みるめ

 

 

 

2月から読んだ本を記録している。今日で10冊になった。5月。ふむ……

さっき読了したのは山崎ナオコーラの『可愛い世の中』。ものの5、6時間で読み終わってしまった。ものすごく面白かった。久しぶりに時間を忘れて読んだ。

『可愛い世の中』を読み始める数分前に読了したのが太宰治の『ヴィヨンの妻』。これは読むのにわりと時間がかかった。まあ時を忘れるほど没頭する本とはそう頻繁に出会えない。それでも現代小説しか読んでこなかったわたしが初めて面白いと思えた貴重な1冊だ。胸糞悪いのに真実めいててどうして面白いのだろう太宰の文章は。

その前に読んだのは岸政彦の『断片的なものの社会学』。これは授業で紹介されたエッセイだ。エッセイなんてクソ面白くないと思っていたが全然そんなことはないと最近になってわかってきた。なんてことないことをかき集めて分類しないままに並べ立てて別に批判もせず結論も出さず終わる本だった。でも面白い。考える余地のある本だった。

その前に読んだのがリルケの『マルテの手記』だがこれは苦痛だった。本当のことを書いている感じがしたが異国の違う文化の違う時代を生きた人の書くことはこんなに読むのが難しいのかと思った。あと十数ページで読み終わるというところまで読んでギブアップした。辛かった〜。

その前に読んだのが伊坂幸太郎の『火星に住むつもりかい?』だ。

 

 

伊坂幸太郎はわたしが一番はじめに「好きな作家だ」と思った人だと思う。

『オーデュボンの祈り』を読んでめちゃくちゃびっくりした。面白すぎる。わたしはあの時初めて読書がエンターテイメントたり得ることを知った。エンターテイメント小説というのはこのようなものを指すのだと思って本当に本当にびっくりした。

作者の名前を判断基準にして本を買った最初の1冊が『重力ピエロ』だった。これも本当に面白い。まず一番最初の一文が素敵でなんというかオシャレだった。

 

ある友達が「小説を書くのに経験がいるならどうして村上春樹伊坂幸太郎も(他も言ってたけどその2人しかわたしが読んだことなかった)どんどん面白くなくなっていくんや」と言った。

ちょうど『火星に住むつもりかい?』を読んで物足りなさを感じていたので思わず指を鳴らしてしまった(指を鳴らすのはまじでクサかったと思うから反省している)。そして、「詩は感情ではなく経験で書くもの」という『マルテの手記』の一節を大いに信仰し出したわたしは若干の衝撃を受けた。ビビッ!

 

たしかにそうだたしかにそうだ、「経験」が本当に年を重ねるごとに得るものだったとしたら老人にしか面白い小説は書けないことになる。

じゃあ経験ってなんだろう。そもそも「詩は感情ではなく経験で書く」という文章自体が翻訳されたものだからリルケの本当に言いたいところではないのかもしれないしわたしも経験をそのまま経験という意味でとっていない感じがする。

『マルテの手記』ではこうも書いている。

〜(ここで本を引っ張り出して文章を打ち込もうとしたけどめんどくさくなっちゃった)〜

なんか、「28歳にして見る目ができてきた」的なことを書いてたんですよ。世界を見る目が。それも翻訳やから ほんまの意味ではないやろーけどわたしにはほんまの意味がわかるよーな気がするんですよ。

年齢を重ねないと見る目はできないと思うんですよ。見る目ってのは必ずしも道端の野花に気づくほど目ざとい目ってわけではなくて。いろいろなものを見てそれをちゃんと見れる目、ひいては心や頭のことを指すんではないかと。

その 見る目を獲得するには時間がいるし、見る目を持たない人間の書くものなんてただの感情の高ぶりや落ち込みでしかなく、到底共感を呼びづらく、ツイッターの140字で事足りるような脳みその要らないものでしかないんやないかと思うわけですよ。

とか言いつつめちゃ若くして、それこそわたしくらいの年齢でばんばん小説書く人めちゃくちゃいるわけで、それが面白かったりするわけで、見る目ってのは歳を重ねなくても持ってる人はいるのかなとかやっぱりもしかして見る目なんて関係ないのかな〜とか…

難しいけどわたしは書く人になりたいしそのための見る目が最近めきめきついてきた気がするのでそれを養って書く人になる。

 

