つまりは全部そういうこと

 

 

 

 

人工肉の缶詰め 分厚い鉄片で作られた丈夫なスプーン 食事の時だけ外すガスマスク

窓枠で四角く切り取られた隣のビルのグレイの壁 這う這う配管

ポケットだらけの服は煤だらけ 傍らにラジオ

たまの天気がいい日に屋上から見える遠くの煙突はいつでも火を噴いている

馬鹿高いのに粗悪な煙草は1日に1本だけ吸う唯一の癒し

 

とかいう世界

終わりの後みたいな世界

終わることを望んでいるのかもしれない

 

少女終末旅行』の漫画は持ってます。つまりそういうことです。

 

「つまりそういうことです。」って単体ではまったく意味をなさない、何かにくっついてても無責任で察しろちゃんな感じがしてあんまり感じがよくない一文であるな。

 

食べたいものをお腹いっぱい食べることというのは唯一無二の幸せなわけなんですが

その一方で飢えをしのぐというそのためだけに食べる、というのに途方もなく憧れてしまいます。

食べることは命を繋ぐこと(※ただし人間以外に限る。)

 

村上龍の小説に 「太っている人間は下腹が出て猫背になって重心が定まらず頭の位置がずれている云々カンヌンなので正常に物事を考えられない」って書いてました。

現代人には猫背が多い。そして私は太っていて猫背だ。つまりそういうことです。

 

生きるためだけに食べれば、太らないわけです。太っている野生動物はいないわけで、太っているという状態は自然ではないということです。

もはや、地球に生きる生き物の中で、デブは不自然で、排斥されるべき存在なのです!!

 

だから私は、なんというか生命を繋ぐ栄養の詰まった缶詰、人工栄養の缶詰を無骨なスプンでカッカッと音を立てて食べたいのですそうして生きたい生命を繋いでなんとか生きたい。

たまに安酒を飲んで。悲しみなんてみんなにとって標準装備だという顔をして。

しゅーしゅー音を立てて煙を漏らすダクト。コンクリートにひび割れ。ホームレスが十字架のネックレスを握りしめて死んでいる。信仰は救いのない世界でだけ美しい。

 

弱い人が淘汰されるなら私は真っ先に死んでしまうのだろうな。

 

ゾッ…

 

とする?

 

息をすることが身体に悪いような世界で上手いこと息をしていけるのかと。

つまりそういうことです。

 

 

おやすみなさあい

 

 

 

 

ひとりはうるさくて静か

 

 

 

このブログ、去年の12/10に始まってました。

つまり1年前。

え…!?1年前ってそんな……ほんまに?誰か操作してる?陰謀?

1年前の12/10のわたしは、寒くなさすぎることにびびっていました。その日のブログを読んでみると。

今年はめちゃくちゃ寒いぜ。安心しろよと言ってあげたい。

 

いやでもほんまに?そんなに、わたし、このブログとともに生きてきた!?信じがたい。1年というのは なんだ?長かったような短かったようなもうわかんないよ。

時というのはほんとに掴み所がないな。長さは同じはずやのに人によって体感がこんなにも違うなんておかしなものだ。

この1年、思い返せばたくさん書いたような気もするけど 言いたいことは全然書けてないような気もする。いつだってそうだ。言葉を尽くしても、本当のところは全然外には出せない。ような気がするだけか。本当は、言葉を尽くしてる最中には、全身全霊で全部を出せてるのかもしれない。

この1年で変わったことはなんだろう。バイト始めた、ゼミが始まった、サークルを辞めた、就活が現実的になった、…でもやっぱり本当のところは全く変わっていない。

いつまでも捻くれた、自虐的な、内向的な、独りよがりで独善的、無趣味で気まぐれ、太っている…ままだ。変わらない。

もうこの歳になれば変われないだろうな。社会人デビューという言葉はあれど(あるんか?)、高校デビュー、大学デビューという言葉よりはメジャーじゃないでしょう。

もう固まった。今ある個性は死ぬまで付き合うものだ。よろしくわたしのヒステリー。うんざりするけど上手く付き合っていかなきゃ破滅だね。

 

