ミジンコプール

 

 

 

ある日ね、歩いていたらね、地面に水が溜まっていたんですよ。昨日が雨だったらわかるが昨日は晴れだし今日も晴れ、それなのに水が、コンクリートのデコボコに、溜まっていたわけですよ。

これはどうしてかしらと思うわけなんですがもそもそ、じゃなくてそもそも、地面に水が溜まっていることに拘泥した記憶がここ数年なくて、ということにはた、と気付いて、そうか、これを水たまりと言うのだったな……。大きくなればため池、もっと大きくなれば釣り堀、もっと大きくなれば湖、最後まで大きくなれば海……。

大人になってから水たまりを眺めることなんてないのは、水たまりの中に魚が泳いでいるかも!という期待をしなくなるから、っていうのは辞書に書けるくらい確かなことであるんだけれども、小生は、間違えた私は、魚がいるかもしれないという気になって水たまりを覗いてみたのだ。そーっと覗いてみたのだ。

するとどうだ いるわけですよ魚。虹色に光る。何匹か泳いでる。数はちょっと、数えられなかったけれども。

はあ〜……と思って、そういうこともあるんだなあ〜と思って、ないことはこの世にないから。オゾン層が破壊されて、今まで透過されなかった種類の光がこの水たまりに届いて、そして小生の、間違えた私の目に、見えている感じのやつかなあと、いうのは今考えたんだけれども。

ふむふむと思いながら、とりあえず靴を、コンバースコンバースの靴を、の先っぽを、水たまりに入れてみるとぐにゃり。

ああ?

変な形に捻れてしまったので、気持ち悪っ!と思って急いで足を戻した。

しかしこの世にはばかる気持ち悪っ!という感情は全て、無知から来るので、わたしはそういうのをもうやめたいとちょうど思っている時期だったので、もうちょい行ってみようと思って、そしてつぎは思い切ってばしゃん!

そしたら足の裏が全部吸い込まれてしまってなくなっちゃった。だから今私の足の裏には足の裏がないんだよね。

無理くり引き剥がして、まだこの世界にてやりたいことあったから、どこであれどこかに行くのは惜しいし、もしこの水たまりがブラジルまで繋がってる穴だったとしても、まだサンバの踊れない私に日本に帰る術はなく、糖分に溺れて死ぬだけだと思ったのもあるし、だから引き剥がして耐えた〜!と思って一人で冷や汗かいた。

それがまあある日というか一昨日の話だって、なんで思い出したかと言うと、今さっきテレビで、カンボジアで足の裏が大量発生してるっていうニュースやってたからなんだよね。ひとしきり大爆笑して落ち着いて、コーヒー飲んでるわけなんだけれどもいや〜……靴底を持っていかれなくてまじでよかった……。あのコンバース気に入ってるからな、でも気に入っているからと言って同じ種類のコンバースを二足目買うのはなんか違うなと思ってる節があるからさ。

でもまあみんな雨の匂いのしない水たまりにはまじで気をつけてよ。

 

 

水の匂いの日々

 

 

 

「お風呂あがりのギャランドゥ」から、ブログの名前を変えました。

ギャランドゥ、そこまで好きじゃなくなったから。

今日観た映画の題名が『アメリカンスリープオーバー』だったから。スリープオーバーってお泊まり会という意味なんやけど、いい単語やんって思ってさあ。

わたしって青春映画を観ても、重ねる青春がないから胸がしめつけられることがない。それでも清々しく青臭い匂いがするのは、友情や恋愛に曲がりなりにも触れてきたからだろうか。

 

中学生の頃、気持ちが沈んで二進も三進もいかない期間のことをみんなで「病み期」と呼んでいた。これって全国共通?ケータイの予測変換に出てこないから、今はもうない言葉なのかな。

その病み期だって、もしかしたらホルモンバランスから引き起こされていたのかもしれない。しかし当時のわたし達はまさか、自分の感情さえも肉体に縛られて引きずられているとは考えもしなかった………。

