let me f☆ck

 

 

性欲で動くことのなにが悪いだろうか

わたし達はまだ若いし 性欲がなにを傷つける?

性欲を丸出しにして異性と関わることのなにがだめなの?

それが顔を覗かせることの、なにがいけない?

 

動物であることを捨てたら 思考することを捨てたら 生殖機能も外部委託しないといけない?

自慰行為ってとっても文化的で高尚な行為だよね。

 

性的な魅力には 目も当てられないし フェロモンは におうし

友情と 生殖は なんだか 共存させづらいし

 

見た目が好き、なんて サカってる人の オブラートに包んだ 何かに対する 言い訳?

 

なんだか悲しいね

欲求不満な お年寄りを見るのが いちばん悲しい

自分がそうなったら 舌を噛み切って死ぬ、なんて、若いから言えるのだ

 

自慰なんて 高尚じゃないよ もはや 世間一般で 趣味でしょ

エロ動画 カテゴライズ されて好みいろいろあるって もう 娯楽でしょ

虚無感? なにそれ

 

性行為ってなんだ

客観視することを覚えてしまったらもう終わりのみっともなさな行為だが

夢中になれるほど 好きな相手との行為なら 幽体離脱せずにすむの? しらなぁい

 

セクシーだね って褒め言葉?

性を振りかざして 女の子らしく男の子らしくすることって性差別?

 

わたし達簡単に犬に成り下がるの?

媚びるのは悪か? そうか、うーん

 

やりたいのにやりたくないふり

するのは 一種の礼儀なのに

ちらちら覗くと生々しいし

丸出しにしたらお縄やし

上手くいくもいかんも 興奮させたもん勝ち?

わかんねーし知らねー

じっさい誰だって誰でもいいんだ誰にとっても

 

 

彼氏 結婚 浮気 セフレ 友達 秘密 性欲 愛情 情け

わたし達もみくちゃになってどこに行くんだ

どこかへは行っている、なぜなら、誰ひとりあそこにはとどまっていないんだから

 

 

 

 

一人称で語ってません

そんなこと不可能やけどね ブイV

 

 

 

 

追伸 さいきんね もっと派手になりたくて 昔買ってもらった白いモフモフのアウター引っ張り出したら似合って嬉しかったよ わたし ショートカットやしどう見ても 性的に媚びてないだろうな 知らんけど

 

 

 

ふたたびのジャニオタ

 

 

愛というのは

たとえば (わたしの大好きな喩えのうちのひとつ)手を繋いで行く近所のラーメン屋、そのあとのアイスとコーヒー、公園でチルアウト。

たとえば 擦り切れるほど使ったふたりだけの言語、のちの爆笑。

たとえば 明け方目覚めたときにちょっかいを出して引き出す寝言とその録画。

 

愛がふれあいなら 身体的な物質的な精神的な 繋がりなら 恋はそうじゃなくてもありえちゃうよね、ありえるから、やばいよね。

 

恋ってやばいんじゃないか?

人を堕落させるんじゃないか?

 

かつてわたしはeighter(関ジャニ∞のファンの名称)だったが、いまはSixTONESのファンだ。

SixTONESというのは今年デビューのジャニーズアイドルです。

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こういった最強のビジュアルのアイドルでして、

私はこのうちのひとりに恋をしている。

 

eighterであったとき、私は恋愛をしたことがなかったが、いま、23歳、何回か恋愛をして それ以外もして 恋とか愛とか性とか 昔よりはなんとなくわかった気になっている    のに     またジャニーズにハマった。

しかも、eighterだった頃よりも 重度に自分の担当を好きだ。リアルに胸がきゅんってなるのだ。

 

恋というのは たぶん、どうやってでもできるのだろう、というのは、なんか、さいきん思った。

べつに 恋にコミュニケーションなんて要らない、意思疎通も許可も 友情だっていらないんだろう。

 

廊下ですれ違う隣のクラスの男の子を どうしてだか好きになる、その感じで アイドルに恋をしている。

もちろん、恋をしているので 自担(ジャニーズのファンは自分の推しを"担当"と呼び、自分の担当のことを"自担"と呼びます。しかしこの情報は若干古い可能性もあり、現代では"推し"という言葉のほうがよく使われるかもしれません)のニューな写真を見たら ドキッ とする。

