結局は自分一人が居心地いいから誰かといても自分のことばっかりなんだよな。誰がどんな目に合おうとわたしには関係がないんだ。と切り捨ててしまえる酷い奴だわたしは。

そんなこと言ってしまいたくないのに。うまくやりたい。うまくやれる人ならば、もし自分のことしか考えてなくてもそれをおくびにもださへんでしょ?

あーうまくやりたい。でもほんまはうまくできるようになりたくない、そんな人間をほんとは嫌悪しているのだ。

 

あー生きるってクソだな。クソ、クソ、クソ

おやすみなさあい

 

 

 

うちのじゃじゃ馬ちゃん

 

 

 

紅茶の匂いがする。ケーキを焼いているからだ。もうすぐ焼きあがる。

実家の犬が死んだ。飼い主は祖母で、だから祖母と同居し始めた頃にうちにやってきたわけだからなんとなくうちんちの犬という認識は少なかった。何しろ、元々うちで飼っていたヒナちゃんという犬が死んでそう時間が経っていなかったからだ、彼女がうちに来たのは。

それでも思い出は多い。じゃじゃ馬ちゃんであった彼女はペットショップで売れ残っていた。だいぶ大きくなって値引きされたコーギー。遊んで遊んでというようにケージの中で跳ね回る。わたしも妹もその姿を好きになってそれで祖母の家に迎え入れられた。名前は当時好きだった漫画の登場人物から ハルにした。わたし達がつけたのだ。

散歩に行けば首輪が締まって息も絶え絶えになるほどぐいぐい引っ張る、家の中で離せば毛を撒き散らして走り回る、ハルがご飯を食べている時にうっかり触りでもすれば牙を剥きグルグルと低い声で威嚇した。健在だったうちのヒナちゃんとは犬同士ながら犬猿の仲で、おとなしいヒナちゃんはいつも圧倒され時に噛まれた。とにかくパワフルだった。笑ってしまうくらい元気な犬だった。

そんな彼女がだんだん年老いていく様からわたしは目をそらした。もう誰かが死ぬのは、明らかに死の匂いを濃くしていくのは見たくなかった。元気じゃなくなっていくハル、よぼよぼのハルを全然見たくなかった。

突然倒れてそれから二日で死んでしまった。祖母はまったく彼女を気にせずそれどころか病院にさえ連れて行こうとしなかった。母が手配も全部した。検査なんてするなという祖母の声を無視して倒れた理由がわかるまで検査をお願いした。もちろん、汚い話だがお金もびた一文祖母は払わない。埋葬代さえ。

まあそれはいつものことだからあれなのだけれど、わたしは一生祖母の振る舞いを忘れない。憎しみというのは悲しい。嫌いになんてなりたくないのにどうしようもない人間というのは絶対にどうしようもないのだ。

話が逸れたけれど ハルちゃんは倒れる前から臓器が悪くなり腸が働きを止めていたらしい。それなのに普通に散歩に連れられ普通にご飯を食べたらしい。どうして強がってしまったのか、それは、あんまり構ってもらえていないことをわかっていたからだろうか。

犬は飼い主を選べないし生き方も選べない食べるものでさえ選べない。悲しい家庭に来てしまった彼女は多分不幸だったのだろう。

かくいうわたしも彼女の死によって妹との共有物がまたいなくなってしまったと思った。一番にではなくても、二番目か三番目くらいにそう思った。

ごめんねハルちゃんでも好きだったよ。

 

死というのは本当に、そこで生きていることと同じくらいのいやそれよりも大きな存在感を持っている。

その人が、その存在が、いないということがずっと続く。空白が途方もない切実さでずっと存在する。

死に対していろんな考え方があるだろうけどわたしは、死んでしまった人やペットに対して「置いていかれた」とは感じない。それよりもむしろ「置いていってしまう」と感じる。

わたしにだけ未来がある。わたしだけ成長する。彼 彼女らの世界は過去にあって、一緒にはこっちに来てくれない。みんなに囲まれた過去はもう二度と手に入らないし、幸せだったのは過去の話だ。

まあ、そんなことを言ってもどうにもならない。どうにもならないのに生きてるわたしは生きなくてはいけない。

また新たにハルちゃんを今日という日に置き去りにして。

ごめんね。

 

 ケーキが焼けた。粗熱をとってから型を外そう。まだ熱いのを一切れ切って食べよう。

誰も一緒に食べてくれないから一人で美味しいって言おう。

 

 

普通とか多数派とかとか

 

 

 

 

 

🎍あけましておめでとうございます🎍

みなさん初詣行きましたか?おみくじの結果はどうやった?