大人になっていく体に戸惑うばっかりで必死についていこうとして、ちぐはぐでそれがなんとも言えず辛くて………病み期。

周囲に自分が病み期であることを伝えて、了承してもらっていた、みんなが、みんなの、心の状態をなんとなく、把握していた。

不安定な子はたくさんいたし、詰め込まれて窮屈な思いを共有していた、のかも、しれない…。

 

今、わたしがあの頃のままの言葉を使うならば絶賛「病み期」だ。あんまり人と喋りたくない、いや本当は、喋りたいのかもしれないけど、エネルギーが湧いてこない…。

自分を自分のままにまるごと肯定できるのは自分だけだというのに、それを自分でできない期間は辛い。誰も認めてくれないからだ。誰かに認められたいなら、まず自分が自分を認めなくてはならない。と思う。

誰かが共感してくれるのは、きっと自分が心の底からいいと思っているものにだけだ…。

 

欲張り。

ありのままで大衆に受け入れてもらおうとする人は欲張りだし、図々しいと思う。

しかし 羨ましくもある。嫉妬している。たぶん。

 

わたしの毎日はずるずると全部繋がっていて、あるときぷつんと切れて、昨日の自分とは様変わりしてしまうが、その瞬間はそう多くはないし、だから、率直にいうとワンナイトラブができる人間はすごい。

お酒を飲んだからって別人になれるわけではないはずなのに………

っていうのはものの喩えで、だから、何事をも割り切ることができる人が羨ましいという話だ。べつにワンナイトラブをしたいわけではなくて ものの喩えだ。

すべてがずるずると意味を持つ。ずるずると繋がって離れない。全部がわたしに帰結する。ことが恐ろしくて動けない。

全然自由ではない。羽根はあるし飛べるが、地面に打たれた杭にしっかり結ばれた紐がわたしの足に繋がっている。いつもそうなので遠くまではいけない。

あるいは………きつく結ばれていない紐を振りほどくのを非難されるのが怖いのかもしれない。

どっちがより本当かは わからないけれども。

 

なんとなく憂鬱で 日々を浪費している、しているingな気がしているけれど

そんな自分を肯定できないなら、その憂鬱自体を肯定してしまおう。

今は。

いつになくポジティブな憂鬱ジャン。

 

 

おやすみなさあい

 

 

 

気が狂わないか?

 

 

 

むかし、友達が

「うちの兄ちゃん、毎日が繰り返しやってこと高校生になるまで気づかんかったらしい」

って言ってて爆笑したんやけど、

みんながそれに気づいたのはいつぐらい?

 

毎日が同じように単調に過ぎるのは、でも、学校教育のせいやんね。さまざまな細々した違いはあれど、晩御飯が昨日は生姜焼きで今日はピカタとか、そういうのはあれど、毎日が同じ色をしていた。

感情なんてそんなにまだ発達してなくて、バリエーションは少ないし、たぶん、それは語彙が少なくて 自分の感情につける名前がわからなかったからかもしれないけど。

 

だから、わたしは、「義務教育時代に戻りたい」という人の 本当に 気が知れなくて、わたしサイドから見たら、気が狂ってるのかと思うね。

あんなに窮屈だったところに!?あんなに自由のきかない、あんなに意味不明な主張が空気を占拠していた場所に!?あんなに排他的な場所に!!?!?

…ってのはたぶん、それにちゃんと染まることのできた人と、染まることのできなかったわたしの様な人との、差ではあるのだが…。

いい思い出がないわけじゃない。最低最悪の気持ちで毎日過ごしてたわけではない。でも、二度と戻りたくないね、学校になんて。

何があった?思い出してみてよ。あの、教室という狭い部屋に、グラウンドというコンクリの上に土を被せただけの埃っぽい作り物に、申し訳程度に、植えつけられたアジサイに。

社会の基礎を覚えることも、ある程度のふわっとした 常識という基準に触れることも、世の中の秩序を保つには大切なことやと思うけど。

一人の独裁者、未知の大人の独りよがりが百パーセント通るなんて異常だよ。

 

