すきなたべもの

 

 

中華は圧倒的。味のオンパレード。

水餃子、小籠包、エビ蒸し餃子、ニラ饅頭

麻婆豆腐、青椒肉絲棒棒鶏、春巻きエビチリ八宝菜!

 

ラーメン。

鶏白湯がいちばん好き。

次点でドロドロの豚骨とサラサラの豚骨。

初めて博多に行ったとき。

一杯の安さにめちゃくちゃびっくりした。一蘭がサタンに見えた。

 

スパゲティ。

具材はウインナ、ピーマン、マッシュルーム、玉ねぎ。トマトケチャップをよく炒めて酸味を消して、甘くて赤黒い固形の液体にしてやって絡めた太めのスパゲティ美味。

トマトとニンニクをふんだんに使ったトマトスパゲティ、冬に食べるワタリガニのトマトクリームスパゲティ。

 

ああインドカレー

サモサ もさもさ。チキンティッカ、モモ、顔より大きなナンと 主役のチキンカレーお肉ホロホロ程よい辛さ。

 

ネギ塩豚丼は母親がいつも作ってくれてサイコー。

豚バラ肉の豪快な使い方はどんなお店にも負けない高級感!白ネギはなににいれても美味しい。

お米。かっこむ幸せ。

 

食べるのが好きすぎる。食べることはいちばんの幸せ。お腹が、永遠にいっぱいにならなければよいのに、と、思う。

最近食べてびっくりしたのがバインミーなんですけど きみは知ってますか?

ベトナム旅行帰りの母親が作ってくれた、ベトナム式サンドイッチ。

旧フランス領だったのでパンはフランスパン。その中にレタスとか豆ペーストとかお肉とかにんじんと大根のなますとか入れるん。ほんでベトナム産のお魚のオイル?をふりかけるんやって。

顎がめちゃくちゃ疲れるけどめちゃくちゃ美味しい。

パクチーの国ベトナム(というかアジアはほとんどパクチー圏やんね)にもこんなに美味しいものがあるなんて最強。

 

食べることが本当に好きだ。

今日の賄いはとん平焼き。お店のママ特製のソースが美味しくて、マヨと一緒にとん平に絡めて絡めて食べる。飲みこむ。味の余韻そのままに白米を頬張る。

なぜか最低賃金を下回った時給で働かされてるけどこの賄いのためならいいやと思って辞めないでいる。わたしは馬鹿です。

 

 

 

 

な、さいきんの入道雲、いいよな。

土の匂いと蝉の声と夕焼けのただなか真っ赤に染まる入道雲

ああ住宅街を歩くとお魚を焼く匂いがする。歩くと豚汁の匂いがする。あれ、この家では早いお風呂の匂いと子どものはしゃぎ声がする。次の家では中華の匂いがする。肉じゃがの匂いがする。かつてわたしもいた場所に次の誰かがいる。

カーテンを一枚 隔てた向こうから漏れる明かりはわたしを拒絶する。排他的な幸せ。いやそこに幸せが必ずあると思うことこそが自己愛である。

 

 

 

 

 

 

わたしには いじめっ子の気持ちもわからないし

いじめられっ子の気持ちもわからない。

陽キャの気持ちもわからないし ヲタクの気持ちもわからない。

なんでもないからだ。ただ わたし であるということ。

読書をしない人の気持ちもわからないし 文豪好きの人の気持ちもわからない。

デリカシーのないやつの気持ちもわからないし デリカシーに縛られるやつの気持ちもわからない。

 

なんでもないのだ。

だから 埃1つない笠の下、暖色照明の下、の食卓はこんなに遠いのだろう。

 

親戚の家で大きな机の上に乗せられた白い蠅帳。

たまに食べるカップラーメンのおいしさ。

家庭じみたピカタがいちばん好き。

 

 

おやすみなさあい

 

 

あたし

 

 

 

女だ。ショートカットでスカートを履く女。

 

小学生のころ初めて物語を書いてから今までずっと何かしらの形で空想を文字にしてきた。

あのときの夢は小説家とサッカー選手だった。

サッカー選手になりたかったのは たぶん 男の子になりたかったからだと思う。担任の先生がサッカー好きで、クラスの男の子たちにサッカーをやらせていたから。仲間に入りたかった。男の子になりたくて一人称を「おれ」にした時期もあった。小学校中学年のときだったかな。

 

男の子になりたかったはずの私はしかし今果てしなく女として生きている。どこからどうみても完全に女の形をして女の性格をしている。それを不利に使うやり方はしたくないと思いもしている。