雑誌を購入し、自担の写真をどれだけでも眺められますし、動画がアップロードされれば6人のメンバーのなかからすぐに自担を探し出し凝視する。

自担が面白いことを言っても笑うし、すべっても笑います。

 

これが恋でなければ何だと言いましょうか。

決してコミュニケーションの成立しない、一方的な、そして、とっても清潔な気持ちのエネルギー。

私は彼に何も求めず、ただ存在を崇めているだけでよい。本当に清潔だ、、、

 

アイドルというのは たいへんたいへん遠いところにおり、ファンにとっては ほとんど人間ではないため、愛さなくても大丈夫なのです。

わたしは 自担がメディアでどれだけコンディションが悪くブサイクな顔を晒しても、情けない姿を見せても、愛おしいな可愛いな好きだなで済ませますが、すべてを許す必要はありません。

どんなふうに ジャニーズ事務所に入ったか どういった家族構成か、知っていますが それは私にまったく関係がなく、それらはただ好きな人の いち 情報というだけなのです。

 

恋は 自分である必要がない、自己の介在しない感情のエネルギーなので、比較的に楽ですね。

愛そうとするのには 多大な労力がいりますが、恋は ただ相手を好きでいるだけでいいので 誰に対しても発動できるわけだ。

 

ちなみに私の担当は 先ほどの写真でいうと

1枚目:ひだりからにばんめ

2枚目:右下

3枚目:上段真ん中

であります。意外だった?ジャニーズは全員が全員、まったく全員 鼻が高いので 異様なほどの鼻高好きである わたしの推しを 当てるのは難しいでしょうね。難しいでしょうね?なんやそれ

 

なにかを好きになったり 嫌いになったりするのは とっても簡単やと思う。だって 好きになるのも嫌いになるのもべつに自分でなくたってできるから。

 

好きとか嫌いとか もう関係ない存在に、誰かがなってしまったとき、愛してしまったとき、自分の一部に誰かをしてしまったとき、問題というのは生じるもので

異性にトキメキを求めたりしている人間にとっては 愛することは重すぎるのでしょうな。は?だれ?おれ?

 

誰かを自分の一部にしてしまうと、引き剥がすときに血が出るからな。

アイドルに恋をしていたら、私は相手になる必要がなく、相手は私になる必要はないのです。

恋することはいつだってやめられる、だって恋には相手との関係は必要ないから。いつだって切り離せる、だって相手は自分の一部ではないから。繋がっていないから。

愛することは やめようと思ってもやめられない。

好きじゃなくなっても相手はもちろん無傷で、自分も無傷だ。

でも 愛せなくなったら 相手をどうしたって傷つけるし、自分にも傷ができてしまう。

 

おい、恋ってなんだ?

 

一度 恋愛をしてしまった人間をわたしは嫌いになれない。愛してしまった自分の一部を憎むことなんてもちろんできない。もう好きとか嫌いとかじゃないし、愛にはコミュニケーションが必要で、それをさんざっぱら ふたりきりで行いまくった時期がある人間のこと、友情を築いた人間のことを 黙殺しては自分の人生語れないし。

 

友情の介在しない恋は なにかに進展しないかぎり娯楽になりさがってしまう、、、のか、な?

恋は恋のままじゃ たぶんだめだ。他のものに変えてしまうか、他のものに付随させるかしないと。

 

自分にも また 全身でぶつかって 理解してもらうためにたくさん自分の話をして 理解するためにたくさん相手の話を聞いて ぶつかって泣いて苦しんで愛して 愛してしまう ような 人間 が 現れてくれるのかしら

どっちでもいいけど 現れたら素敵ですね。

しんどいから すぐじゃなくていいけど。

 

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いまは 自担を 愛でるのですから。もちもちジェシーちゃん、とても可愛くて好きだ。

 

 

おやすみ🤘

 

 

人間に片想い

 

 

 

大学のゼミの先生が わたしの人生における唯一の恩師なんですけどね、

先生の言葉は 幾度となく私を救ってくれたのですが、とくに 日常的に救われてるのが

「好きという気持ちは一方通行ではない」って言葉なのですよ。

 