わたしは部活をしてこなかったんだが、だから上下関係というのが苦手で、先輩後輩と先輩後輩という関係のままで仲良くなれたためしがない。難しいねんな、距離の取り方が。

先輩てのは特に厄介で、「失礼なやつ」と思われたらもう、可愛がられはしないでしょ。でも、その「失礼」の基準がわからへん。わかりたくもない、唾ペッペ。

気持ち悪いじゃないですか。たかだか1年か数ヶ月か、早く生まれただけで、失礼も無礼もないでしょ。そういう基準が存在することがまず、気持ち悪いんですよね。

だからそんなとこから脱却した破天荒な先輩か、人として尊敬できる先輩としか仲良くなれない。

 

当時はやることなくて暇で暇で脳みそ腐るかと思ったけど、今では 部活やらなかったからこんな考え方ができるようになったのかなって思うしそうなったら部活やらんでよかったわって思う。友達は全然増えへんかったけども。ていうかしてても馴染まれへんかった。ていうか部活してても染まらへん人はおる。

つくづく、理由のない強制から避けている人生だ。

 

理由のない強制、理由のない頑張り、理由のない共有ができない。

でもできたらなんだというのだろう。できないと上手いこと世を渡れないだろうが、わたしにとって世をどんぶらこどんぶらこと渡ることの意義がわからない。

わからないものは嫌い。嫌いなものは遠ざける。

…………こんな風にいつまで生きていけるやろうか。いつまでだってこんな風にいたい。死ぬまでね。

変わりたくない。今の自分が好きだ。しかし、自分がそう言って守ってやらないと周りの目が鋭くて痛いので、やむを得ず好きだと言うしかないとも言えよう。

髪を染めたことで顰蹙を買っているかもしれないけれどもわたしの感情は無限大なのでどれだけでもペイしよう。溜めた顰蹙ででっかい球を作ってマントルに打ち込もう。

 

結局自分語りなんだから嫌になるけど自分語りする用のブログであるからな。

まあよし。

 

おつかれさまあ

 

 

スタバの大学生ぇい

 

 

 

もうやめてくれよ、おい、なあ

尊敬できる点のないただ自分より先に生まれただけの人間のこと先輩と呼ばないかんのか、お前らは

飲み会の話しかできんのか、〇〇先輩の話しかできんのか、もっと実りある話をせえよ……

 

 

と隣の女子大生たちおそらくなりたて、の話が嫌だ嫌だと思っても耳に入ってくるので思う。

なあ。自分というものを持てよ。

 

でも自分もそうだったのである。1回生の頃は付き合いにお酒が必ず絡む、年上たちの魅力にキラキラしていたし、色とりどりの私服がチラチラひらひらしている緑あふれる構内、に目をピカピカさせていたのである。

恥ずかしいけれど 仕方ないよな。いや恥ずべきことだと思うよ。でも恥ずべきかどうかなんてわからなかったんやから。だれも彼女たち(わたしを含む)を責めることはできないよ。

環境に適応するのに必死なんよな。客観的になってる暇なんかいっこもないしな。みんなと同じにしてればとりあえず馴染めるんやからな。

 

願わくば、彼女たちが大学生であるうちに、きちんと自分の頭で物事を考えられるようになりますように………

タバコを吸う年上の横でにこにこ相槌を打つことが全てだと思い続けて大人になりませんように。

お酒の流れで夜を共にすることが正義だと間違っても思いませんように。

みんなと足並みを揃えながら、自分だけ抜け駆けしているようなつもりになんてなりませんように。

YouTubeTwitterまとめサイトだけで事実を断じてしまいませんように。

女として見られることだけが人間としての存在を肯定されることだと勘違いしませんように。

自分だけが自分を最強だと思えるのだから、自分だけが自分を最強だと思えていますように。

 

みんな健やかであれ〜。

ちゃんと育てよお願いやから、くだらないつまらないままで大人になるなよ。

頼むよ、読書をしてお酒を飲んで異性と喋って身体を大事に、麻雀やビリヤードなどの大学生じみた遊びをしたり、夜の公園で桜を見たり花の名前に詳しくなったりしてくれ。

失敗を重ねてくちゃくちゃの新聞紙みたいに見える大学生活を送ってくれ。

お腹の脂肪みたいな生活を送らないでくれ。

 

 

 

 

おつかれさまあ

 

 

追伸、エンタメ小説を書けるようになりたいと思ったけどいろいろ考えないと書けなそうなのでやっぱりやめです。純文学目指します。

 

 

 

ウイスキーロックノーチェイサーあやっぱチェイサーあり!