書く人になりたい人の集まる会があったら楽しそうだな〜

でもしんどそう。死にたくなっちゃいそう。

 

遅いから寝るね。おやすみなさあい

 

みてくれ〜

 

 

 

note始めてました

小説みたいな短いやつを書いて載せていますぼちぼち

読んでくれたら嬉しいです

https://note.mu/nicofuumi

自己顕示欲がとどまるところを知らないことにひいてる

たくさんの人に読まれたいし良いなと思ってくれる人を見つけたいな〜

燻っている つねに ぶすぶすと……

 

 

といかける

 

 

 

理解しようとすることはエゴだと思うかい

あちこちを探し回ってもほとんどのものが自分の手には入らないし 見られたとしてもほんの一瞬だったり全体の10000000000分の1だったりする。ティッシュリモコンケータイ、充電器お茶のコップみかん、を身体の周りに配置してこたつでぬくもるみたいに、物事は手の届く範囲にいてくれない。

とてつもなくそれでしかない異質の存在感で全部過ぎ去っていったりたまにこっちをじっと見たりしてくるがそれらを 少ししか見られないからといって理解の枠の外に押しやるのはいいことなのか。

 

「子どもの頃は楽しかった」と盛んに人々は言うが 子どもの頃は理解の枠がそもそも存在しないのだからそれはそうだろうと思う。

理解するかしないか、近寄るべきか近寄らないべきか、経験したことあるかないか、経験上乗るべきかそるべきか

大人には判断基準がたくさんありすぎて 知っていることが増えすぎて 世界に二の足を踏む。

子どもの頃は 何も知らないのだから躊躇していられない、飛び込むしかない、楽しいことをただ求めて。

「知らぬが仏」は世の中の真理であるし。

 

しかしだ、しかしだよ。

何も知らなかったらそりゃあ楽しいだろうが

いろいろ知ってからの楽しさもあるやろ?

理解しようと思えるのは 理解の枠があるからだ。

ここまでなら理解できる、こっからは理解できない。そして色々なことに出会って色々を経験して、理解の枠を広げていくんやろう

 

「理解できない」が イコール「理解する気がない」

になってる人もいるけど、そんなんもったいないやんなあ。と個人的には思う。

最近読んだ本で、「現代人は踏み込まないことが優しさだと思っている」と書いていた。その通りだと思う。

たぶん、理解しようとすることさえエゴだとみんな思うんだろう、ぱっと見理解できそうにないことには触れないようにしないといけない、だってどこに怒りや悲しみの地雷があるかわからないのだから。

 

でも。

理解しようとすることを恐れて離れてしまったら……それは…………上手く言えないけどもとても悲しいことだと思う。

本当に触れてはいけないことなんてあるのか?生傷は生傷のままで乾かずにずっとあるだろうけど、そこに誰も触れずにおけばそのまま、空気に世の中に揉まれてばい菌が入って膿んでしまわないだろうか。

人間は、本気で理解するために理解しようとしてくる人をはねのけるほど孤独では生きていけないんじゃないか?

怒りや悲しみの地雷を、相手がうっかり踏んでしまったとして、それをそのまま相手にぶつけるだろうか。そんな風に理解し合いたいと思ってくれる、自分も理解したいと思えるような、気軽でない、密度のある付き合いをしている人間に?

 

すべてを理解して欲しいと願うのは図々しいだろうか。

少々厚かましいわな。しかしできるのなら誰かに誰だってまるっと理解して受け入れて欲しい。

べつにちゃうやん、そういうことじゃないで、いやいやケチャップ手についたわたしに(ティッシュ欲しそうやな)と悟ってティッシュ手渡して!とかじゃないで。

「物事に対してこう思う」ことを理解して欲しい、つまりだから、否定せずにそういう人間であることをただただありのままに「わかって」欲しいのだ。

みんなそうだろう?