最近のわたしは、隠居生活をしているかのごとく静かに過ごしている。一人でずっと本を読むかブログを書くか荒野行動するか。本を全く読まない期間が明けて、馬鹿みたいに本を読んでいる。

本というのは、わたしの場合は本=文庫本なのだけれど、本というのは本当に、巡り合わせだ。世間の流れにこんなに乗らなくてもよいものもないなと思う。音楽も映画も、その節はあるが、本屋さんというのはCD屋さんよりもTSUTAYAよりも、時間を超越している。

だって、本には年代は関係ない。復刻版として改めて出版された100年前の小説と、1年前にハードカバーで出されてやっと今日文庫化された小説とがとなりに並ぶ。そのどれを手に取っても、誰にも何も意見されることがない。中身がエロくても。18禁のシーンがあっても。

さあ〜、あのさあ、18禁のエロ漫画もエロいけど、普通の小説の中のベッドシーンって目を覆いたくなるほどエロいよね。むしろ漫画より視覚的じゃない分イヤラしいよね。

あと、漫画からは匂いはしないけど小説からは匂いがするし感触もする。あ、もうエロの話は終わったんですけど。

例えばトマト潰す。漫画やと、ぐしゃり 白黒の、潰れたトマトの絵。トマトを潰したんやな、それで終わり。

小説では。トマトを手に取るところから書く。漫画ではせいぜいコマの隅っこで小さく描かれるようなことも、文章は視覚的ではないから細かく描写しなければならない。いちいち全部が瞬間的にでも主役になるのだ。

手に取ったトマトの赤さを描写する。頭の中のトマトに色がつく。手触り。感触を想像してトマトがリアルになる。それを潰す。グロテスクな音が何となく聞こえる。滴る果汁。緑色の種。トマトを潰した後の不快さまで伝わる。

別にどっちがいいとかどっちが悪いとかじゃない。そんな細かなことまでこだわる必要ないやんって人もいっぱいいるんやろう。漫画ではいちいち秋の空の青さに言及したりしないし、落ち葉を踏みしめる感触を伝えることはしないし、それは本編には関係ないから描写する必要も言ってしまえばない。

でも小説の良さはやっぱり、そういう本編には直接関係のないところに大いにあると思う。個人的なもの。絵は誰が見ても同じやけど、文章は読む人によって再現される世界がまったく違う。

だから読書家は内向的なのかな。自分だけの世界を持っていればそりゃ、閉じこもるわけでなくても持たない人よりは外に向かう意識は減るものな。

でも芸能人も著名人も芸術家も、何かを成したりする人には陽キャより陰キャの方が多いでしょう。自分だけの世界を持つことは、そんなに悪いことではないのでは?とそういうとき思う。

わたしは本を読むときだけ本当の意味で社会からみんなから離れて一人きりになれる。テレビもSNSもオンラインゲームも、本当にはわたしを一人にしない。

社会から離れて一人になることが良いことかはわからないけど、わたしにはそういうことが必要だというだけだ。

そして、それをしない人よりはする人との方が分かり合える気もする。それは気がするだけかもしれんけど。

 

今じつは授業中なのやけど、こんなにたくさんの人に囲まれているのにわたしは自分の世界の中にいる。ブログを書くのも、この1年でわたしにもはや大切なことになってしまったのかも。

いや授業きけ。

おつかれさまあ

 

 

 

 

世界平和はどうでもよい

 

 

 

『死を告げられた女』という小説を読了した。

 

最近、本を最後まで読めた試しがないので、よいリハビリになった。そもそも途中で放棄した本たちは面白いと思えないから読めないだけやったのか、、それならいいけど。

 

この作品は、イスラム国に唆されて自殺と同義のジハードに向かおうとするフランスの少年少女らを改心させる活動をする女とそのボディーガードが主人公のお話なのだけれど。ラストの救われなさがすごかったわけなのだけれど。

