もっと

 

 

 

 

あーあもっとさあ 遠くの県の冬のバス停みたいな小説が書ければいいのに

夜の海の風みたいな 表札の上の手のひらサイズの雪だるまみたいな 朝に食べる焼き魚とお味噌汁みたいな…

 

最近、頑張って小説を書こうとしてて

そしたら、耳をすませばの ワンシーンが浮かんできた

「洞窟の中で光る石を探すしずく、どの石もキラキラして素敵にみえる、見つけろ見つけろと急かされて、ひときわ光る石を見つけて手に取ったら ドブ色のカエルやった」という夢のシーン

思いついたときには、書き出したときには、なんて素敵な物語なんやろう!と思うのに、書き進めていくうちに そのアイデアは大量生産のお弁当のお漬物みたいなものやったと気づく。

きっと耳をすませばを書いた人にも、そういう経験があるんやろうな。

 

 

「大量生産のお弁当のお漬物みたいな」という表現は、完全にクリープハイプの「美人局」って歌からなんですけど

その歌では「弁当箱の漬物みたいな」って表現なんですよ

「大量生産の」ってわたしが、修飾したのは、よりくだらないもの、チープで陳腐なものってイメージを強く印象づけたかったからなんやけど メロディに乗せやなあかんから、歌にはいろいろと制限があって その中での 簡潔な 綺麗に整理された 文章が 歌詞であって

でも、歌の中の「弁当箱の漬物みたいな」で もう、くだらなくてチープで陳腐な感じを表現できてて、わたしの使った「大量生産の」って修飾は、普通にいけば蛇足なわけですよね。

歌では 完全に 綺麗な形でないといかんから、切り捨てられやなあかんけど でも散文やったら そんな要らないものでも ばんばんつけてもいいから つけて ごたごたと表現するわけで 散文はだらだらと長くなるのは 無駄な表現がたくさんあるからなんかな。

だから みんな歌に感動するんやろうなあ

感情がむき出しやのに ちゃんと詩的なんやもんなあ

でも まあ小説が好きな人は、そんな無駄こそを愛してるんやろうけども。

 

そう思うと 小説書くのは 誰にでもできるし 簡単なんよなあと思うけど

誰にでもできるからこそ 弁当箱の漬物になりやすいわけで

洞窟の中から 本当に光る石を見つけることができる人の小説しか 読むにたえないし…

 

あーーー耳をすませば観たい!!!CMなしで!ハウルも魔女宅も観たい!!!!

磨かれ済みのキラキラ光る宝石を観たい!

 

…コナン、面白い。

いま、ベイカー街の亡霊 テレビでやってる。

観ながらブログ書いてるから あんまり集中してない。

ホームズは昔にはまって何冊か読んだけど面白かったな。

ああいう、欠陥系主人公が好きすぎる。

 

 

おやすみなさあい

 

 

路カラ

 

 

 

 

わたしの嫌いなものというのは実にたくさんあるのですが、そのうちの一つに「路上カラオケマン」があります。

これはもしかしたら誰かを傷つけることになるかもしれないし、もしかしたらまったくの的外れなことのかもしれないけれど、

伴奏流れるスピーカーとツイッターのID書いた板、前に並べて梅田で歌 うとてる奴が本当に嫌いだし耳障りだ。

申し訳ないんやけど自己顕示欲の塊にしか見えない。

 

まず他人の歌を上手いこと歌ってドヤ顔をすな。それでもな、自分でギターでもピアノでも弾いてるんやったらわかんねん。自分の音楽に、ある意味では、してはるんかなあと思えるし。

でもちゃうやん、伴奏の音源を流して歌うのってそれもうカラオケやん。なんで路上ですんの?路上でする意味ある?路上で秦基博をハスキーボイスで歌う必要、ある?

 

たしかに、屋外で歌うのは気持ちがいい。声がどこにもぶつからずにどっかへ行ってしまうのは楽しいでそれはわかるよ。

せやけどな。梅田のあの人の多い信号前とかでやな。馬鹿みたいに大きい音でカラオケ音源流して歌う意味がどこにあんの?マイクでめいっぱい大きくした声を流す必要がどこにあんの?