人間の気持ちがまじでわからんくて、自分からはほぼぜったいに声をかけられない私なんですが、それでも、「誰かを好きになる」という 人間同士 関係を築く上での第一段階が、この言葉によって わりにすんなりできるようになった気がするのですよ。

 

私が誰かを好きだなと思うとき、この人いいなと思うとき、必ず相手も私をいいなと思ってくれてるって先生は言うのですよ。

 

言葉というのは 不思議で、受け取ったとき 理解したつもりでいても、ほんまやなあって感心した気でいても、実は本当には吸収できておらず

自分にとって本当に理解できる瞬間というのはまた別にあったりするのですよ。

 

聞くこと と 本当に理解すること は まったく違う部分によって なされることなのですよ。

理解したあとに 自分の骨となったり肉となったりするのも また 別の話で、だから、自己啓発本を読んでも そこに書いてある言葉と 自分の人生がきちんと重なり 自分の身になるって保証はないのですよ。

 

私は すべての言葉を理解したいですよ。あなたの言葉を。言葉の奥の本質を。その表情を、仕草を、目線を。あなたの性格を。考え方の傾向を。昔に放った言葉を。あなたを攻略したいのですよ。それがひいては私の身の安全にもなり得るし、あなたの理解者になることで、寄り添うことで、私自身がひとりじゃなくなるから。友達ぜんぶに思ってますよ。わたし重い女なので。そんなことは秘密なのですけど

 

まあそれはよくて。

 

わたしがこの人 おもしろいな 友達になりたいな って思うとき、相手もそう思ってくれてるって、

ええ?ほんとに?わたしなんかを?と、一人称で疑ってしまった自分もいたのですが、

他人というのは自分を写す鏡で、誰しもが他人のなかに自分を見るし、そこが共鳴すれば 人と人がひかれあうのは 当然のことともいえますもんね。

私の自信のなさとは関係ないところで、人と人が話して 会話の粒子がその場の雰囲気を形作っていくのですもんね。

私は私の友達が私のなかにいったいどんな魅力を感じてくれるのか、魅力とはいかなくても会って話してくれるどんなメリットがあるのか、もう本当にわからなくて 自分やったら自分なんかと友達にはなりたくないなあと思いつつ自分に寄り添う自分を想像する快感、ああ、うんこ、わたしはうんこだ、とかなってるけどまあ私は人に優しくしたいと思っているので、そういうとこをわかってくれる人も世の中に何%かいてくれているんやなって思うわけですよ。

そして 無防備にも人たちを好きになって、それを必死にばらさないように、相手が私を招き入れてくれるのを息を殺して待つのですよ。

 

先生は偉大だな〜

ひとりじゃ気づけなかった。

わたしは人を必要としていて、人にとって私もときどき必要なのだということ。

代替可能であったとしても誰かの一部になれること。それを疑ったとしても切り捨てはしないほうがいいこと。

 

人っていうのは塊魂みたいであり流氷みたいでもあるのだな。

周りを巻き込んだり、ぶつかって削れたり。

どんだけ傷ついても それを忘れないでいても 新しく人と関わり続けることをやめられないなんてなんの因果だ。

人と話すのには体力がいる。自分がどんな人間かわかってもらうのにはもっと体力がいる。

それなのに理解を求めることをやめない私たちは馬鹿なのか。

許してもらうことに慣れすぎたらだめなんだろうけど、もし、数ヶ月前、孤独に震えて胃を痙攣させていた私にとって今の 人間にかまってもらえてる自分が想像できなかったように、数ヶ月後、また想像を絶するほど悲しくひとりになっても、いま、楽しいなら良いね。

寂しくないって素敵なことだな。

私は、もう、みんなを消費したくないよ。

って言うのにも本当に勇気がいったよ。

 

人間と関わるのって本当に怖いよ。

 

いやあ、まじ 雑踏のなかふと冷静になって、ここに存在する人間全員が感情を持っていてなにかに傷ついたり悲しんだりする、ってことに気づいたとき途方に暮れるよ。

誰にも悲しんで欲しくはないし傷ついて欲しくないよ。それなのに自分がつけた傷だって世界にたくさんあるんだ。残っているし乾いていないものも、あるし。

 

ひとりで生きていければいーのにね。自分には無理だとわかった今年でした。

2020年の締めくくりみたいになっちゃった

まだある!!!!まだ2020終わってねえよ!!!!!

