ポケットに文庫本

 

 

小説なんてものはゲームやYouTubeとおんなじ娯楽だ。

たちが悪いのは、話題の共有が難しいこと。

「あのゲームどこまで進んだ?」「あのユーチューバーの新しい動画みた?」、他の媒体には通用する楽しい仲間とのお喋りは、小説には発生しにくい。

読書というのはいろんな意味で閉鎖的な趣味だ。小説を読んでる途中の人に、人は話しかけづらい。

いいことと言ったら 他の娯楽より推敲がちゃんとされてて、正しい二字熟語を学べること?

とはいえ実用書みたいにすぐに生活の役に立つ即効性もないし 自己啓発本みたいに自分に自信を持たせてくれるものでもない。

 

でも私には、大事なことや救いは、すべて小説が与えてくれた。

 

「活字が好きなんやね」「ロマンチストなんやね」

そうじゃない、もっと実際的に 私には小説が必要だから読んでるんだ。

 

タイトルではっきり示されたことを順序立てて論理的に教えてくれる、バラエティ豊かな実用書と比べて、小説にはいつも同じことが書いてあるかもしれない。

いつも真実の愛とか家族愛とか孤独とか絶望とか、要約すれば一言で終わるようなことを長々と書いてあるかもしれない。

私が読む小説の、どれをとってもメインテーマは等しく同じかもしれない。

でも、私は言い換えを必要とする。

本質、メインテーマ、の周りを何度もぐるぐるぐるぐるぐるぐる回ってやっと見えてくる本当のことがある。書き手が伝えたい、真実の事柄がある。この世の真理がある。簡潔に一文で表されたって到底信じられない、疑い深い人間なのかもしれない、私は。

信用できる文章を書く人の訴えることはほんとうだと思う。

だから私はそれを指標に生きている。

 

VRの装置をつけなくても他人の人生を追体験できるのは、文章を読む力が自分にあるからだろう。

小説のなかで描写された夏を、暖房のなかで思い起こせるのは自分が小さい頃から夏をきちんと味わっているからだろう。

花々の美しさを、花の名前をなぞるだけで頭に咲かすことができるのは、自分がそれらを教わってきたからだろう。

 

算数が数学が英語が、

もし育っていく過程で要らなくなっても学ぶ必要がある科目なら、

国語もぜったいにそうでしょう。

 

私にとってチイちゃんのかげおくりが、くじらぐもが、森の音屋さんが、あたたかいスープが(ぜんぶ国語の教科書に載ってた小説!)大人になっても深く心に残り、そらで内容を言えるほどどこかで大切であるのと同じように誰かにとってもそうなのだ。

そしてそうであることでなんらかの人生のきっかけを掴み、生きてこられた人は、いる。

普通の人間代表のような私がそうなのだから、たくさんそんな人間はいる。

 

映画や小説を必要としない人間がいる。

強い人たちだと思う。

怖い人たちだとも思う。

だって 創作物を必要とする弱い私を容易く無自覚に傷つけてきそうだからだ。

臆病なのだと思う。自分だけが没入できる決してオープンワールドじゃない限られた無限の、親切にすべてが言い換えられた、わかりづらいのにわかりやすい、世界が必要なのだ。ときには逃げこむために。

 

そしてそんな世界が、悩める小さな子どもに必要ないとどうして言えよう?

家庭に圧迫される中学生に、進路に悩む高校生に?

 

想像力不要の、偏った、母国語さえ正しく使えない人が発信するツールで満足出来る人は、どこででもやっていけるんやろうな。

ボディーランゲージだけ使って世界一周もできるし、世界中に友達も作れると思う。

羨ましい。と同時にそうはなれない自分が好き、小説好きの読書人間なんてこんな捻くれた自己愛をぐちょぐちょにして心に持ってるからたち悪いのですわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

追記

 

まあ

絵画展で「表現するって、いいよね〜」とか言ってた髪色奇抜な大学生風の女二人組

Twitter(200何文字?)の感動ショートショート(笑)書いてるやつ

「ユーチューバーが耕したYouTubeという土壌を芸人は土足で踏み荒らしてる!」って喚いてるYouTubeファン(?)

ぜんいん、ムカつくんじゃ、腐った脳味噌耳から垂れ流して暑さのなか溶けたコンクリートの一部になってしまえ✌︎✌︎✌︎