そんなに人前で歌いたいなら、たくさんのツレとカラオケにいってくれ。ほんであわよくば女をその歌のうまさでお持ち帰りしてくれ。地元で噂になってくれ。ツレに曲のリクエスト募ってくれ。

そんなんはなんぼでもしてくれてええねん。わたしが求めるのはただ一つだけやねん。

路上ですな。なんで路上でカラオケすんねん。梅田の街はお前のカラオケボックスか?

 

現代はおかしなってると思うねん。変に自己顕示欲を満たすことができるツールが多すぎんねん。誰でも多少満たされることができるし誰でも発信者になれるやろ。それがあかんと思うねん。公開オナニーがある程度の閲覧数と反響を得られるようになってんねん。だから見苦しい奴がわんさか出てくんねん。

 

ほんまに、自己顕示欲の化け物が多すぎると思うねん。かくいうわたしも自己顕示欲は豊富に備えてるわけやねんけど

誰も彼ものやることが全部目につきやすすぎんねん。片隅でなにかをやるってことができんくなってんちゃう?

 

まあ。知らんけど。

 

こんなに熱弁しといて、梅田で実際それ目にしても「音うるさ」って独り言いうだけやけど。

せやし他人の歌路上でカラオケして、なんらかの自信を得て世界に、羽ばたく人もおるかもしれんしね。

音楽の楽しみ方なんか人それぞれやし。

どうでもええねんそんなことは。だってみんな、やりたいことを目一杯やればええんやから。ただ、人に不快な思いをさせん範囲でな。

 

おやすみなさあい

 

 

数行ごとに主張がかわる

 

 

 

 

 

中学はめちゃくちゃ狭かった。狭い中で自分と似たような人がたくさん居た。みんな馬鹿みたいに個性を主張した。違うことは当たり前だった。

高校は狭すぎた。狭いし、自分とあまりに違う人ばかりで、どうやらみんなにとって違うということはとても重大な罪のようなものらしかった。生きづらさを学んだ。

大学は広すぎる。けれどもきちんと塀はあって、その中で共通点を持つ人たちがたくさん見える。仲良くなるには遠い距離、喋らずにいるには近すぎる距離にみんないる。

 

違うということはいいことだ。それぞれが独立した一個体であることがわかるから。

違うということを捨てるとき。個人は消えて集団しか見えなくなる。この、恵まれた現代で本当にそれはもったいないことだ、と思う。

まったく同じ制服を着ても自分であり得るということが個性だと思うのだけどどうなのだろう。

個性、個性ってなんだ。

いま、個性というのは とても大事で、それを守るためにみんな、戦うが

派手な色の服を着て派手な色の髪をすることはもはや「個性的」という一種のジャンルであり、見た目において「個性的」というのは性格における「口下手」「陽気」などと同じような意味での「タイプ」の一つだと思うのだ。

つまり、だから、「個性的」とジャンル分けされるような見た目をしているだけでは、その人の個性は表せないということ。

 

でもどうだろうみんなが黒や茶色の服を着て街を歩くのをドローンで例えば俯瞰して見てみるとして。赤い服を着ている人は単純に目立つだろう。

女の子をみんな横並びに整列させて、ずあーっと右から左に顔をカメラで映していったとして。真っ青のアイシャドウをつけている子は目立つだろう。

普段黒い文字で書かれている文章の中に一つだけピンクで書かれている単語、太字で書かれている単語は目立つだろう。

世に言うインスタ映えも、いかに色鮮やかであるか、その一点がただただ重視されている。濃い赤や青やピンク色は単純に目を引くのだ。

 

でも逆に。

音で溢れたCMの中で無音で映像だけを流すCMは目立つ。

髪の毛を金色や青色にして服もまたビビットなものを着る人しかいない場所で、頭からつま先まで真っ黒い人は目立つ。

全部がピンク色の文字で書かれた文章の中で黒い文字は目立つ。

「みんな同じ、その中で一つ違う」ことで目立つことができる。

 

それがなぜ目立つのかというと、「みんなと同じでいる」というためだけに自分の言動を決めてしまわないからだろう。

個性を持つ、ということは、みんなと同じ、を行動の理由にしない、ということか。

 

でも、学校指定の制服を着なければ退学にさせられるとなれば制服を着る。

9時出社の会社に勤めている人はいくら夜型の人間であっても遅刻しないように努める。

 