映画ゼミに入って 映画が世界の物事をリアルに教えてくれるのを知ったけども、元々私に世界を教えてくれていた、今も 教えてくれているのは小説だ。あ、あと、世界史の先生。教科書でも資料でもなくて、世界史の先生のお話だ。

 

世界史の先生というのは歴史の語り部だなあと思う。本当に。喋るのが上手でなければできないだろうなあ。そしてさまざまなことに興味がなければできない仕事だとも思う。

だからわたしは世界史の先生が好きだ。話が面白いというのは何にも勝る長所だし、世界の歴史を語る姿というのは魅力的だ。何が正しいか何が正しくないか知っているのだと感じる。

 

さて、世界史において語るのを避けられない、むしろそれこそが世界の歴史だと言えるのが、宗教である。イスラム教、ユダヤ教キリスト教…etc

上記の3つは同じ神様を信仰している。なのに争いは絶えない。どれを信仰するかっていうのは生まれた家や地域に寄るのだろうか。

わたし達日本人には、宗教というのは本当にわからない。こんなにも常に常に常に世界中を悩ませている宗教問題の、日本は、蚊帳の外なのだ。

世界の人々は本当に宗教に基づいて、神に背かないために、戦う。命をかけてでも。わたしにしてみれば、目に見えないものを有り難がるがために死ぬなんて!と思うわけなのだけれど、神様が、教えが、自分という人間の根底にあるのだろうことを、わたしみたく全くと言っていいほど想像できない人間になにかを言う資格はないのだろう。

無神論者のアラブ人と、クリスマスを祝う日本人では「神を信じない」という点では共通していても、その実まったく違う。日本人には、周りにすら 宗教を信じる人がいないから、想像もつかない色々なことがある。

これは恐ろしいことだなあと思う。

宗教のために自爆テロをしたり、人を大勢殺す事件を起こしたり出来る人がいて、世界の人たちにはその気持ちがわかる、つまりイスラム原理主義者やキリスト原理主義者の考え方やそれに基づく行動などを想像できるというのに、日本人には どこまでいったら危険思想か、危険思想を持つ人がどんな行動に出る可能性があるのか、まったくわからないのである。

 

わたし自身、外国人と密に関わったことがない。今まで一度たりとも。それどころか日本人でさえ、自分とは違う世界の人だなあと思うと拒絶する。同じこと以外を許せはしない。

そう思えば、陽キャはいろんなことを受け入れられるだろうから、外国人とも仲良くなれるのだろうな。偏見か。何事も陽キャに任せておこう…。

わたしは本当に 怖くない人と関わるので精一杯なので、だから周りに困っている人がいても、それが自分の世界の外なら見て見ぬ振りをしてしまうと思う。余裕のある人がそういうのはやればいいのだ。わたしには余裕がない。みんなお願い。世界平和は、陽キャに託した。

 

宗教の話したかと思えば世界平和を祈る暇はないと逆ギレするブログ…やばいな。

情緒不安定な自分について行くので手一杯!

おやすみなさあい

 

 

 

 

きらくなひとり

 

 

 

悲しみというものは理解されて然るべきと思っていたフシがある

こんなに悲しいのだからそれなりの待遇をしてもらいたいと思っていたフシがある

 

まあほぼ 過去形ですらない "思っている"に限りなく近い"思っていた"だが

誰に対して、というわけではなく 世界に対してそう思っていたフシがある

のだけども

 

悲しみは自分だけのものだと 前から口にして(口にしてというのはこの場合文章にしてという意味で)はいたものの、本当に心からはそう思えていなかった 現実に適応できていなかった

 

でもなんとなくほんとにそうやということが最近わかってきた気がするのでこれからは悲しみは自分だけのものだということを 肝に銘じてやっていきたい。

 

悲しいときはひとりぼっちで泣くしかないのだ。

理由のない悲しみや 孤独感による寂しさには となりに人がいるということは プラスに作用するのだろうけど

理由のある悲しみや 本質的な孤独感には 他人は関係がないのだろう。隣に人がいたって 困らせるだけであるし、事情を知っていることと 実際に経験していることはまったく違う。