 

 

いや、寝よう。

おやすみなさい

 

 

あかいかみのあたしよ

 

 

 

みんな最近どう?

膝回してる?

肘の方が回してる?首はあんまり回さんとこう。ギア入れてこ、ゆっくりいこう。

 

どないする?

もう今年終わるってさ。誰か言ってた。誰もが言ってる。今年終わるらしいって。

数字が読めなかったらなあ〜。今年が終わることも噂どまり。年越しも人任せやったり。

いつの間にか 鐘鳴ってて。108回も。まあ50回目ぐらいで煩悩消えそう。70回目ぐらいで復活しそう。これ終わったらぜったいクエルボがーっといったるって。ってこれは鐘鳴らしてる側の話。

いつからか真夜中平気で越すようになったけど、昔は深夜なんて大仕事だったよなあ。

夜更かしした日には足つったりしてた。繊細なあたし。いつでもセンシティブよ、今だって。

 

新しい家に秩序、ないのに生活感だけはあるから訪れた人は変な気持ちになるかも。

誰かうちに秩序を持ち込んでくれん? めちゃくちゃ暮らしにくい。それなのに秩序がないことを半ば楽しんでいたりするから悪い。忍び笑い。ひとりで。

 

年越しの話やけど。来年は年女。わたしうしどし。同級生のほとんどはねずみどしやけど。わりと3月生まれの友達も多い。うしどし。狡さのない牛ちゃん。狡賢いねずみちゃん。どっちになりたい? 生まれながらのスロースターターさわたしは。

 

いや句点 多て読みにくいな。

芸能人のブログか。

 

空気のなかに冬が混ざり出してきてる。地上高くに住んでるから あんまよくわからんけど。

季節を感じるのが好きなくせに、なんでこんな高いとこに住んでもーてるんやろ。知らんけど、景色ええとこに憧れてたんちゃう?

いつの間にかクリスマス感出してきてるけど、いやいや 自分ら もっと体感で仕事せーへん?

こんなに秋長くて 夏日続いて クリスマスて笑わせるわ。ずれこませーよ!ずれこませ!

寒なってきてマフラーの可愛い女の子が増えてココアを飲むのが苦じゃなくなって、アホみたいに甘いミルクティーばっかり啜って、さすがにアイスコーヒー飲んだら10秒でお腹壊すわこの気温、あー毎日寒いわね奥さん、ほんでしばらくしてようやくクリスマスでしょうが。

こんなにあったかかったらクリスマスからのお正月、恵方巻からのバレンタインを到底耐えられないよ、スピードアップしすぎ、後半巻き返しすぎ、詰め込みすぎ、冬に期待込めすぎ。

 

人肌恋しくなってんじゃねーよ

こちとらニトリの毛布でじゅうぶんじゃい

 

男のいない生活のなんと清潔なことか、クリスマス、ひとりでケーキ食べるか否かを迷ってる。

ケーキじゃなくジンジャーブレッドっていう選択も大いにオールオッケー、でも気分的に茶色すぎはあがらなすぎかな。

やっぱりなんか 色のあるもんがええね、自分の名前が名前やし。

 

いうて

甘いもん食べる口実なら大歓迎ってわけ。

やれやれ、僕は煙草を捻り消した。いやなに煙草吸ってたんかい。捻り消すって言う?ふつーに。言う? 知らんけど。

 

人といるのは好きやけど関係を結ぶことの恐ろしさったらないね。

始めること、始まってること、終わってたこと、始まりを通過したこと、始まりを無視したこと、意図的な無視、そうでない無視

みんな交わってる 3Dやから面倒くさいね。

 

 

いや寝て。ほんま、寝よ。言ってもまだ12時過ぎ、ってベイビーだったあたしに聞かせてやりたい。

お前は将来、、、、、いや悲しすぎる、やんぴ

 

 

 

おとなピーターパン

傷つくことを回避するすべを豊富に持つ人間のことを「大人」と呼ぶのならもうずいぶんまえからそれに片足を突っ込んでいる。

大人というのは優しい。優しいのは傷つきたくないからだろう。人を傷つけることで自分も傷ついてしまう、それなら、人を傷つけることさえも自分ごととして全力で回避する。

涙を流すのは共感するから。映画や小説に感動させられるのは私たちのどこかの部分になにかがかぶさって、抽斗の奥の感情を引っ張りだされて他人事のままで終わらせてくれないからだ。