内容なんて毎年そんな覚えててないから別にいいんやけどさ。

わたしは 浅草寺でひいた分が末吉、地元の最寄りのお寺でひいた分が末小吉でした。

は?

なんやねん末小吉て初めて見たわ。末吉が一番凶に近いと思ってたけど末のさらに小やから末吉よりも悪いんですかね。限りなく凶に近いかろうじて吉がつくだけの、もういっそ殺してくれよっていう、首の皮一枚、みたいな、いや首の皮一枚って、もしかしたら首 ぶら下がってるかもしれんけどそれもう死んでるからねみたいな、感じで

しかもなんやねん地元帰ったらより悪なってるやないか。

これを機に東京進出したろかなと思うわけなんですが

就活の年やのに縁起悪いなあ。

とか言って縁起なんて別に、気にする人間ではないんですけど。

 

 

ところで今日喋りたいのは〜、あの〜、「同性愛は普通なことなんです」って言うじゃないですか。誰が言ってたんか忘れたけど聞いたことあってそういう言葉を、

でも、普通ではないですよねと思うんですよ

男は女に、女は男に欲情して恋愛するのがなんと言っても本能としては普通で、それ以外の形はやっぱり普通ではないじゃないですか。そやし昔より数として増えたといっても少数派であることには変わりないし。

でもじゃあ普通じゃないとダメなんですか?っていう問いに対して初めて「いいえ」なわけで、そこが人権侵害かどうかやと思うんですよ。

普通じゃないからっていじめたり迫害したらダメで、だから同性愛が普通かどうかなんて関係ない。

目指すのは「同性愛者を差別しない社会」ではなくて「普通でない人を排斥しない社会」やと思うんです。

なんかよく「私は同性愛に理解ありますよ〜」 みたいな人がいるけど、そんなこと公言する必要ってあんのかな〜と思ってまう、だってそゆのって例えば友達になって後から知ってもそれに対して「ふーんそうなんや〜」で済まされるかどうかじゃない?

ほんでほんまの友達やったら、ロリコンでも同性愛者でも異常性癖保持者でも、友達やんって思って〜

だからそういう宣言って興味津々なだけじゃないの?ってちょっと性格悪いので思わざるを得なかったりする、でもどうなんやろうそれは異性愛者のわたしやから思うことなんかな?

何事も当事者にしか見えないことがあり、部外者にしか見えないことがある。

 

 

でも戦国時代とかって 男同士の恋愛こそほんまの恋愛やったらしいじゃないですか。

女とは半強制的に結婚させられてそこに別に愛があるわけでもないし生殖でしかない、でも男との恋愛にはなんの損得も人間の本能もないから純な愛だという、

それいいやん〜って思いますね〜。

だって同性愛ってゴールも保証も社会的なあれもない、「一緒にいましょうね」っていう口約束だけで一緒にいるしかなくて、それは当事者にとったら寂しいことなんかもしれへんけど、わたしは少し羨ましい。

決まりの外で、普通の外で、二人だけでいられるなんて!

純粋な愛っていうのもわかるやん?

 

 

 

なんかな〜、差別差別って言うけど

その人のことを他の人と比べずにそのまま一人の人間として見たら、差別なんて考え出てけーへんと思うんやけどな。

多数派と少数派、今まで見てきたものでこっちの方が多い少ないっては絶対あるけど、少ない方に出会ったからと言って おかしい! って言うのは絶対違うやん。

 

わたしは噂話が好きやから、少数派の人たち(例えば顔にめっちゃピアス空いてる人とか日本人やのにドレッドヘアの人とか)見るとすぐ噂するんやけど、いやそれが性格のよろしくない習性ってことはわかってますよ、でもそれによって誰かを貶めようとか嫌な気持ちにさせようとか思ったことはなくて、でもまあだからといって誰かを傷つけてない保証なんてないんですけどね…。

でも他人に興味のない社会になってしまったら それはそれで終わりじゃないですか。

周りを見てるから ハンカチ落としたひとに声をかけれるわけで。

 