 

 

 

 

ところでまあ最近わたしソイラテにはまっててスタバにわりと行くのですけど

自分がソイラテなどと、ソイ!などというものにはまるとは思ってもみなかった。だってソイッやで?そんなパリピみたいなもんにはまると思うか?わたしインキャですよ。インキャがソイラテにはまるなんて思ってもみない

でもソイッにはまったんですよね〜。

それで今日、家から出る予定がゼロ(全然珍しいことでもなんでもないねんけども)やったので、これはいかんな〜、なにしろ ワックスが足に落ちて来て バチバチにキレていったぁーーーー!!って叫んだぐらいしか口を開いてないわけで、いかんいかんせめて店員さんとぐらいは、話しとかなな、と思って 近所のスタバに行ったわけですよ。

すっぴんで。でも髪の毛は、ちゃんと、ヘアアイロンあてたから セーフかなと思ってるんですけど、セーフかなと思ってるくせに、すっぴんだったら人と目を合わせられないんですよね。スタバの店員さんなんて 「あっち側」じゃないですか。インキャには わかると思うんやけど、明らかに「こっち側」ではない人間たちやからなおさら、まあきょどりましたね〜。きょどるぐらいやったら、お化粧していけやと思う限りなんですが

まあ 一人で 窓際のソファ席に座って そこは 窓に向かって一人がけソファが置いてある、お一人様にもお二人様にも使っていただける席なんですけど、それでまあブラインドも下がってて、だからわりとゆったりと、座ってるわけなんですけど

気持ちが 緩んできて初めて、カバンを、その、斜めがけのやつなんですけど、外して 徐々に、上着を脱いで、膝にかけて、それでやっとまあ一息ついて ソイラテを口に運んだり ぼーっとしたり ケータイを触ったり 荒野行動(スマホシューティングゲーム)をしたり できるわけなんですよね。

そんで、やっとくつろいだと思ったら 店員さんが すいませーん、って言いながらブラインドあげて、しかもなんでかわたしの前のブラインドだけ、ね、なんで?あれなんでやったんかなあ、帰って欲しかったんかなあ、と思うわけなんですけど、なんであげたんかな。あれ。すいませーん、て言ってたけど、こっちに拒否権はなかったんかな。

まあそのー、窓の外に植木あるとは言え、夜でしょ?いや、夜だったんですよ。夜ってほどの時間ではないけど冬は暗くなるのが早いじゃないですか、ほんで夜ってだって、室内は明るく、室外は暗いわけじゃないですか。そしたら 室内が室外から よく見えるわけじゃないですか。そやのに、なんでわたしの前のブラインドだけあげたんかなあ。別に 見られる!キャー! とか思うわけじゃないけど、なんか 嫌なんですよ、なんか、ね?嫌だ…嫌じゃない?

 

とか言いながらまあ一杯のソイラテトール(ホットで。)で2時間粘ったんですけど。シースルーの窓の前で。

思ったのが、一人って楽やなあ ってことで、多分そうは見えないと思うんですけど、一人って楽やなあって思ったんですよ。

だって 一人でいたら 相手に何も求めなくていいじゃないですか。まずもって相手がいないから。

例えば 誰かと二人でスタバ行って 相手がずっとスマホ触ってたら寂しいし嫌な気分になる。暇やし。手持ち無沙汰なるし。「ずっとスマホ触んのやめてくれへん?」って言える相手であれば、今相手がやりたいことを否定することになるし、否定してまで相手とやりたいことも別にあるわけではなく。言えない相手ならば我慢してまた嫌に退屈な時間を過ごすしかなく。

