すきなもの

 

 

 

鉄板焼きになど連れて行って貰えば、

黒毛和牛とか霜降りとかナントカランクとかじゃなくて アメリカとかオーストラリアの血が滴るようなお肉が食べたいなあ

と 胃を悪くし、気分も悪くなってしまう人間です。

スーパーで買った1パック600円の牛肉を2日かけて食べて幸せになります。

30過ぎたら高いお肉は食べれませんなんて言うが、私は20過ぎでもうこれである。

 

 

 

好きなもの、

映画『ウォーリー』で、終盤に 未来人間たちがそれぞれ顔を合わしてお喋りをする喜び分かち合うシーン。

未来人間たちは 全員 動く椅子に座って生活しており、骨は退化し、全員がでっぷり肥り、そして家族とも友人ともとにかく画面越し、リモートでしか会話をしたことがない、って感じなのだった。

そんな彼らが 古ロボット ウォーリーの起こしたちょっとしたアクシデント、動く椅子の進路妨害、そこから生じたちっちゃ事故によって初めて、生身の人間とアイコンタクトをとるのだ。

え!?こんなとこにいたの!?状態だ。

レーンの上を毎日、隣り合わせでみんな移動しているのに まったく顔を合わせずに生活していたから。

 

 

小説『パレード』(吉田修一)の冒頭、ルームシェアの一室からは国道が見下ろせる。主人公は、よくもまあこんなに車がいて、事故のひとつも起きずに全員が従順に、列にならっていられるなあと思って見ている。

前の車が動き出せば 次の車も動き出し、so on。

しかし 物語の最後で これは小さなネタバレだが、主人公が見下ろすその国道で、主人公たちが見ているその場で、衝突事故が起こる。

ある種のメタファー。主人公たちの部屋でも、誰かの仮面が剥がれる。隣同士 文字通り枕を並べて眠っていた者同士の、でも、見せてこなかった一面。本音の邂逅。

 

 

近頃 クーラーの効いた電車の密室。

全員がスマホを触っていて、自分の世界のなか。

なんとなく プールの後の教室のような、夏の図書館のような雰囲気が漂っているのは、みんな 自分の身体をほっぽりだして 完全にプライベート、弛緩しているからなのだろう。

なにをしてもバレないような気がして、席に座った私は足をばたばたしたり 斜め向こうの人の服装を舐めるように見たり 全員の靴を確認していったりする。

そうするとたまにぶつかる視線。私も ランダムな相手も びっくりしてしまう。

あ、いたのか。

ここに人、いたのか。

 

あの感じ。

 

 

 

 

 

話変わるけど 共感力が異様に高いため、

誰かが笑っていると笑ってしまう。

代わりに 想像力が著しく欠けているため、

誰かが泣いているとその激しさや音にだけ笑ってしまう。

 

想像力。

 

 

 

今読んでる途中の本で、「あなたはすぐに返事をするのね」と、咎めるようなセリフがあった。

本来、打つと響くような速さで 言葉を返すということが、なにかを繕う以外の意味であるわけがないのだ。

その場の ふ〜いんき。

 

誰か知り合いと話しているとき、

これ 「あーーー」「いーーーー」「うーー」でも変わらんな、と思うときがある。

思いやりや 相手の調子を慮るようなリズム、相手に寄せる興味のカケラもお互いになく、そして、そのことが共通認識として通ってしまっているような会話。

言葉を使う必要のない会話をするとき、それならもうべつに初めから言葉なんて要らなかったと思う。

そもそもが私たち、「愛してる」を伝える方法が「愛してる」という言葉でない、そんな言語を使っているのだから。というのは完全なる飛躍です。

 

オクユカシサが意味を欠くとき、次に結ばれるのはどんな像なのか????

 

 

 

 

 

ちゅーてすきなものの話しよおもてイキヨーヨー書き出したのに結局なんかいつもと同じようなこと喋ってモーター

喋ってません。書いてます。

 

 

ほな!