なんか、悪意のない社会になればいいのになあって思います。

誰も 誰かとすれ違うだけで嫌な気持ちになることがない社会に。

ほんとに街に出れば一回は嫌な気分にさせられるからなあ。

老害が消えたらマシになるんかなあ。

 みんなどう思う?また教えてよ。

 

ではでは

おやすみなさあい

 

 

 

2017-2018

 

 

 

2017年が去らんとしている。

まあ言ってしまえば 明日は明日、今日の次の日なだけで12月31日から1月1日に歴がリセットされるだけなんやけど何かと節目をつけたがるわけやからまあとりあえず今年は終わりなわけですよ。

そんで明日からまた新しく平成30年が始まるわけですよ。

それで、2017年にお世話になった人にありがとうございましたとか、言って

だからあれでしょ。理由がなかったらなんにもなんも伝えられないわけですよ。

誕生日じゃなかったら プレゼントもあげられへんし バレンタインじゃなかったら 愛も伝えられないわけですよ。

一年が終わるって時やないと感謝も伝えられないわけですよ。

 

みんな、伝えていこう。日々。

そんで 今年終わるよっていうあれがないと言えへんような 貯めて貯めて言うようなことはやめよう。

毎日コツコツ復習してる人は、テスト前に一夜漬けせんでもいいじゃないですか。毎日お掃除してる人は大掃除しなくてもいいじゃないですか。そういうことですよ。

 

まあそういうことではないんですけど

 

今年もお世話になりました。

どうだったですか みなさんにとってこの一年はどんな年だったですか?

一言で言えとか一文字で表せとか言うつもりも言われるつもりもないんですけど どんな感じやった?

わたしは結構上々やったんやないかなあと思います。12月初めから徐々に思い始めました。今年はなかなかよかったと言えるんやないかな〜と。

何がって別にないんやけど 何もないから穏やかな毎日を過ごせたんかなあ

いや 別に気性が穏やかやったとは言ってないですよ。

まあ、一言で言うと 例えばゆるい幸せがだらっと続いた感じ?

いや一言で言うんかい。いや一言どころじゃないやないかい。いや歌詞やないかい。

とかゆってハッピーな一年でした☆ってわけじゃないけど終わりよければってやつ?ゆるっとだらっと幸せなことがあったかなあと思いました。

 

来年の目標は 痩せる、気性が穏やかになる、就職する の三本で〜すそれではみなさんまた来年 じゃんっけんっ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グー!(わたしはじゃんけんで始めの一手にグーを出しがち)

 

 

 

よいお年を!

おやすみなさあい

 

 

 

 

アイラブアルコホル

 

 

 

アイ・ラブ・アルコール!

 

かれこれ付き合いは7、8年になるだろうと思われる。

迎えた二日酔いの朝は数知れず。その度その度「二度とお酒など飲むものか」と思うわけですが、ゲロゲロ吐いてお水をがぼがぼ飲み、コーヒー飲んですっきりすれば またケロッとしてお酒を飲むわけです。

最近では、泥酔してる最中に「これ絶対明日二日酔いなるやつやお願いやからならんといてもうなんでもするからほんまにお願いやからあんなしんどい思いをさせんといてください」と神様に祈ったりするわけです。

それどころか、あんまり調子よくない日にお酒飲むとすぐに頭痛がして、喉が乾いて仕方なく、トイレも近くなるんですがそれすら嫌です。もはやお酒飲むの嫌いなんじゃないかと思うくらいお酒による二次被害が嫌いだ。

なのに、お酒を飲む。

 

シラフのときの飲み会というのは苦痛で、早くに酔っ払った人を見ると「すげえ酔ってんな…」とちょっと引きさえする。

しかしどうだろう自分も酔っ払ったときの居酒屋との一体感たらない。わたしも酔っ払い、わたしを取り巻くみんなも酔っ払い。普段喋らない人が笑顔で話しかけてくる。空気は蒸してアルコール臭い。居酒屋の、飲み会の一部になったような気がして 溶けてしまったような気がして なんとも気分がよい。

ああこれを味わうために酔っ払うのだ、と思うときの素晴らしさ。

お酒による快楽っていうのは本当に刹那的でその場しのぎで、どんどん消費される一瞬のものでしかないんやけど。その快楽を得るために次の日の朝と昼を、シラフ時の人間関係を、犠牲にしてもいいかなって思えるときがある。その解放感は何にも代え難い。