そうして小学生のころに夢見た小説家になるという未来をまた夢見ている。

 

いま、書き物を世に出す時期ではない。だからブログも全然書いていない。1つの物語のために言葉を使いたくなってしまったのだ。

大学四年生になって転換点を迎えた私はまた今なにかしらの小さな変化を迎えている。

人はそうして大人になっていくのだろうか。

さいきん、金色の華奢なブレスレットを欲しいとしばしば思う。

人が大人になるときはどんなときだろうか。子どもの目線を通さなければ誰だって大人ではない。私は私だ………否応無く。

 

おやすみなさあい

 

 

カンジョウテキ

 

 

わたしは今、自分についてどんどんわかってくる時期にある。そうしたら不思議と一人でいる時間が減ってきたように思う。そして誰かと話すことでまた自分が見えてくる。面白い循環だと思う。

感情の根源がどこにあるか わかっていれば たとえ感情をコントロールできなかったとしても いくぶん楽だと思うのだ。真っ当な理由があって怒っている、泣いている、と思える。

 

プラスの感情に理由づけは要らないと思う。嬉しいことは嬉しいままに 楽しいことは楽しいままにただそこにあればよい。

でもマイナスの感情には理由や根拠が必要だと思う。どうしてだろう。

 

プラスの感情はマイナスの感情より弱い。いいことがあっても悪いことがあるとなんとなく平均してなんとなくマイナスになる気がする。

ということはプラスの感情への対処よりマイナスの感情に対処することが火急であるだろう。

 

しかしわたしは悲しい気持ちを断然否定したくない。だって悲しみは同期で優しさで痛みだからだ。悲しみは誰も傷つけない。自分だけにのしかかる。一人だけの個人的なものだ。大事な感情だ。

怒りはどうだろうか。わたしは怒りも大事だと思う。だって関心のある証拠だからだ。どうでもいいことに心を乱されることはゼロだ。なんでやねんボケ、そんなことあるかいクソ、は相手を見放していないから出る言葉だ。怒りは相手を必要とする。怒りの対象が常にある。コミュニケーションを諦めた人間に怒りはない。

 

そもそも怒りや悲しみをマイナスの感情と捉えてよいものか。感情はすべて、個人の有するかけがえのない宝石であるとわたしは思う。すべてが大事にされるべきで個人において感情より優先すべきものなんてない。と思う。

怒りや悲しみに体を乗っ取られることが悪いのだ。コントロール下に置けと言うんではない。脳みそを占有されてずっと全身で怒ったり悲しんだりする奴はめんどくさい。

ずっと持っておけばよいし自分のものとして棚に飾ればよいが物事があってそれに対する感情にある時点から常に脳のリソースを割きまくるのがいけないのかもしれない。

 

物事に対してどう思うか、みんなそれぞれに本当に違う。どういう感情を持つか、その内訳はどんな感じか、全部興味深いと思う。

つくづく個人主義な人間なのだわたしは。そうして理想主義らしい。これはでもネット曰く。

 

わたしは人が驚かされるのを見るのが苦手だ。すべてについて思い描く何かがある人間はいないだろうがそれにしても予期せぬことというのはあって、それが起こるのは本当に見てられない。嫌だ。みんな心を乱されることがゼロだったらいいのにと強く思う。

 

感情はできごとに対して生まれる……なんでこうやねんアホか、なんかこんなんあるやんおもろ、なんかこんな感じ楽し、なんでそうなるん悲しい……

感じることができるのは生きているからで 自分の感情を大事にしてくれるのは自分だけだ。

感情より大事なものがあるだろうか。

 

と最近考えている。

 

おやすみなさあい

 

 

みるめ

 

 

 

2月から読んだ本を記録している。今日で10冊になった。5月。ふむ……

さっき読了したのは山崎ナオコーラの『可愛い世の中』。ものの5、6時間で読み終わってしまった。ものすごく面白かった。久しぶりに時間を忘れて読んだ。

『可愛い世の中』を読み始める数分前に読了したのが太宰治の『ヴィヨンの妻』。これは読むのにわりと時間がかかった。まあ時を忘れるほど没頭する本とはそう頻繁に出会えない。それでも現代小説しか読んでこなかったわたしが初めて面白いと思えた貴重な1冊だ。胸糞悪いのに真実めいててどうして面白いのだろう太宰の文章は。

その前に読んだのは岸政彦の『断片的なものの社会学』。これは授業で紹介されたエッセイだ。エッセイなんてクソ面白くないと思っていたが全然そんなことはないと最近になってわかってきた。なんてことないことをかき集めて分類しないままに並べ立てて別に批判もせず結論も出さず終わる本だった。でも面白い。考える余地のある本だった。