どっちにしろ 苦痛なわけで。いやそういうあれがない人となら いいですよ、そりゃあ、何ってないこと喋ったりできたならそれが一番いいですけどね。

でもまあ、求めたくないんですよ。求められたくもないし。

求めたくないのは、相手の負担になって嫌われたくないからで、求められたくないのは、相手の期待に自分がそえないからなんですけど。

だからまあ、一人焼肉も いつかできる日がくるのかもしれないなと、思うわけですよ。

おひとりさま、いいじゃないですか。やっと本当の意味でおひとりさまを理解できた気がした日でした。いい日。

あまりの寒さとおまけして小雨に、スタバに向かってチャリ漕ぎながらちょっとニヤケてもうたけど、ニヤケの内訳は「なんで用事もないのにこのクソみたいな天候の中チャリ漕いで一人でスタバいっとんねん」って感じです。でも、それでも、まあ行ってよかったということですね。

別に初めてスタバ一人で行ったわけじゃないですよ!一人で、牛丼屋さんまでは行ったことあるし、カラオケなんて 高校生の時から一人で、行ってるし!!できるし一人でなんでも!!!!!!!!

 

とか言ってるわけですけども

なんやらすごいなあわたしって。イベントがゼロの日やのに 2500文字も文章を書いている。軽いレポートやな。もはやこれ。内容はないようですけど…ん?

ほいでまあ明日はバイトなんですけど、最近暇すぎてもはやバイトですら楽しみです。暇ってすごい。

 

じゃあみなさん、今日一日きっと大いに活動されたでしょうし、なにしろ華金ですからね、インスタとかを大いに更新されたでしょう、おつかれさまです。

おやすみなさあい

 

 

 

毎日がクリスマス

 

 

 

今日 授業で代理出産の話をやったんですけど。

なぁーんか人類って命を弄んでるよなあって思ったな〜

弄んでるし 持て余してるし やっぱりちょっと なんか…

生きていくことって、変に頭良かったら難しいんやなって思います。頭良かったら、というか 応用力があったら?人間にはあって、動物にはない脳ミソのシワ。

そゆの、無い方が幸せに生きられるよね。

受け入れることしか する必要はないと思う。個体としての個性、性別や障害や性格や特性やら。

 

そう、冬がね。いよいよといいますか とうとうといいますか きましたね。

外に出るときの もういや! ってなるくらいの寒さ。これを求めてた。求めてたくせに外出るの嫌になってるのはこれどういうことやと聞きたいところですが

冬は研ぎ澄まされる。頭が冴えるから、記憶が蘇りやすい。いろんなことを思い出す(思い出してしまう)。

空気が鋭くて、それが肌を刺すから、女の子は肌の白さが増して可愛くなる。頰がしもやけで赤くなって可愛くなる。

クリスマスの歌は 嫌でも足取りを軽くさせるけれどあれは一種の、というか紛れも無い、洗脳だ。

パブロフの犬だ。we wish a merry christmasと聞こえればなにかを考える前に同調し口ずさんで足はスキップする。それによって強制的に楽しい気分になり こんなに楽しいなら何か服でも買おうかなという気持ちにさせられる。そういえばクリスマスの置物とかも見に行こかなと思わされ、行けばまた新手のクリスマスソングが延々と流されているためさらに楽しくさせられる。そして結果的に 赤色と緑色の置物や、白いニットや黒いブーツなどを買ってしまうのだ。

これは陰謀だ。全ての企業の、国を巻き込んだ陰謀だ。国は巻き込まれてないか。

だから正気の人間は 街に繰り出さないようにする。家にこもるべきなのである。しかしそれにも対策は既に練られている。私たちには逃げ場はなく、企業に死角はないのである。女はキラキラしたものが好きなのだ。キラキラしたものは冬のツンとした空気に良く合う。余計にキラキラが綺麗に見えるのである。それを見に行くために女たちは都会に繰り出す。さながら誘蛾灯である。バチンッと殺されはしないながらも十分に搾取される。

 

 

 

 