ということはこの社会では、"できる範囲で" 個性を守らなければならない。

逆に言えば、「個性を守る」ために 生活を犠牲にする意味はないということだ。

 

面白くなくても笑わないといけない。ダサい服でも着なくちゃいけない。馬鹿みたいな決まりに従うのは嫌なのに、従わないといけない。

そうでないと社会の中で生きていけない、社会の中で生きていけないということは、安全ではないところでひとりぼっちにならないといけないということだ。

 

個性を主張するために ひとりぼっちになってしまったら 個性を認めてくれる人にさえ出会えないということだ。

 

これはまったく…どうしたことだ。どうして自分が着たい服を着るというだけのことがこの社会ではできないんだろうか。

スーツや制服だけじゃない。服には流行りがあり、セオリーがあり、それらから外れるともうだめだ。普段着であっても、「ここからここまで」の線はあって、その間を外れることは許されない。

どうして自分がしたい髪の色さえも試すことができないんだろうか。

どうして自分がしたいことを、お金がない、時間がない、とかいうそんな、本当には存在しない概念みたいなものに縛られて、みんなできないんだろうか。

 

本当に。不自然が過ぎる…

別に就活(しなきゃという)ストレスでおかしくなってんじゃないよ。

ありのままでいることがなんと難しいんだろうとたったそれだけのことに頭を悩ませているだけで。

受け入れてもらえるか否か、それに一喜一憂して、なんだか、馬鹿みたいだ。

 

すべてが受け入れられるべきなのだと思う。

はじめからみんな、違う人から生まれたり 違う顔をしていたり 違う脳みそを持っているというのに、見た目がちょっと似ているからってどうして全部おんなじじゃないといけないんだ。

同じじゃないとコントロールしにくいからだろうな。違ったら厄介なんや。管理する側は。

 

すべてが受け入れられるべきで、どうしても受け入れられないものからは離れるべきだ。

わたしはそう思うから、わたしだけは、それを実行したい。それが自然だと思うから。

 

うんざりするできごとは、本当に、この世に、多いな。

思い通りになるのは、思いの中だけだ。

おやすみなさあい

 

 

 

すこやかなるとき

 

 

 

 

 

ねえ、元気してた?

わたしは不思議に健やかで元気です。

こないだブログで言っていた、世の中に対する慈悲深い姿勢ももう治りました。でも猫背は治りません。にゃぁ〜ん

とか言ってね〜まあほんとに穏やか。ゼロです。今、なんだか、胃の洗浄の 感情版。感情の洗浄後。こっからまた春が来るのかと思うと この穏やかな気持ちのままあったかい日差しの下で日向ぼっこがしたいなと思うね。

 

求めないでいられることのやすらかさ。

笑ってだけいられることの清々しさ。

 

渋谷すばるは 幸せに不幸のどん底を見る男なんですけど、あるいは、歳をとって彼も、今はそんな風には思っていないのかもしれないけど。

上がるから下がる。下がるから上がる。ずっと中くらいでいられたら、簡単に小さく幸せになれるんじゃないかな。

 

 

たんぽぽってあれ、折ったらベトベトの白い液体が出て、すごい嫌よね。

 

 

わたしっていうのは大人に好かれない性質で、だから必然的に仲良くなれないんです、先生と。

根本で大人を拒否している節があって、だからそれを大人側もわかるんでしょうね。なんとなく。この子は私に取り入る気がないというか、私の入る隙間はないんやというかそういう風に感じるんやろうな〜

それでだから、子どもだった時に大人を好かんくて、大人になっても子どもの心を持ってる人にだけ、あるいは子どもの立場に立てる人にだけ、構ってもらえるんですよ。

そうやな〜、生涯の中で正しいことを教えてくれた先生なんて 二、三人しかいない。

バイト先の 店長に 「年配の人はそれだけ君より経験を積んでるんやから、一応は話を聞かないとだめだよ」と言われたことがあって、わたしはもうまったく、まったくもって納得せず、浸透感ゼロの返事をしたものなんですけど

でもほんとに、この人は何を見て何を聞いて何を読み、何を感じて生きてきたんだろうという大人はたくさんいるんですよ。ほんとに。いませんか?そこかしこに。

これには二つの意味があって、「何をして生きてきてん(クソやな)」と、「何をして生きてきてん(思考回路が自分と違いすぎてびっくり)」というあれなんですけど、まあ…

自分が子どもであった頃を忘れた大人と 子どもであった頃に上手いこと先生に取り入って折り合いつけてた大人の言うことは まったく信頼できないな。という話でして

 

じゃあわたしのいう子どもと大人の違いって何なんやろう。

わたしは、もうまず間違いなく子どもに属するってことは、わかるんですよ。たぶん、客観的に見てもそうやと思う。じゃあ わたしの中で子どもっぽいと思われる部分を抜き出せばよいのか…?