その前に読んだのがリルケの『マルテの手記』だがこれは苦痛だった。本当のことを書いている感じがしたが異国の違う文化の違う時代を生きた人の書くことはこんなに読むのが難しいのかと思った。あと十数ページで読み終わるというところまで読んでギブアップした。辛かった〜。

その前に読んだのが伊坂幸太郎の『火星に住むつもりかい?』だ。

 

 

伊坂幸太郎はわたしが一番はじめに「好きな作家だ」と思った人だと思う。

『オーデュボンの祈り』を読んでめちゃくちゃびっくりした。面白すぎる。わたしはあの時初めて読書がエンターテイメントたり得ることを知った。エンターテイメント小説というのはこのようなものを指すのだと思って本当に本当にびっくりした。

作者の名前を判断基準にして本を買った最初の1冊が『重力ピエロ』だった。これも本当に面白い。まず一番最初の一文が素敵でなんというかオシャレだった。

 

ある友達が「小説を書くのに経験がいるならどうして村上春樹伊坂幸太郎も(他も言ってたけどその2人しかわたしが読んだことなかった)どんどん面白くなくなっていくんや」と言った。

ちょうど『火星に住むつもりかい?』を読んで物足りなさを感じていたので思わず指を鳴らしてしまった(指を鳴らすのはまじでクサかったと思うから反省している)。そして、「詩は感情ではなく経験で書くもの」という『マルテの手記』の一節を大いに信仰し出したわたしは若干の衝撃を受けた。ビビッ!

 

たしかにそうだたしかにそうだ、「経験」が本当に年を重ねるごとに得るものだったとしたら老人にしか面白い小説は書けないことになる。

じゃあ経験ってなんだろう。そもそも「詩は感情ではなく経験で書く」という文章自体が翻訳されたものだからリルケの本当に言いたいところではないのかもしれないしわたしも経験をそのまま経験という意味でとっていない感じがする。

『マルテの手記』ではこうも書いている。

〜(ここで本を引っ張り出して文章を打ち込もうとしたけどめんどくさくなっちゃった)〜

なんか、「28歳にして見る目ができてきた」的なことを書いてたんですよ。世界を見る目が。それも翻訳やから ほんまの意味ではないやろーけどわたしにはほんまの意味がわかるよーな気がするんですよ。

年齢を重ねないと見る目はできないと思うんですよ。見る目ってのは必ずしも道端の野花に気づくほど目ざとい目ってわけではなくて。いろいろなものを見てそれをちゃんと見れる目、ひいては心や頭のことを指すんではないかと。

その 見る目を獲得するには時間がいるし、見る目を持たない人間の書くものなんてただの感情の高ぶりや落ち込みでしかなく、到底共感を呼びづらく、ツイッターの140字で事足りるような脳みその要らないものでしかないんやないかと思うわけですよ。

とか言いつつめちゃ若くして、それこそわたしくらいの年齢でばんばん小説書く人めちゃくちゃいるわけで、それが面白かったりするわけで、見る目ってのは歳を重ねなくても持ってる人はいるのかなとかやっぱりもしかして見る目なんて関係ないのかな〜とか…

難しいけどわたしは書く人になりたいしそのための見る目が最近めきめきついてきた気がするのでそれを養って書く人になる。

 

書く人になりたい人の集まる会があったら楽しそうだな〜

でもしんどそう。死にたくなっちゃいそう。

 

遅いから寝るね。おやすみなさあい

 

みてくれ〜

 

 

 

note始めてました

小説みたいな短いやつを書いて載せていますぼちぼち

読んでくれたら嬉しいです

https://note.mu/nicofuumi

自己顕示欲がとどまるところを知らないことにひいてる

たくさんの人に読まれたいし良いなと思ってくれる人を見つけたいな〜

燻っている つねに ぶすぶすと……

 

 

といかける

 

 

 

理解しようとすることはエゴだと思うかい

あちこちを探し回ってもほとんどのものが自分の手には入らないし 見られたとしてもほんの一瞬だったり全体の10000000000分の1だったりする。ティッシュリモコンケータイ、充電器お茶のコップみかん、を身体の周りに配置してこたつでぬくもるみたいに、物事は手の届く範囲にいてくれない。

とてつもなくそれでしかない異質の存在感で全部過ぎ去っていったりたまにこっちをじっと見たりしてくるがそれらを 少ししか見られないからといって理解の枠の外に押しやるのはいいことなのか。