 

とか言いつつ飲み会とかあんまり参加しないんですけど。インキャなんで。

だから基本的に一人で家で飲む。どうなんかなあ一年のうちお酒飲む日は半分、、まではいかへんのかなあ。

それでもだって餃子なんて。食べるとなればハイボールやし、お米食べるよりはいいかなってまたデカいウイスキーの瓶を傾ける。

「今日はお酒を飲む日にしよっかな♪」なんてもんではなく、「これを食べるということはお酒を飲まずになんになる」と思って飲む。

それで楽しくなるときもあるし、寂しくなるときもある。最終的にはいつも、一人で深酒なんてするもんじゃないな。と思う。

 

しかしこんなにもお酒が、飲み会が大人同士の付き合いに必要不可欠な世の中であるのは、大人がみんな子どもよりも臆病だからだろうな。

子どもの頃に出会っていたならみんな、普通に話せたはずで普通に距離を詰められたはずなのに、大人になったら、正常な状態ではそれはなんとも恐ろしいことなのだ。生身で誰かにぶつかってましてや受け入れてもらおうとするなんて。

お酒を飲めば 誰とでも話せる。努力せんでもご機嫌でいられるし。ぶっちゃけた本音も言える。それが本当に酔っ払っているからなのか、それとも酔っ払ってるフリをできるからなのかはわからないけど。

まあ、大人になっても 飲み会はきっかけでしかないわけで、そこからどう仲良くしていくのかはやっぱり、シラフの己の実力で。一歩踏み出す勇気をくれるけどすぐに解けちゃう魔法、それがアルコールだ。

 

ついに母にクリスマスプレゼントとして炭酸作り機を買ってもらったわたしは、さらにアルコール道を突き進むのであった………完

 

おやすみなさあい

 

 

つまりは全部そういうこと

 

 

 

 

人工肉の缶詰め 分厚い鉄片で作られた丈夫なスプーン 食事の時だけ外すガスマスク

窓枠で四角く切り取られた隣のビルのグレイの壁 這う這う配管

ポケットだらけの服は煤だらけ 傍らにラジオ

たまの天気がいい日に屋上から見える遠くの煙突はいつでも火を噴いている

馬鹿高いのに粗悪な煙草は1日に1本だけ吸う唯一の癒し

 

とかいう世界

終わりの後みたいな世界

終わることを望んでいるのかもしれない

 

少女終末旅行』の漫画は持ってます。つまりそういうことです。

 

「つまりそういうことです。」って単体ではまったく意味をなさない、何かにくっついてても無責任で察しろちゃんな感じがしてあんまり感じがよくない一文であるな。

 

食べたいものをお腹いっぱい食べることというのは唯一無二の幸せなわけなんですが

その一方で飢えをしのぐというそのためだけに食べる、というのに途方もなく憧れてしまいます。

食べることは命を繋ぐこと(※ただし人間以外に限る。)

 

村上龍の小説に 「太っている人間は下腹が出て猫背になって重心が定まらず頭の位置がずれている云々カンヌンなので正常に物事を考えられない」って書いてました。

現代人には猫背が多い。そして私は太っていて猫背だ。つまりそういうことです。

 

生きるためだけに食べれば、太らないわけです。太っている野生動物はいないわけで、太っているという状態は自然ではないということです。

もはや、地球に生きる生き物の中で、デブは不自然で、排斥されるべき存在なのです!!

 

だから私は、なんというか生命を繋ぐ栄養の詰まった缶詰、人工栄養の缶詰を無骨なスプンでカッカッと音を立てて食べたいのですそうして生きたい生命を繋いでなんとか生きたい。

たまに安酒を飲んで。悲しみなんてみんなにとって標準装備だという顔をして。

しゅーしゅー音を立てて煙を漏らすダクト。コンクリートにひび割れ。ホームレスが十字架のネックレスを握りしめて死んでいる。信仰は救いのない世界でだけ美しい。

 

弱い人が淘汰されるなら私は真っ先に死んでしまうのだろうな。

 

ゾッ…

 

とする?

 

息をすることが身体に悪いような世界で上手いこと息をしていけるのかと。

つまりそういうことです。

 

 

おやすみなさあい