捧げる

 

 

 

 あなたは私に背を向ける。

 なにを言うでもなく、それなのに私はその意味がわかる。美しいうなじ、回されたネックレス、その両端を預けるように心持ちこちらへ差し出された両手。ちょうど、磔にされるために差し出されたような、その両手。

 大きく背中の開いた黄色のサマードレスで、それをされる彼女を想像しながら、私はネックレスの金具をつけてやる。ついでというように肩甲骨にキスを落として。

 もし、私の口づけでここから羽が生えて。色の白い彼女に白い羽はよく似合う。そうして、文化の軌跡をぜんぶ無視して、この街の人々が彼女を捕らえたとしたら。

「何時に帰るの」

 下劣なだけでなく卑屈でもある考えを振り払うように私は尋ねた。

「そう遅くはならないと思う」

 Tシャツにジーパンの私と、髪を丁寧に巻いた彼女、それらを写す鏡のまえで私は目の焦点を、合わせる場所を定められずにいる。

「こんなに綺麗な沙和を、どうしてたくさんの人に見せないといけないんだろう」

 ふだんなら言わないようなことだった。言わないようにしていることだった。だから、言ってしまったあとになって私は瞬間、怯える。

 彼女が鏡越しに私を見つめているのがわかる。浮かべている無表情さえも、目のはじにくっきりと映る。だから私は、そこにゴキブリでもいるかのように必死に壁を見つめる。

「私は」

 背中で汗が流れた。嫌な汗だ。きっとくさい汗だ。聞きたくない。そんなことはわかっているのだから。逃げたい。もうたくさんだと言いたい。でも、そうしない理由は、たったひとつだった。

「誰の所有物でもないからだよ」

 この人に嫌われるのが心の底から、恐ろしい。

「わかってる」

 その恐怖が、足を竦ませ立っていられなくさせる。しかしその恐怖こそが、すんでのところで身体を支える。

 彼女がくるりと振り返り、私は自分の目が速い速さで動くのがわかった。

「ねえ」

 短く刈った髪に細く白い指が入ってくる。触れられて初めて自らの輪郭がわかるような感覚。彼女が私に与える。ここに存在しているのだということ、身体や重力そのものを。

「ねえ、こっち見て」

 彼女の鼻を見た。陶器のような肌の張られた、細い軟骨で作られた鼻を。

「ばか、目だよ」

 髪をかき分けて戻ってきた手が、今度は私の頬を弱くたたく。

 私はついに多大な決心をし、同時にすべてを諦めて、その目を覗いた。黒く縁取られた黒目のなかの茶色い虹彩のその奥の本当を。

 彼女はなにも言わない。愛の動作だと信じきってしまっていたこれは、果たしてそうなのだろうか。愛を伝えるために見つめてくれるのだと、そう思っていたこれは。

 もはや罰なのでは。すべてを咎めているのでは。ないか。

「どうして怯えてるの」

 彼女はきくが、私は答えを持たない。持たなくても答えなければならない。

「どこかへ行ってしまわないで」

 私の息は熱く、声帯は焼かれてからからに乾いてしまっている。絞り出したはずの言葉は、こぼれ落ちてコントロールから外れる。どんなふうに響いたのか、どんな意味を持ったのか、もうわからない。

「戻ってくるよ」

 簡単に、間髪入れずに、プログラムされているようにそう返す彼女。

 私は。私、私は、私は。

 私は、彼女が天使だということが世の中に暴かれて彼女がたとえば石をたくさんの人から投げられたとしたら。両腕を上にして縛られたとしたら。この黄色いサマードレスのところどころが破れてしまい、世にもみすぼらしい衣服に成り下がってしまったら。

 すべての石をこの身体で受け止め、彼女にはひとつも当たらないようにしよう。

 そうして彼女の身体に刃物を突き立てて、殺してしまおう。

 ゆっくりと、いちばん苦しい速度で。

 彼女の額に滲む脂汗。充血に濁る青白かったはずの白目。食いしばられる歯、強ばる表情筋、咲かない笑顔、私を見上げる恐怖の眼差し。

「じゃあいくね」

 だってもう、憎むしかないのだから。それしか残っていないのだから。

 彼女は私の首に腕を回し、抱擁をよこした。驚くほど冷たい身体をひたりと一瞬この身体につけて。

 居間の扉のそばで私は、ヒールに足を包む彼女を、見送り背骨の折れる音を、頭のなかで聞いた。それはなんとも爽やかで、安らかで、彼女の華奢な体躯から出るたぶんいちばん大きな音だろうと思えた。

 

 

 

 

おわり