 

「子どもの頃は楽しかった」と盛んに人々は言うが 子どもの頃は理解の枠がそもそも存在しないのだからそれはそうだろうと思う。

理解するかしないか、近寄るべきか近寄らないべきか、経験したことあるかないか、経験上乗るべきかそるべきか

大人には判断基準がたくさんありすぎて 知っていることが増えすぎて 世界に二の足を踏む。

子どもの頃は 何も知らないのだから躊躇していられない、飛び込むしかない、楽しいことをただ求めて。

「知らぬが仏」は世の中の真理であるし。

 

しかしだ、しかしだよ。

何も知らなかったらそりゃあ楽しいだろうが

いろいろ知ってからの楽しさもあるやろ?

理解しようと思えるのは 理解の枠があるからだ。

ここまでなら理解できる、こっからは理解できない。そして色々なことに出会って色々を経験して、理解の枠を広げていくんやろう

 

「理解できない」が イコール「理解する気がない」

になってる人もいるけど、そんなんもったいないやんなあ。と個人的には思う。

最近読んだ本で、「現代人は踏み込まないことが優しさだと思っている」と書いていた。その通りだと思う。

たぶん、理解しようとすることさえエゴだとみんな思うんだろう、ぱっと見理解できそうにないことには触れないようにしないといけない、だってどこに怒りや悲しみの地雷があるかわからないのだから。

 

でも。

理解しようとすることを恐れて離れてしまったら……それは…………上手く言えないけどもとても悲しいことだと思う。

本当に触れてはいけないことなんてあるのか?生傷は生傷のままで乾かずにずっとあるだろうけど、そこに誰も触れずにおけばそのまま、空気に世の中に揉まれてばい菌が入って膿んでしまわないだろうか。

人間は、本気で理解するために理解しようとしてくる人をはねのけるほど孤独では生きていけないんじゃないか?

怒りや悲しみの地雷を、相手がうっかり踏んでしまったとして、それをそのまま相手にぶつけるだろうか。そんな風に理解し合いたいと思ってくれる、自分も理解したいと思えるような、気軽でない、密度のある付き合いをしている人間に?

 

すべてを理解して欲しいと願うのは図々しいだろうか。

少々厚かましいわな。しかしできるのなら誰かに誰だってまるっと理解して受け入れて欲しい。

べつにちゃうやん、そういうことじゃないで、いやいやケチャップ手についたわたしに(ティッシュ欲しそうやな)と悟ってティッシュ手渡して!とかじゃないで。

「物事に対してこう思う」ことを理解して欲しい、つまりだから、否定せずにそういう人間であることをただただありのままに「わかって」欲しいのだ。

みんなそうだろう?

 

だって目に見えるもんなんて 耳に聞こえるもんなんて物事のほんの端くれでしかなく、たまに無意味なこともあるのだから。

その裏に何が隠れてるのか、気になるべきやしきちんと見てわかるべきだろう、それを大事にしたいと思うのなら。

 

でもわかるよ目に見えるものを目に見えるままに愛したい気持ちも。目に見える部分を見て気に入ったんやからそれ以上はべつに見たくもないよな。

それこそエゴですけどね。世の中がすべて可視化してしまわないと目に見えるものだけを愛することなんてできはしないし、それを望むなら誰とも本当には親密になるべきではないし、一人で生きていくべきだ。

全部が目に見えてしまう世の中なんてだっておもんないでしょ。何も知らない小学生ではもうないのやからそういうのをきちんと愛しましょうよ。

 

というこれもまあ押し付けでしかないわけなんですけどもなんというか…

夕日を初めて見る人間と そうでない人間とじゃ夕日を見たときに受ける感銘はまったく違うけどさ、

夕日を初めて見る人間は圧倒的熱量の塊、視界を埋め尽くす真っ赤っかにただ感動するしかない

そうでない人間には夕日に関する昔の記憶があって、最近夕日をじっくり見られていないのだったという今の自分に関する気づきがあって、うーん、思い出すべき歴史がある。

ぬるぽ」と言えば「ガッ」と返る、そういう馴れ合いにはたまにうんざりするけれど、積み重ねた歴史から新たに学ぶことやふと気づくことはあって、自分の中に何もない状態はそりゃあ清々しく身も軽く楽しいけれど、そういう、そういう重さ、たしかにここに存在するという積み重ねた確信、を楽しむのも楽しいやん。

 

 