「頑固・感情的・おもてることが顔に出る・TPOを思考の外に追いやることがある・身の回りの環境について不完全」

とかですかね。それをそっくり逆にすると

「柔軟・冷静・感情が顔に出ない・TPOを弁えた行動をとる・身の回りをきちんとしている」

これが大人ってこと?

いや、ただの「ちゃんとしてて冷静沈着な人」やん。

結局だから、職場を持ってて、そこでは仮面を被ることができる人が大人なんかな?

 

でも、わたしが思う わたしの敵の 大人ってもっと違うねん!

利己的で 子どもにレッテルを貼るのが好きで 人のこと考えてるみたいな顔をしてほんまは全然考えてない、みたいな奴!

そしてわたしが出会ってきた先生にはそんなんが多かってん!!

 

……まあね、そんなん言うてますけど

最近、言葉について興味があって。「思考は完全に言葉に依拠する」と本で読んで、だからでもそれはその通りやなと思ってて。

子どもと大人の違いも、恋愛と友情の違いも、それぞれの単語がなければ なかったんじゃないかって思います。

子どもは自然に大人になる らしい でも その人がその人であることは変わらない。

勝手に、でかい人を大人、小さい人を子ども、と分類しているだけだ…たぶん。

ただ一つ言えることは "大人"になりたくないということだけ。大人になるとしても、わたしの数少ない好きな大人たちみたくなりたいなあ。

自分の人生を自分の人生のまま、楽しみたい。

 

おやすみなさあい

 

 

女の子はバキバキスマホ持ちがち

 

 

 

スマホの画面が割れた。

 

スマホの画面が割れたというとララランドの主人公のミアを思い出す。夢のようなミュージカル映画の中に 主人公の持つバキバキのスマホは影を落とす現実。

でもわたしの人生はミュージカル映画ではないから、スマホの画面が日常に亀裂を走らせるわけではない。

 

それでもなにか決定的なことが起こったみたいな気持ちになった。

もう取り返しがつかないのだと思った。

カバーが割れてるんじゃなく、画面の方が割れている。だから尚更、取り返しがつかない。

 

それはだから「戻る」ボタンの不干渉の位置。

スクショの届かない位置。

実際に、物理的に壊れてしまった。

ロフトの上から落として。大きな音がしてそれでも、実際に割れているのを見るまでは割れていないことを期待した。

 

対峙した画面には禍々しい亀裂。

 

なにもかもについて 本当は 目に見えないだけで 取り返しのつかない一瞬をつねに失っている。

人との付き合いだってそうだ。

失ったものは二度と戻らない。バキバキに割れてしまった画面はもう二度とまっさらには戻らない。新しくスマホを買わない限りわたしのスマホは文字の見にくいバキバキ画面だ。

新しく買うしかないのだ。そうしてこのバキバキ画面のスマホを忘れるしかない。それしか前に進む方法はない。

 

取り返しがつかない。ゾワっとさえした。たかがスマホ。でも今のわたしは移動時アンド授業中以外ずっとスマホを触っている。されどスマホだ。されどスマホすぎる。

 

ああこの喪失感。

気をつければよかった。もっと大事にすればよかった。可哀想なわたしのスマホ

でももう遅い。受け入れて切り替えていくしかない。悲しいなあ。

 

なんてことない普通のスマホの話。

おやすみなさあい

 

 

かたわれ探し

 

 

 

 

 

最近まあちょっと病んでるんですけど

というのは不健康という意味で

だからまあ不健康というのは体のことではなく心のことなんですけど

それはなぜかというとわたしが誰かとセットでいられることがゼロだからなんですけど

セットでなくても誰かと一緒にいることより一人の方が心が休まるし一人の時にしか本来の自分でいられ得ないな、と気付いてしまったわけなんですよね。

 