まあ。

クリスマスは好きなんですけど。普通に。

大学とかキラキラしてるし。夜になると。

いいじゃないですか、ねえ?キラキラしてることはキラキラしてないことよりいいでしょ?たぶん。

それでいうとまあ、周りの大学生たちが体に電飾ぐるぐる巻き、競うようにキラキラしているというのに わたしは下を向いて常にスイッチオフなわけなんですが。

キラキラ、したくねえなあ。したくねえからしてねえわけだが 望むと望まざるとにかかわらず、光っているものは眩しいのである。

光らないと見つけてもらえないなら見つけてもらえなくて結構。元来誰の目にもつくように光るつもりもない。

 

とかいって尖ってるふり。キラキラする勇気も燃料も、ないだけだぜ。

逆に負のオーラ放つ。ブラックホールはみんなを吸い込めるからいいよな。ホワイトホールは全部吐き出せるからいいよな。

存在するだけで肯定をされたいというのは常日頃わたしが言っていることではありますが

そんなこと。あるはずもなく。

 

誰かにとってプラスでないと 存在は肯定してもらえないのです。

イルミネーションのキラキラは、誰かが綺麗だと思ってくれるからこそ 毎年毎年設置されるんでしょ。キラキラしてるだけで 有り難がられるわけではないし。キラキラすることでなんらかのメリットがないとだめでしょ。

 

でもわたしたちのプラスって別に お金でもコネクションでもなくて ただ一緒にいて楽しいと思ってもらえれば肯定される

けど楽しくなければデリートされるし楽しい人間じゃないとね。

ご機嫌な人でないといけない だって いくらほんとは楽しくない人間、不機嫌な人間であったとしても そんな人とは誰も一緒にいたくないもんね。

ありのままを誰かに受け入れてもらう、なんて、根っこのドスぐらい人間には絶対に無理だから絶対に望んではいけないことだ。

ご機嫌な人でいなくてはいけないのですよ。

 

っていうのはこれ自分に言ってるわけなんですけども

ご機嫌な人でいられないなら その期間は誰かと一緒にいてはいけないよね。

 

わたしね 黄色という色は全然好きじゃないけどイチョウの黄色は好きなんだ〜

秋の空の青とイチョウの黄色はほんとに組み合わせとしてこの上ないほどグッドだ!

あれは自然界の色の美しさを痛感するよな〜。

世界遺産では、ワールドヘリテージでは、自然遺産より圧倒的に人工物の方が好き。

 

好きなことをやってたいと思うけど好きなことが特にないから 四肢を投げ出して肉体を放り出してふかふかのふわふわの何かの上で陽光を浴びたい。春。七分袖と七分丈で。

 

 

 

おやすみなさあい

 

 

 

えむわんかんそうだらだらかいたよ

 

 

 

 

 

M-1おもしろかったなあ。

1回目のジャルジャルが わたし的に 『M-1グランプリ2017』という番組のなかで 折れ線グラフの頂点やと思いました。

やりきったジャルジャル。悔しくて髪の毛くしゃくしゃの福徳くん、喋れへん福徳くんをフォローするかのごとくボケる後藤。

ネタ自体も 一番爆笑したし。もともとジャルジャルが好きなのは そうなんやけど。

松っちゃん、別に好きじゃないねんけど ツボがわりと同じやから ジャルジャルに95点つけててやっぱ松っちゃんわかってるわ となったし 巨人が「アホにはわからんネタですね」って言ってたし、実質優勝ちゃうん?

 

でも 敗者復活戦みたら 三四郎天竺鼠が面白すぎて 決勝出てたら優勝してたやろと思いましたけどね。

マヂカルラブリーの枠さあ、、、スーマラに回してたらよかったやんって思ってさあ

みんな 漫才に王道を求めるくせに 邪道で、かつ、単純に面白いと感じる人の少ない マヂカルラブリーがなんで決勝行ったのか謎やわあ〜

挨拶だけは好きやけど。「野田です。のーだーです、野田です。」

 

個人的には 敗者復活のメンツだけみたら 絶対霜降り明星がくるやろうなあと信じて疑わなかったんですけど

今日 実際見てみたら 全然おもんなかったどころか、前に見たことあるわりと有名なネタを改悪してやってて なんか間も悪くて 緊張してたんかなあってなりました、残念やったなあ〜でもまだ芸歴浅いからまだまだ出るよね〜