 

だって目に見えるもんなんて 耳に聞こえるもんなんて物事のほんの端くれでしかなく、たまに無意味なこともあるのだから。

その裏に何が隠れてるのか、気になるべきやしきちんと見てわかるべきだろう、それを大事にしたいと思うのなら。

 

でもわかるよ目に見えるものを目に見えるままに愛したい気持ちも。目に見える部分を見て気に入ったんやからそれ以上はべつに見たくもないよな。

それこそエゴですけどね。世の中がすべて可視化してしまわないと目に見えるものだけを愛することなんてできはしないし、それを望むなら誰とも本当には親密になるべきではないし、一人で生きていくべきだ。

全部が目に見えてしまう世の中なんてだっておもんないでしょ。何も知らない小学生ではもうないのやからそういうのをきちんと愛しましょうよ。

 

というこれもまあ押し付けでしかないわけなんですけどもなんというか…

夕日を初めて見る人間と そうでない人間とじゃ夕日を見たときに受ける感銘はまったく違うけどさ、

夕日を初めて見る人間は圧倒的熱量の塊、視界を埋め尽くす真っ赤っかにただ感動するしかない

そうでない人間には夕日に関する昔の記憶があって、最近夕日をじっくり見られていないのだったという今の自分に関する気づきがあって、うーん、思い出すべき歴史がある。

ぬるぽ」と言えば「ガッ」と返る、そういう馴れ合いにはたまにうんざりするけれど、積み重ねた歴史から新たに学ぶことやふと気づくことはあって、自分の中に何もない状態はそりゃあ清々しく身も軽く楽しいけれど、そういう、そういう重さ、たしかにここに存在するという積み重ねた確信、を楽しむのも楽しいやん。

 

 

子どもの頃は楽しかったとか言うなよ。

それなら今も楽しめるようにさあなんとか、変えてみてよ。お願いやん、そんな、子どもが刹那的な楽しみしか知らない風に育つのは阻止しよ。

大人最高やで、だって子どもの頃の楽しさも覚えてるし、大人になった楽しさもずっと味わえるんやからな って言える大人になりたいよ。なるぜ。なったるわ。

理解したがるからな。好きなものは全部。嫌いなものは要らん。

 

 

おつかれさまあ

 

 

エリオ、エリオエリオエリオ

 

 

 

 

そうなんよね、なんでわたしが『君の名前で僕を呼んで』をめちゃくちゃいいと思ったかというと「自分と相手の同一化」がテーマやからですね。

そしてそれがたぶん男女の恋愛より男同士、女同士の恋愛の方が叶えられうるんやないかと思ったからなんですよね。

 

わたしは、もうめちゃくちゃ、相手と自分を同化させたくて境目を、もうゼロにしたくて密着して1つになりたくて、そういう恋愛をしたくて、でもまあ……叶わないわけで。

「人生はかたわれ探し」っていうのも、さんざっぱら好きな言葉やと言ってきたけど、やっぱり自分と相手を同一化してるわけで、ぴったりかけてるところと余分なところが重なり合う相手って、二人で1つってわけやから、そう、そういうことで……

だからそれがそもそも恋愛なのか?っていうのも大きなテーマなんですよ。

そして友情とはなんだ、という話にもなるわけですよ。

 

満ち足りるには一緒にいて完結しないといけなくて、あなたさえいれば何もいらないわ、世界の他の要素なんて余計で、なにも付け足す必要はない、そんな状態が二人で1つの究極の形でしょ?

で、まあわたしはそれを他人と達成したいんですけれどもなかなかむつかしくてそれはまあよくて、

そんな状態になるにはまず友情が必要でしょ、何にとってもどんな関係においても友情は必要じゃないですか。それが先輩後輩の友情でも上司部下でも親子でも、多少なりとも友情がないと居心地のいい場所をその人と築けはしないわけで

友情を築くには同じような世界で、少なくとも同じ世界線にいなくてはいけなくて、だから、多少なりとも似てるところがないと友情は生まれないと思う。

 

普通の友達と恋人との違いはなんだろうと常々考える。

一緒にいて居心地がいいならば同性の友達と常にぴったり一緒にいればよいと思う。

それをせずに恋人とずっと一緒にいたいと思うならそれは、友達とのそれより大きな友情が恋人とはあるのだろうと思う。

 

あ、ここで言ってるのは

「ツレと嫁とガキで俺の世界は回ってる」みたいな人のことではない。そういう人は全部大事なんだろうし、嫁のことも「女はわからんなあ」とか思ってるやろうから。男女の別がはっきりしてるとでも言うのかなあ。女を守る!みたいな感じやん。

 

まあそれで、恋人って言っても友情ありきやねんから、その相手は別に「恋人」って定義する必要はないのではないかという話で、

二人で1つ、欠けたところなしのまん丸になれるならそのまん丸に名前は要らないはず。

そういう定義が必要になるのはだから、二人以外の他人が常に存在するからですよね…。

でも恋人というラベルに縛られて関係が変わってしまうのは本当に悲しいと思う。

女扱いされたくない んではなくて 友情の元一緒にいられたらと思う……が問題は性欲である。

男女が一緒いて、ときどき「あ、あの二人ヤったな」とわかる場合があるだろう。そういうことを経てしまうと、友達からは違った何かに進化してしまうのだ……でも、

根本にあるのはやっぱり友情なのだから、友達から何かに進化する必要はあるのか?