 

 

 

昨日、久々にお友達と飲みました。二週間ぶりの居酒屋。

そのお友達とは、飲食の量と速度が同じくらいなので めちゃくちゃ楽しく飲食ができます。

そこで、居酒屋で二人暴飲暴食ののち、前から気になってたバーに行かない?と提案しました。彼女は快諾。美点の一つ、ノリがいいんだよな。

ほろ酔いで向かったバーは、あまりオープンな雰囲気ではなかったんですけど、友達は「こんにちわー!」と言いながら入っていきました。マスターは白髪のロン毛を一つくくりにした、渋いおっちゃん。

そこからわたし達はまたお酒をたくさん飲んだ。途中でマスターが喋りかけてきてくれて、話はとなりのお客さんのおっちゃんにも広がって、みんなでお酒を飲みながらお喋りした。

楽しかった〜、バーってあんなんなんやね。最高やん。

友達が「チョコレート食べよう!」と言って、わたしがマスターに「チョコレートに合うお酒ってなんですか?」とか聞いて、初心者向けウイスキーを見繕ってもらって、「ロックで」って言って、お水のことをチェイサーということを、教えてもらって…

酒瓶が溢れる 狭い店内で おっちゃん達とマスターは親しげに喋ってて、わたし達も酔っ払って笑って、なんてない話ばかり、重ねたけれどこういうの、すげえいいなあって思うわけでさあ。

友達も、「うわあいいなあこんなん、大人やあ。大人になってもこういうの、やりたいなあ〜」ってご満悦で、そのことにわたしもご満悦で、みんなご満悦やったんですよ。

みんなご満悦の 空間て それはもう まん丸じゃないですか。この世を望月に例えることはわたしはしないですけど、あのバーのあの時の空間を望月に例えることには大いに賛成、という感じでありまして…

とにもかくにもわたし達満ち足りて、すげえいい夜やったんですよ。昨夜。

なんか もっと早く行けばよかったな、とも思ったんやけど いや、このタイミングやからこそこんなに楽しかったんかなと思ったんですよ。

4回生でね、あと1年もないわけで、大学生としてこの街にいられる時間は。

でもそこから、やっぱ登山だって9合目からが本番て言うじゃないですか。9か8か忘れたけど。だから大学生活も、もしかしたら4回生にならな、ほんまの醍醐味って味わわれへんのかなと思ってさ。だから、全然もう、ああこの3年何してたんや〜もっと早く行動してれば…とは思わないわけですよ。

今やからこうなった。今やからこんな自分で世界に接して、いろいろ感じてそれをスポンジみたいに吸収して嬉しくなったり悲しくなったり楽しくなったり泣いたり怒ったり喚いたりする。

全部がカラフルで なまものの鮮度で、そして、この手の中にある。

「詩は感情でなく経験で書く」わたしはこの言葉に大変に救われた。そうだ感情なんて条件反射で、誰でも持ってて誰でも表現できる。

大事なのはその感情をどんな風にどこに結びつけるか、何を見てどう思ったか、自分だけでなく相手の感情も揺さぶることができるか、

だから若いままでは何も、何を何にも、昇華できるはずがないんだよな。

若さこそが価値やと、思ってたけど違うねんよな。

ウイスキーをロックでちびちびのんで、チェイサーの意味も知っている。

大人にならなきゃできないことが、どんどんできるようになっていく。

そういう経験からこそ、詩はできる。小説が書ける。

わたしは 断然経験からなにかを書いて、みんなに届けたいと思う。

エンターテイメント小説をめちゃくちゃ書く人になったるからな!頑張るぞ〜

 

なんか昂ぶって1日に2つもブログ書いてしまった。

とにかく昨日は楽しかったあ、ありがとうね、友達。

おやすみなさあい

 