一人で下宿している家に帰ると心底ほっとする。

それがわたしはとても悲しい。

なので世界人類を愛することにしたんですよ。

だから、他人に 親以外の顔の見える誰かに、愛を向けることができないなと思ったので もう 顔のない人たちを愛そうと。

本当に慈しみの心で溢れてるわけなんですよ。

だから 人々よ幸せになってくれよ…と本当に思うし、愚痴を言ってる人を見たら ああ事態がなんとか好転しますように…と本当に思うし、不意打ちを受けて予期せぬことに心を乱されてる人がいたら、ああどうか心の波立つことなく穏やかでいられますように…と思う

でね、もうね、そうなったんですけどね、自然と。でもそれってめっちゃさみしーって思って

世界を見るとき、目は世界の外なんですよ。

人々の幸せを願うとき、わたしは人々から外れて本当に一人になる。

 

そんなことが健全なわけないじゃないですか。

だからわたしは今不健康なんですよね〜

 

顔の見える誰かを本当に愛せるのはたぶん、酔っ払ってる時だけだな。

飲みの席で 人々に一体感を持たせるのは お酒でしょ。

でも シラフの状態って 一体感もクソもないじゃないですか。ただの寄せ集め、烏合の衆じゃないですか。

それってめちゃくちゃ恐ろしくて、だって、わたしじゃなくていいんですよ。てことは、わたしの価値を見せつけないと いないことにされるわけで 人々の中においてわたしはなにも、プラスになれるものを持っていなくて

だからいわば丸腰でジャングルですよ。ボイトレなしの歌うま王決定戦ですよ。念能力なしの闘技場ですよ。

 

でもね 別にいいんですよ この胸には愛が溢れてるから…FIN

 

ああ

今日ねゼミの先生がね「人生の目的は自分の片割れを探すことかもね」って言ってて

ああああああ〜…って、まあ、思うじゃないですか。

この時代においてこんな素晴らしいことを言う先生のゼミに入れたことを超嬉しくも思ったんですけど まあそれは置いといて

片割れ…!

それこそ江國香織の 『アレンテージョ』で 恋人達が初めて出会ったときに「こんなところにいたのか」ってね、片方が言うんですよ。ね。「こんなところにいたのか」。どう?どう思う?

この作品こそわたしが江國香織にズブズブにはまったきっかけの短編なんですけどまあ今はそんなことはよくて

そんな風にね、片割れを見つける瞬間(こんなところにいたのか!)、そしてそれが束の間であってもながーくであっても一緒に過ごす時間。それを得るためにこそ生きるのだと。

逆にいえばそれ以外のところでどれだけ不幸であっても、片割れを見つけられたなら幸せなのではないかと。

それが全人類にあてはまるわけじゃないけど、一部の人にはね、それだけでいいんじゃないかと

いう話ですよまったく。どう?

素敵すぎひん?そして真理だ。わたしの中ではね。

 

そうして 「愛してる」も「ずっと一緒にいようね」も嘘だとしても 一緒にいる瞬間に心から口に出せばそれは真実になるんですよ。

ねえ、これはゼミの友達とかが言ってたんだけど、どう?「わかるボタン」があればあそこでわたしは30回くらい押してたなあ。

べつに作り物に見えたって 嘘っぽく見えたっていいんですよ。片割れ同士が一緒にいて事態は完全無欠のまん丸ですからね。まん丸が永遠でなくてもべつにいいんですよ。一瞬でもまん丸になれたなら。

 

そうしてそんな片割れを 一体どれだけの人が見つけられるのだろう。そんな存在がいることすら現代人のほとんどが知らなそう。小説の中の出来事やったとしてもわたしはそれを信じたいし、信じられるほど心が豊かなことに感謝したい。

 

心が豊かやからといって 片割れ以外と時を過ごすことができなければ 人間として欠陥なんですけどね。

演じることをやめたい、お酒しかやめさせてくれない…わたしがほんとのコミュ障だな。とほほ

 

でもわたしは人にちゃんと愛されてることは知ってるし人を愛してるんですよ(愛されてるってのは順番云々ではなくてだから、愛着に近い意味でね。気軽な重さで)。ただ一緒にいられないだけで。

片想いだなあ、、、人類への。辛いぜ。

 

いつかわたしも完全無欠最強無敵になりたい。それかもはやなった後?まん丸をもう体験したのかな。だとしたらまあ、もういいか。じゃあ何のために生きるんじゃ?

