すこやかなるとき

 

 

 

 

 

ねえ、元気してた?

わたしは不思議に健やかで元気です。

こないだブログで言っていた、世の中に対する慈悲深い姿勢ももう治りました。でも猫背は治りません。にゃぁ〜ん

とか言ってね〜まあほんとに穏やか。ゼロです。今、なんだか、胃の洗浄の 感情版。感情の洗浄後。こっからまた春が来るのかと思うと この穏やかな気持ちのままあったかい日差しの下で日向ぼっこがしたいなと思うね。

 

求めないでいられることのやすらかさ。

笑ってだけいられることの清々しさ。

 

渋谷すばるは 幸せに不幸のどん底を見る男なんですけど、あるいは、歳をとって彼も、今はそんな風には思っていないのかもしれないけど。

上がるから下がる。下がるから上がる。ずっと中くらいでいられたら、簡単に小さく幸せになれるんじゃないかな。

 

 

たんぽぽってあれ、折ったらベトベトの白い液体が出て、すごい嫌よね。

 

 

わたしっていうのは大人に好かれない性質で、だから必然的に仲良くなれないんです、先生と。

根本で大人を拒否している節があって、だからそれを大人側もわかるんでしょうね。なんとなく。この子は私に取り入る気がないというか、私の入る隙間はないんやというかそういう風に感じるんやろうな〜

それでだから、子どもだった時に大人を好かんくて、大人になっても子どもの心を持ってる人にだけ、あるいは子どもの立場に立てる人にだけ、構ってもらえるんですよ。

そうやな〜、生涯の中で正しいことを教えてくれた先生なんて 二、三人しかいない。

バイト先の 店長に 「年配の人はそれだけ君より経験を積んでるんやから、一応は話を聞かないとだめだよ」と言われたことがあって、わたしはもうまったく、まったくもって納得せず、浸透感ゼロの返事をしたものなんですけど

でもほんとに、この人は何を見て何を聞いて何を読み、何を感じて生きてきたんだろうという大人はたくさんいるんですよ。ほんとに。いませんか?そこかしこに。

これには二つの意味があって、「何をして生きてきてん(クソやな)」と、「何をして生きてきてん(思考回路が自分と違いすぎてびっくり)」というあれなんですけど、まあ…

自分が子どもであった頃を忘れた大人と 子どもであった頃に上手いこと先生に取り入って折り合いつけてた大人の言うことは まったく信頼できないな。という話でして

 

じゃあわたしのいう子どもと大人の違いって何なんやろう。

わたしは、もうまず間違いなく子どもに属するってことは、わかるんですよ。たぶん、客観的に見てもそうやと思う。じゃあ わたしの中で子どもっぽいと思われる部分を抜き出せばよいのか…?

「頑固・感情的・おもてることが顔に出る・TPOを思考の外に追いやることがある・身の回りの環境について不完全」

とかですかね。それをそっくり逆にすると

「柔軟・冷静・感情が顔に出ない・TPOを弁えた行動をとる・身の回りをきちんとしている」

これが大人ってこと?

いや、ただの「ちゃんとしてて冷静沈着な人」やん。

結局だから、職場を持ってて、そこでは仮面を被ることができる人が大人なんかな?

 

でも、わたしが思う わたしの敵の 大人ってもっと違うねん!

利己的で 子どもにレッテルを貼るのが好きで 人のこと考えてるみたいな顔をしてほんまは全然考えてない、みたいな奴!

そしてわたしが出会ってきた先生にはそんなんが多かってん!!

 

……まあね、そんなん言うてますけど

最近、言葉について興味があって。「思考は完全に言葉に依拠する」と本で読んで、だからでもそれはその通りやなと思ってて。

子どもと大人の違いも、恋愛と友情の違いも、それぞれの単語がなければ なかったんじゃないかって思います。

子どもは自然に大人になる らしい でも その人がその人であることは変わらない。

勝手に、でかい人を大人、小さい人を子ども、と分類しているだけだ…たぶん。

ただ一つ言えることは "大人"になりたくないということだけ。大人になるとしても、わたしの数少ない好きな大人たちみたくなりたいなあ。

自分の人生を自分の人生のまま、楽しみたい。

 

おやすみなさあい