そもそもだからやっぱりラベルが悪いという話に戻るのだ、二人きりの星に住めたならそんなことを気にせずに生きられるのに……

 

ずっと一緒にいたいとか

この人しかいらないとか

この人だから好きになったのだとか……

そういう大切な熱い1つ1つの気持ちの結果が、恋人というたった二文字きりの単語で表されてしまっていいものか??

 

君の名前で僕を呼んで』を観てない人はぜひ観て欲しい。

二人は……息の詰まるほどの熱い感情で結びついている。

そうだ、結びついているのだ。結びついてひかれあっている。強い力で、二人きりで。ひかれあいすぎてガツンガツンとぶつかるほどだ。

こういう関係を誰かと築けたなら万々歳だと思うだろう。人生のうちその人と過ごせた瞬間が1ヶ月でもあったなら生きていけると思うだろう。

 

……あー、もっかいみよ。

おつかれさまあ

 

 

 

何者か

 

 

 

「お前はオンリーワンやからなあ」

 

というのは、わたしの大切な人がわたしによく言う言葉です。これを言うときの彼の顔はなんとゆーか自分でいうのはなんですが…愛おしげやと思います。彼の表情を読み取れたためしがないのでそれが心情まで表すのかはわかりませんが表情はとにかくふんわりと優しげなのであります。

そうして、かくいう彼もオンリーワンなのです。自分がオンリーワンだということに自信を持っている人間です。

 

こないだ、ゼミの素晴らしきかしこの男の子によって、「オンリーワン」は「固有性を持っている」という言葉に置き換えられることを知りました。

固有性。わたしは自らの固有性を信じて疑わない。

 

しかしそれは、なんてったって今この瞬間に存在するのは大学生という肩書きを持った自分であるから、かもしれない。

大学生のわたし。

〇〇のわたし、〇〇の部分に社会的立場を意味する言葉が何も入らない状態を想像することはできるけど、実際になってみないとそれをどんな風に感じるかわかんないよな。

 

〇〇の部分に何もなくても 心細くなんてならない!という保証はないが……そしてたぶん、一人の夜にはなるが……

一人の夜における精神状態が、特異なものであるのか、そこが人間の本質なのか、どっちとして考えるのが正しいのかにもよるよな。

一人の夜は……完璧に一人の夜とは、現代人の深刻なるスマホ依存や、静かな気持ちでする読書、集中して行う映画鑑賞など…それをすべて終えて眠る前段階に入ったときのこと……。

寝落ちできたなら いいが、眠ろうと思っても眠れない夜……を、一人の夜とする……。

ふと訪れる不安は、完全に自分に帰属してしまう。百パーセントわたしのものとしてそこにいるのだ、不安も寂しさも絶望も悲しみも最悪の経験の記憶も。

布団の中で逃げ場がない。冷静に考えたらめちゃくちゃ恐ろしい。

 

わたしはスマホ依存であるが、外を歩くときや電車に乗るとき、空や鯉や草花を眺めるときにはスマホから離れる。もちろん映画を観るときと読書をするときはスマホをしないけどそれは違うくて、だからえっと百パーセント自分の思考が脳みそを占拠するとき、インプットとアウトプットがゼロのときがあるかどうかの話。

……みんなある?インプットもアウトプットもゼロのとき。誰とも喋らず、何も読まず、ただ自分という一人の人間の重さでもって世界に存在すること、寝る前以外に。

そういうときの自分は百パーセントで、そういうときは 一人の夜と違って無敵。所属を確認する必要もなくて、ただ単に「わたし」であることができる。たわしじゃなくて。

そういうときの自分が、正常なのだったら、きっと、社会的立場が明確でなくても、大丈夫なのだろうけど。心細くならなくて、強く自分を信じられるのだろうけど。

 

私が私であることに理由なんているか?