 

とかなんとか 感想を述べてるわけなんですけど

お笑いなんて それこそ 好き嫌いやし より多くの人に好かれる人が 優勝するんかなあと思うわけで

とすると 松っちゃんみたいに好みのはっきりしてる人や 大吉と礼二みたいに現役で漫才やってて 漫才とはこうや!みたいなものを持ってる人が審査員したら いかんのでは?と思うな。

 

まあ、たかがテレビ番組に いろいろ言うなって話なんですけどもね

 

それにしても優勝 とろサーモンて おめでたいけども ぜったい和牛でしたよね。

だって 和牛も 俺らやん!って 思ってたもんぜったいあれ。ネタやった直後から絶対思ってたわ。

優勝者決まった時の水田くんの顔ったらない。あんなん見てられへんわあって思いました。

とろサーモン面白いけど 一本目の方が面白かったし、なんか、2回目のん、「優勝したネタ!」って感じじゃなくなあい?ってこれもわたしという好みの偏りまくった一個人の感想でしかないんですけども

 

個人的に優勝はジャルジャル、優勝すべきだったのは和牛、敗者復活を勝ったのが天竺鼠三四郎やったらもっと波乱の大会になったやろ!! などと思いました。

 

 

 

最終的に、お笑いも 歌も 1つの基準に当てはまるべきではない、自由で解放されたところでみんなが楽しむべきもの やと思いますねえ

でもお笑い賞レースは楽しいから すっき!

人を笑わせられるのってすごいし。M-1面白かったあ〜〜

 

 

おやすみなさあい

 

 

反省だ…。

 

 

わたしってもうめちゃめちゃに都合のいい思考回路をしてましてさあ

このブログ 万人受けする内容ではまったくないから、そんなに周りの人に見られてると思ってなかったんやよな〜

文章って なによりも 書く人の中身が見えてまうものやと 思うんですけども だから どこまでをかいていいのか どこからがかいたらあかんのか 全然わかってなかったんですよね〜

とかいろいろ なんか 言い訳してますけど、、、この、ネットに対して全部を晒しといて みんといてみんといてほっといてーーー!!って言ってる状態なんですよ…この、今の心情。

読者が干渉してくるとは思ってなかった!というか、、、

 

このブログ、自分が思ってることを 整理するためにあって、アウトプットの手段なのです、わたしにとって。

言葉で誰かに聞いてもらえるわけない話を ぶちまける場で、人に喋ってるときに 言ってから あ、こう思ってたんや自分!って思うこと 多分みんなあると思うんやけど それが わたしには このブログでさあ、、つまり、これは日記ではなくて、誰かに聞いてほしい話で、わたしは自己顕示欲がものすごいので 誰かに聞いてもらえへんかったら、独り言じゃあほんとのことを呟かれへん人間で、でもその誰かは限定できなくて、だからこのブログに書くと…

そんで書いてるうちに あ、自分こう思ってたんや!と知ることは多々あって、そんくらい深いところを晒してるわけなんやけど、やっぱりあんまり見えすぎる位置に置いてはいけんかったな。

というか、見える位置に置くならば、たとえ自分に一番近い人のことであったとしても、自分を語る上でその人が必要不可欠やとしても、自分以外の人のことについて書くべきではなかったんですね。

いやあ、彼には申し訳ないことをしました、、、

晒してる以上 みんといてほっといてー! は、見当違いなので、わたし、気をつけます。これから。

誰かに文句言われたとか注意されたとかやないんやけど。

反省だ〜

 

 

そういえば最近長編小説をかこうと頑張ってるんやけどめちゃくちゃ難しくて心折れそう。

全然進まへん。

誰かに聞いてほしいがために書くことと、誰かを楽しませるために書くこととは、まったく違うということを 当たり前のことやねんけど、改めて感じる日々。

 

大学生になると標準装備として麻雀ができるようになると思っていた。

できないままもう三回生。

窮屈だ、、、

 

 

 

 

おやすみなさあい