ほとんど全てが近い。そのせいでほとんど全てが意味を持つ。ほとんど全てに語る言葉を見出してしまう。

 

「あんな大人になりたくない」、教師を見ては思った。

「そんな苦しい思いをするなら大人になりたくない」、母親を見て思った。

「あんなふうな大人になるのはいやだ」、サラリーマン像を漠然と見て思った。

彼らは役割を果たしていた。彼らにも無邪気な面というのはあるのだろう。

しかし、でも、大人という服を着なければならないときがもしくるとして、それを脱ぎたくても脱げなくなったら終わりだろうと思う。

ものを考えるとき、裸のままの自分がびりびりとむくむくと出てくることがなくなればもう終わりだろう。

 

大人という服はじゅうぶんに柔らかく、分厚い。相手を傷つけず、自分も守るために。

私だってその服を着てバイトに行っている。それは興味のない人間にあなたに興味がないですと剥き身の自分が言ってしまうこと それ自体によって傷つけ傷つけられることを避けるためやし、家庭の問題を全面に写した鏡みたいに澄んだ自分の本性にスモークをかけるため、ひとりのつまらない人間になるため、、、

くそみたいなコミュニケーションを終えて中身が息苦しそうに顔を外に出したときに最初に出る軽蔑や見下しは純粋な幼児性を持っているので危険なのだ。

私というのは友人のまえで失言が多い。油断したら自分と違うものをナチュラルに否定している。悪意なく。子どもっぽいということはそれ自体が人を傷つける鋭利な石なのだ。

 

もしもあなたが私と同じように、あなたの友人たちと剥き身で付き合っているなら、周囲から見たそのグループあるいは二人組というのは感じが悪いだろう。

私たちはすでに言葉を持っていて、ほとんど完成された語彙でつくった世界のなかにいるのだから。ほんとの小さいころのように、言葉なしの世界で、知らない場所からきたその場限りの他の集団と溶け合うことはできない。

 

友情ってものは必ずしも美しいってわけじゃないと思う。他人から理解不明であるという時点で、普遍的な概念じゃないもの。

それはそのまま恋愛が美しくないことに繋がる。私のなかでは恋愛と友情は地続きだ、、、もちろん両方ともから通行可というわけにはいかないが。

恋愛は友情抜きには成立しえない。恋人は親友でもなくてはいけない。そうして親友同士は排他的で、はたからみたら意地悪だ。

 

 

話がそれたけども

望まない大人に、もし私がなるとしたら子どもに接するときだと思う。

(とはいえ私は小・中・高時代の教師たち、塾講師たち と いま、大人としてお酒を飲みたいなんて決して思わない。彼らが私に子どもにするようには接さなくなったとしても、ふつうに人間として興味がないから。)

子ども時代の私にしたら大人はとても理不尽で、自分勝手で、無力で、思いやりがなかった。何事をも私のためにはしてくれなかった。彼らの腰は重かった。

それはもしかしたら、大人になる過程で獲得した ある種のズルを使っては子どもにはなにも伝わらなかったからかもしれない。二次方程式を習ったあとで、エックスを使わずに計算式を解くのが難しかったように。

あらゆることが潤滑にすすむのは柔らかい服の外側を物事がするすると滑っていくからだというのに、剥き身の子どもにはそんな服の摩擦なんてなくてぜんぶが肌に刺さるのに。

 

親になるのがじゃあ恐ろしいだろう。

私が息子に、娘に、「いまお母さんの機嫌悪いからあとにしよう」なんて思わせるときがきたらと思うともうそれだけで泣きたくなる。

 

自分が傷つかないために=(恋愛+結婚+出産+子育て)×しない

それが大人になるってことなら!完全にくそだね。

 

すべては新鮮であるべきで

新しいことは楽しくあるべき

飛び込む恐怖は常に好奇心にとってかわられるのだ

私たち そうあるべきだ そうやろう

 

 

 