 

なんにしろ考える時間だけはたくさんあるので、いろいろ考えてゆきましょう。あーはらぺこ

おやすみなさあい

 

 

 

朝になる前に会っておこうよ

 

 

 

ああ屋根裏部屋に住みたい

ベッドの横には窓 窓の中には月

 

生き物と習慣的に関わらなければ生死を超越した存在になれる

「死んだ」という言葉は実感を伴いにくい

存在するのが当たり前だから不在が際立つのだ。それに打ちひしがれるのだ。

だから誰とも 何とも 関わらなければよい。一人でいればいいのだ。

思い出すときにだけ その人は死ぬ

つまりそれ以外の時は依然として生きているのだ、わたしのなかでは。

その方がいい。

お葬式なんてするから悪いのだ。いた世界といなくなった世界を完全に分けてしまうから辛い。

 

ナルトの。

写輪眼でみんなに幻覚見せて妄想の世界で生きさせようとする敵。

それで商売したらいいのに。みんなに押し付けるから悪いんやん。そんなんオウム真理教と一緒やん。

妄想の世界で生きたい人にだけ術かけ(じゅつかけ)屋さんすればええんやん。

そしたら儲かるやん絶対。

 

 

 

 

想像力はいつだって人間の首を絞めますよね。

ええ絞めるんです。知りませんでしたか?

想像力のない奴だけにとってこの世は快適なんですよ。自分にしか思考や感情がないと思ってる奴ね。

そういう奴が羨ましいなあ…

だってねそういう人間はね、嫌味言われたら普通にキレるでしょ。にも関わらず自分が嫌味言っても相手を嫌な気持ちにさせるとは思わないんですよ。

心の中で「早よ死ね」って言われてるなんて つゆほども思わないんですよ。

羨ましいなあ〜…

人の気持ちを想像できない奴が羨ましい。

ただその図太い神経は理解できないし、そうは死んでもなりたくないが。

 

 

 

あー、好きも嫌いもみんながはっきり主張できたらな。

授業で 「言葉は物事の代理品で、物事は比喩でしか表現できないから こんなに種類が多い」って習ってなるほどなあと思ったんですけども

たしかにまあ美しいものの例えは永遠に挙げられるが美しいとはなにかと問われると何とは言えない。

面倒くさいけどもそれだから 言葉は 美しいわけで綺麗なわけで

 

言葉こそすべて。わたしは言葉こそが人間のすべてだと思ってるんですが

その言葉自体、空疎なものなんですよね。

でもまあそれもまたオツじゃないですか。言葉でしか表せないのにどんなに言葉を尽くしてもそのもののことは本当には示すことができないなんてある意味ロマンチックやわあ。

それでも、物事にはこれしかないという一問一答で世界があればいいのになと思うことはやめられません。なぜ。

わたしのように文章を書くのが好きな者にとってすべてがすべてに換言できるということはなんとも嬉しいことだ。その組み合わせが個性を生み果てはどこかで感動を生む、と、信じることができる、言葉こそ人間、言葉は誰でも使えて、硬貨以上に手垢にまみれている、としてもだ。

でもまあ思うのがあれですよ現代人ってさ言葉を軽視してるとゆーかぁ、それが内包する意味しか見てないとこあると思うねんやあ

そりゃあ言葉は並べれば、受取り手が悟れば、使い方間違ってても意味は伝わるよ。でも違うやんなんで、意思伝達のツールってだけじゃないやん文章って。

だからみんなさちゃんと言葉を愛してくださいと思います。

わたしはほとんど言葉だけを愛している。逆にその意味なんて関係ないよね。

人生の一番辛いときにわたしを助けてくれたのは他ならぬ小説で、だから本当のところなんて本当は全然要らないのだ。

本当のことがわたしを助けたことがあるだろうか。いや、ない。(反語)

そんな感じでわたしは文字の中に生きるのだ。世界は言葉の中にしかない。

 

おやすみなさあい