こんなに私として愛されて生まれてきたのに、私が私であることを誰か他人に例えば社会に、許されないといけない理由はなんだ?

 

 

 

 

というのも、性格診断で「あなたは飛び抜けて何かに優れているわけではない、適当にのらりくらりと生きていける人だ。でもそれは逆にすごい、人々は何者かになりたくて頑張ってるのにあなたはそれをせずなんとなくで生きていけるのだから」的なことを言われたんですよ。ネットの性格診断にですよ。なんやねんそんなパターン化した何個かのうちの1つにあてはめんなや。とか言ってまあ、

人々が何者かになりたくて頑張ってることすら知らんかったわ、と思ってさ。

 

「何者かになりたい」の意味がわからへんもんな。みんなオンリーワンやん、自分でしかないし、私は私で、何者か?って、私やん。私はあなたじゃないし彼じゃないし彼女じゃないし〇〇大学の生徒やからと言って他の〇〇大学の生徒とイコールではないし□□会社の社員やからと言って他の□□会社の社員と同じ人ではないやん。

 

あじゃあ逆に、そんなに自分が自分でしかないことが、嫌なん?そういうわけではなくて?

おいい〜、ほんまによくわからへんぞ、こんなによくわからへんことがあるなんて、というくらいにわからへんぞ、ん…?

んん……?

ロックスターになりたいってこと?有名人になりたいってこと?みんなに知ってほしいってこと?

何者かになりたいってなんや!?町に銅像たてられたいってこと?

何者かってなんやねん!!!!お前は何者でもないお前やろがい!!!!

 

どういうことですか?本当に誰か教えてくれたらありがたいです。

みんなオンリーワンやろ。「自分にしかできないこと」なんかべつに必要ないやん。

誰かに認めてもらわないと自分が自分でいられる保証がないってこと?

まあ確かに、自己の存在は認識する他者がいないとあり得ないやろうけど、ふとインプットもアウトプットもせずに一人でいるときにだってわたしはわたしだと胸を張って言える。他の何者でもないよ。

 

 

なんだか文章書いてるうちに大混乱してしまいました。トホホ

人生で一回は言ってみたい言葉は「さてはほの字なんじゃないの〜!?」です。

 

おやすみなさあい

 

 

ミジンコプール

 

 

 

ある日ね、歩いていたらね、地面に水が溜まっていたんですよ。昨日が雨だったらわかるが昨日は晴れだし今日も晴れ、それなのに水が、コンクリートのデコボコに、溜まっていたわけですよ。

これはどうしてかしらと思うわけなんですがもそもそ、じゃなくてそもそも、地面に水が溜まっていることに拘泥した記憶がここ数年なくて、ということにはた、と気付いて、そうか、これを水たまりと言うのだったな……。大きくなればため池、もっと大きくなれば釣り堀、もっと大きくなれば湖、最後まで大きくなれば海……。

大人になってから水たまりを眺めることなんてないのは、水たまりの中に魚が泳いでいるかも!という期待をしなくなるから、っていうのは辞書に書けるくらい確かなことであるんだけれども、小生は、間違えた私は、魚がいるかもしれないという気になって水たまりを覗いてみたのだ。そーっと覗いてみたのだ。

するとどうだ いるわけですよ魚。虹色に光る。何匹か泳いでる。数はちょっと、数えられなかったけれども。

はあ〜……と思って、そういうこともあるんだなあ〜と思って、ないことはこの世にないから。オゾン層が破壊されて、今まで透過されなかった種類の光がこの水たまりに届いて、そして小生の、間違えた私の目に、見えている感じのやつかなあと、いうのは今考えたんだけれども。

ふむふむと思いながら、とりあえず靴を、コンバースコンバースの靴を、の先っぽを、水たまりに入れてみるとぐにゃり。

ああ?

変な形に捻れてしまったので、気持ち悪っ!と思って急いで足を戻した。

しかしこの世にはばかる気持ち悪っ!という感情は全て、無知から来るので、わたしはそういうのをもうやめたいとちょうど思っている時期だったので、もうちょい行ってみようと思って、そしてつぎは思い切ってばしゃん!