子どもの頃は楽しかったとか言うなよ。

それなら今も楽しめるようにさあなんとか、変えてみてよ。お願いやん、そんな、子どもが刹那的な楽しみしか知らない風に育つのは阻止しよ。

大人最高やで、だって子どもの頃の楽しさも覚えてるし、大人になった楽しさもずっと味わえるんやからな って言える大人になりたいよ。なるぜ。なったるわ。

理解したがるからな。好きなものは全部。嫌いなものは要らん。

 

 

おつかれさまあ

 

 

エリオ、エリオエリオエリオ

 

 

 

 

そうなんよね、なんでわたしが『君の名前で僕を呼んで』をめちゃくちゃいいと思ったかというと「自分と相手の同一化」がテーマやからですね。

そしてそれがたぶん男女の恋愛より男同士、女同士の恋愛の方が叶えられうるんやないかと思ったからなんですよね。

 

わたしは、もうめちゃくちゃ、相手と自分を同化させたくて境目を、もうゼロにしたくて密着して1つになりたくて、そういう恋愛をしたくて、でもまあ……叶わないわけで。

「人生はかたわれ探し」っていうのも、さんざっぱら好きな言葉やと言ってきたけど、やっぱり自分と相手を同一化してるわけで、ぴったりかけてるところと余分なところが重なり合う相手って、二人で1つってわけやから、そう、そういうことで……

だからそれがそもそも恋愛なのか?っていうのも大きなテーマなんですよ。

そして友情とはなんだ、という話にもなるわけですよ。

 

満ち足りるには一緒にいて完結しないといけなくて、あなたさえいれば何もいらないわ、世界の他の要素なんて余計で、なにも付け足す必要はない、そんな状態が二人で1つの究極の形でしょ?

で、まあわたしはそれを他人と達成したいんですけれどもなかなかむつかしくてそれはまあよくて、

そんな状態になるにはまず友情が必要でしょ、何にとってもどんな関係においても友情は必要じゃないですか。それが先輩後輩の友情でも上司部下でも親子でも、多少なりとも友情がないと居心地のいい場所をその人と築けはしないわけで

友情を築くには同じような世界で、少なくとも同じ世界線にいなくてはいけなくて、だから、多少なりとも似てるところがないと友情は生まれないと思う。

 

普通の友達と恋人との違いはなんだろうと常々考える。

一緒にいて居心地がいいならば同性の友達と常にぴったり一緒にいればよいと思う。

それをせずに恋人とずっと一緒にいたいと思うならそれは、友達とのそれより大きな友情が恋人とはあるのだろうと思う。

 

あ、ここで言ってるのは

「ツレと嫁とガキで俺の世界は回ってる」みたいな人のことではない。そういう人は全部大事なんだろうし、嫁のことも「女はわからんなあ」とか思ってるやろうから。男女の別がはっきりしてるとでも言うのかなあ。女を守る!みたいな感じやん。

 

まあそれで、恋人って言っても友情ありきやねんから、その相手は別に「恋人」って定義する必要はないのではないかという話で、

二人で1つ、欠けたところなしのまん丸になれるならそのまん丸に名前は要らないはず。

そういう定義が必要になるのはだから、二人以外の他人が常に存在するからですよね…。

でも恋人というラベルに縛られて関係が変わってしまうのは本当に悲しいと思う。

女扱いされたくない んではなくて 友情の元一緒にいられたらと思う……が問題は性欲である。

男女が一緒いて、ときどき「あ、あの二人ヤったな」とわかる場合があるだろう。そういうことを経てしまうと、友達からは違った何かに進化してしまうのだ……でも、

根本にあるのはやっぱり友情なのだから、友達から何かに進化する必要はあるのか?

そもそもだからやっぱりラベルが悪いという話に戻るのだ、二人きりの星に住めたならそんなことを気にせずに生きられるのに……

 

ずっと一緒にいたいとか

この人しかいらないとか

この人だから好きになったのだとか……

そういう大切な熱い1つ1つの気持ちの結果が、恋人というたった二文字きりの単語で表されてしまっていいものか??

 

君の名前で僕を呼んで』を観てない人はぜひ観て欲しい。

二人は……息の詰まるほどの熱い感情で結びついている。

そうだ、結びついているのだ。結びついてひかれあっている。強い力で、二人きりで。ひかれあいすぎてガツンガツンとぶつかるほどだ。

こういう関係を誰かと築けたなら万々歳だと思うだろう。人生のうちその人と過ごせた瞬間が1ヶ月でもあったなら生きていけると思うだろう。

 

……あー、もっかいみよ。

おつかれさまあ