 

創作技法の授業課題

 

 

 

下記の文章は、「創作技法」の授業での課題、「描写をしてみよう」というやつです。

 

 

 

 

 

 

 

  午後の早い時間。構内を歩くと今日という日の光量に驚く。
  太陽は家に帰り始めごく小さな角度ではあるが傾いて木を建物を人を照らす。理科の授業で習ったみたいに真上から照らすより斜めから光を入れた方が屈折とかなんとかをしてめちゃくちゃ輝くのかな、と思うけれど根拠とか科学なんて本当にどうでもいい、くらいにただ、空気が、酸素の粒子が、しゅわしゅわ輝いているのだ。弾ける炭酸。素晴らしく嬉しい午後はサイダーのなか。
  いっそう存在感を示しているのは若い若い葉をたくさん抱えたイチョウの木。葉っぱの一枚一枚が、大層な気合いでもって輝いている、小さな表面積で、目一杯の陽光を浴びて吸収して増幅して放出。生まれたてのセミが鳴きわめくわんわんと響くカオス、がただ立っているだけの木、から確実に感じることが、できる。「あっとーてき生命力」!
  人間の群れの上で鳴り続ける大音量の産声に似た音の塊。あ、ふ、れ、る、緑みどり み ど り !その下で何にも気づかず見ようともせず、地面ばかり見て歩く二十歳そこらの人間たちは死んでいるのと同じだ。
  死んでいるのと同じ、仮死状態の若い生き物が溢れているのだ。自然界でそんなご馳走が放置されるはずがないのでやっぱりすかさず根が伸びてくる。普段はニュースとかになったら嫌なので大人しくしているのだが、実はイチョウは変幻自在の根を持っているのだ。
  根は無駄な動きをしない。すっと伸びて音もなく、伸びて人間を、人間に巻きついて、動きを止める。捕食する際はまず餌の自由を、奪わなくてはならないからだ。それから首に根の先端を突き刺す。刃の鋭さは要らない、代わりに木には力と上背がある。難なく血管を突き破り、一滴も無駄にせず根っこで血液を飲む、飲む、飲む。人間は干からびてしまうけれども、元から死んでいるようなものなので倫理的にはなんの問題もない。
  動物の血は真っ赤であるのに、イチョウの若葉は、さやかな緑をしている。輝いている。輝きを増している。
  割れたコンクリートと盛り上がった土。湿った大地の匂いが辺りに充満し始める。本当に全ての血液を持っていかれたらしい人間の見た目は奇しくも枯れ木に似ている。生臭い匂いも血の匂いも全然しない。なんて清潔な食事だろうか。
  ……自分が立ち止まっていたことに気づいて、図書館へ向けて再び歩き出す。空は馬鹿みたいに晴れていて、だからこんなに粒子が輝いているのだが、それだというのに私は、うっかり感動してしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上が

作家の先生に褒められて、いいものもってるて言われて、びっくり嬉しいやばやばぴーなので ここに書かしてくださいってやつでした。

デビューしたら教えてねとか

プレッシャーに弱いでしょ?ゆっくり自分のいいと思ったものを書きなさい とか

そもそも課題出してすぐ読んでくれはったことも嬉しすぎるし

わざわざ 井上さん、読んだよよかったよて言ってくれるとか嬉しい嬉しいがバースト

グループワークした子たちも ファンですて言ってくれたりとか表現褒めてくれたりとか教科書に載ってる詩みたいって言ってくれたりとか

なんか最近肯定されすぎてやばい

昨日も友達と飲んでたら 読んでるよ、て言うてくれてほんまに嬉しすぎたし

どれが一番嬉しいとかじゃなくて全部嬉しくてそれが今日飽和点に達してバーストしました

 

 

はい。

文章書く人になりたいな。書く人にはなってるか、それで食べていける人になりたい。なりたすぎて吐きそう。

 

 

おんな

 

 

 

 

『百円の恋』をみました。

あれほどまでにガツンと、女優!な映画はあんまり、日本では、みないんじゃないかと、思いました。

 