そしたら足の裏が全部吸い込まれてしまってなくなっちゃった。だから今私の足の裏には足の裏がないんだよね。

無理くり引き剥がして、まだこの世界にてやりたいことあったから、どこであれどこかに行くのは惜しいし、もしこの水たまりがブラジルまで繋がってる穴だったとしても、まだサンバの踊れない私に日本に帰る術はなく、糖分に溺れて死ぬだけだと思ったのもあるし、だから引き剥がして耐えた〜!と思って一人で冷や汗かいた。

それがまあある日というか一昨日の話だって、なんで思い出したかと言うと、今さっきテレビで、カンボジアで足の裏が大量発生してるっていうニュースやってたからなんだよね。ひとしきり大爆笑して落ち着いて、コーヒー飲んでるわけなんだけれどもいや〜……靴底を持っていかれなくてまじでよかった……。あのコンバース気に入ってるからな、でも気に入っているからと言って同じ種類のコンバースを二足目買うのはなんか違うなと思ってる節があるからさ。

でもまあみんな雨の匂いのしない水たまりにはまじで気をつけてよ。

 

 

水の匂いの日々

 

 

 

「お風呂あがりのギャランドゥ」から、ブログの名前を変えました。

ギャランドゥ、そこまで好きじゃなくなったから。

今日観た映画の題名が『アメリカンスリープオーバー』だったから。スリープオーバーってお泊まり会という意味なんやけど、いい単語やんって思ってさあ。

わたしって青春映画を観ても、重ねる青春がないから胸がしめつけられることがない。それでも清々しく青臭い匂いがするのは、友情や恋愛に曲がりなりにも触れてきたからだろうか。

 

中学生の頃、気持ちが沈んで二進も三進もいかない期間のことをみんなで「病み期」と呼んでいた。これって全国共通?ケータイの予測変換に出てこないから、今はもうない言葉なのかな。

その病み期だって、もしかしたらホルモンバランスから引き起こされていたのかもしれない。しかし当時のわたし達はまさか、自分の感情さえも肉体に縛られて引きずられているとは考えもしなかった………。

大人になっていく体に戸惑うばっかりで必死についていこうとして、ちぐはぐでそれがなんとも言えず辛くて………病み期。

周囲に自分が病み期であることを伝えて、了承してもらっていた、みんなが、みんなの、心の状態をなんとなく、把握していた。

不安定な子はたくさんいたし、詰め込まれて窮屈な思いを共有していた、のかも、しれない…。

 

今、わたしがあの頃のままの言葉を使うならば絶賛「病み期」だ。あんまり人と喋りたくない、いや本当は、喋りたいのかもしれないけど、エネルギーが湧いてこない…。

自分を自分のままにまるごと肯定できるのは自分だけだというのに、それを自分でできない期間は辛い。誰も認めてくれないからだ。誰かに認められたいなら、まず自分が自分を認めなくてはならない。と思う。

誰かが共感してくれるのは、きっと自分が心の底からいいと思っているものにだけだ…。

 

欲張り。

ありのままで大衆に受け入れてもらおうとする人は欲張りだし、図々しいと思う。

しかし 羨ましくもある。嫉妬している。たぶん。

 

わたしの毎日はずるずると全部繋がっていて、あるときぷつんと切れて、昨日の自分とは様変わりしてしまうが、その瞬間はそう多くはないし、だから、率直にいうとワンナイトラブができる人間はすごい。

お酒を飲んだからって別人になれるわけではないはずなのに………

っていうのはものの喩えで、だから、何事をも割り切ることができる人が羨ましいという話だ。べつにワンナイトラブをしたいわけではなくて ものの喩えだ。

すべてがずるずると意味を持つ。ずるずると繋がって離れない。全部がわたしに帰結する。ことが恐ろしくて動けない。

全然自由ではない。羽根はあるし飛べるが、地面に打たれた杭にしっかり結ばれた紐がわたしの足に繋がっている。いつもそうなので遠くまではいけない。

あるいは………きつく結ばれていない紐を振りほどくのを非難されるのが怖いのかもしれない。

どっちがより本当かは わからないけれども。

 

なんとなく憂鬱で 日々を浪費している、しているingな気がしているけれど

そんな自分を肯定できないなら、その憂鬱自体を肯定してしまおう。

今は。

いつになくポジティブな憂鬱ジャン。

 

 

おやすみなさあい