そう、もう女友達は私を傷つけないことがわかっている。親しくない友人、興味のない人たち、男の人たちこそが私を傷つけるのだ。

外側のドンギバシな世界は 傷つけてきても大人の服で防げばよいが 男の人に対してはそうはいかない。

新しく男の人と知り合うというのはだからほとんど いちばん大変な仕事だろう。そこでしか深くは傷つかないようになった、ある程度大人の私。

 

 

あー、「わかるわかる」と思ってもらえる話しようと思ったのに結局自分の話になっちゃった

 

Don't give a shit though😆

 

 

待ち合わせ革命

 

 

 

「待ち合わせ」ってものが苦手だった。

まあ今だってちょっと苦手。なにしろ普段から継続的に会う友達がいないから、みんな大なり小なり久しぶり。そういうコンタクトというのは緊張するから。

でも、苦手だった理由は別にある。

 

けっこう厳しいほうだった。相手の遅刻に。

自分はちょびっと遅刻するくせに。

なんでなんかなあって改めて考えてみると、私は待ち合わせを「〇〇時にどこどこに行く」というスケジュールだと定義していたからだとわかった。

だから、〇〇時にどこどこにいない友達に腹を立てたし、ちゃんと自分は〇〇時に着いてるのに、なんであんたは遅れてくるわけ?と思っていた。

 

でも、待ち合わせって違うんだった。

その人と会うために 暫定的に書き込まれる予定なのだった。ということが最近わかった。

会えるならべつにどこでもいいのだ。

ぶらぶらしてたところに 友達が不意に合流するのだって待ち合わせのうちのひとつだし、その後にどこに行くかに 予定というのは 依る。

 

もう待ち合わせの与えるプレッシャーったらなかったけれども そう考えるともっと気軽なものに思えた。

物事は 見る角度によって変わるんやなあ。

 

 

これが自分のなかで最近起こった、待ち合わせ革命の話。

 

 

 

 

 

あともうひとつ。

私の好きな英語の言葉はだんぜん「Don't give a shit!!」(=気にしねえ、関係ねえ、クソどうでもええ、みたいな心意気の意味)なのやけど。

カナダにいるときに元恋人に教えてもらった言葉で、私はその言葉を聞いた瞬間から大層気に入った。

I don't give a shit about whatever they said to me!!って感じで、それまでの私にしっくりきたし、そこから日本に帰ってしばらくの間の私にも馴染んだ。

みんなが大事なものと自分の大事なものに相違があってもドンギバシ(Don't give a shit)やんかって思ってた。

でも 最近ずっと ドンギバシって言えなかった。そんな勇気なかった。give a shitしまくってた。

みんなが大事にしてるものを大事にできない自分がシット、くそやんかって思っちゃった。

そう思っちゃったことを自覚してたし、そんな自分を否定した。

元恋人と完全に別れたのが大きかったのかもしれない。彼はドンギバシな私が好きやったし、ぜんぶ受け入れてくれてたから。

 

でも なんか昨日ぐらいから ひとりでもドンギバシに戻りつつある気がする。

自分のペースが、とか 今は休眠期間、とかももうドンギバシ。

クリスマス一緒に過ごす恋人がいない、とか ひとりで眠る夜は寂しい、とかももうドンギバシ。

いやクリスマスはじゃっかんドンギバシじゃないかも。

新しいブログのタイトルにしたほど、スウィッチのアカウント名に設定したほど、大好きな言葉 DONGIVASHIを 私は自分のもとに取り戻しつつあるんじゃないか?

その言葉を見るたびに、自分はもうドンギバシじゃないのに、って ドンギバシやった自分が羨ましかったけど。

また ドンギバシに戻れるかなあ。戻れたらいいなあ。と思い中……これ自分の言ってる意味読んでくれてる人に伝わってんのかな?

ドンギバシって書きすぎてわけわからんくなってるね。

ドンギバシがそもそも、固有の言葉すぎるしな。

 

まあいいや、ダイエット頑張ってもっと魅力的になって、もっともっとドンギバシしてやるんじゃ👌

いまはとりあえず、いまはね、そういう気持ち。

 

 

 

豆大福頬張ってそうて言われるの

 

 

よく考えたら悪くないな

幸福そうな人間に見えてるってことやもん

うまくやれてるってことやしな

甘いもん与えてくれるおばあちゃんなんかいーひんし

ダイエットしてるから甘いもん食べたくないけど

和菓子食べる若者ってなんか印象良さそうやし