みおわってすぐフィルマークスに感想書いたんやけど

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言いたいことはしょうみこれだけです。

あと、ポエティックなのは いつもや、とかは言うな。フィルマークスでポエティックになったら、食べログを日記みたいに使ってる人みたいな痛さがあるかなとおもたんや。

 

まあでも改めて感想を書く、書かざるを得ない気持ちになったので。

 

最近、「女として生きる」とは、みたいな話に凝ってるので 今観られてよかったなあと思う映画だった。圧倒的安藤サクラ。映画は人生だっていうのを体現している。

 

いま世界では男女平等が声高に叫ばれているが、夜中に一人で歩けない時点で男でなく、女として生まれたことはだいぶ損だ。

女はイイヨナ

売春すればブスでも稼げるシー

専業主婦にナレバー

最終的に子供ウメバー

男の人はいろいろ言うかもしれへんけど、男の人には到底わかりはしないのだ客観的に見たって女が損ってこと。

まあ、男として生きたことないから男の苦悩はわからないんですけどね、はっはっは

でもセックスだってそうや、男は突起物を穴に突っ込んでくぁ〜気持ちええ〜ってなるだけやけど

女は 身体をこじ開けられて 内臓を圧迫されて揺すられて 快感を得る以外にいろんな苦を伴うし

出産だって 女しかできひんのに おかしいやろ、出産の負担で死んでしまう人だっている、そうやって痛みに強い身体の仕組みをしてるくせに、男より圧倒的に非力で、殴られてホテルに連れ込まれたら抵抗もできないなんて。

 

でも女として生きる。女として生まれ落ちたから。

死ぬまで降りられないリングに上がったら、戦うしかない。パンチ食らっても負け続けても惨めでどうしようもなくなっても悲しくてもゲロ吐いても病んでもポエム読んでも、ああ、ずっとずっと女なのだ。わたし達。

 

作中で主人公・一子はボクシングを頑張る。試合に出たいと熱望して、コーチは渋るがなんとかセッティングしてもらう。

勝てるかどうかわからない試合に、でも一子は両親を呼ぶ。仲がゲキワルの姉を呼ぶ。姉の一人息子を呼ぶ。元カレを呼ぶ。勝ちたい勝ちたい勝ちたい、頑張る、ナイスファイトだ、でも負けてしまう。

最初から 勝てる相手ではなかったのだ。それなのに一子は超頑張った。勇姿を見た姉は、めちゃくちゃ一子と仲悪いのに、大声で応援してしまう。目も潤ませちゃう。

「頑張ってる奴が嫌い」な元カレも、一子に熱い声援を送ってしまう。

女として負け続けの人生だった。32年間守り続けた処女はクソみたいなおっさんにあっさり奪われるし。ニートやったし。言うなれば負け犬の一子。

でも、負け負け負けでも戦う。そこに意味があると、ボロボロの顔の安藤サクラをみて思った。

負けてる姿をみんなに見せる。それでも頑張ってるんだよ、わたしは別に負けたくて負けてるわけでもないし、勝ちたくてもがいてる、ほら見てよお願い見てくれよって。

そして一子は 根はいい奴なので 見てくれる人がいる。もがいたらたどり着ける場所がある。

 

もう一子は ホテルで強姦されることはない。バイト先の社員に、蹴られることもない。太って重たい体を引きずってコンビニに行くこともない。姉と取っ組み合いの喧嘩をすることもない。

戦ったからだ、強いから、反発できる力を持ったから

ああ、ボクシングやろうかな。いややらへんけど。

どうにかこうにか戦うすべを 一子はボクシングで手に入れた。今まで負けやったけど あんなに勝ちたいと思ってるんやからいつか勝てるやろう。

人生に勝ち負けなんかないけどね。でも誰かと比べて自分が劣ってると常に思い続けるのは不幸だ。

一子頑張れ。後付けの愛を手に入れろ!

 

ってまた何を言いたいのか支離滅裂になっちゃった〜

百円の恋、いい映画!クリープハイプ最高!観るべきと言ってくれた友達ありがとう!

 

 

 

おやすみなさあい