さいきん、1週間に1つ、お題を決めて英語でパラグラフを書いている。
くだらないお題ばかりだ、人は一度も会わずに誰かを好きになれるかとか、どうしてゴキブリはあんなに恐ろしいのかとか、SixTONESは他のグループとどう違うのかとか。
しかしまあ、英語で文章を書いていると、パソコンのキーボードのうえで私の指はどんどん混乱していってしまう。画面に現れる言葉たちが、あんまりにも私から乖離していくからだ。
また、私は人知れず使っているあるSNSで、自担への愛を呟くときには常に英語を使う。i love him so much的なことたち。英語でこそ強い力でもって発散することのできる馬鹿げた愛。
どうして日本語を使わず、拙い英語でそれを綴るのかというと、日本語では湿度を持ちすぎるからだ。
愛の言葉は花弁のようにしっとりと実体を持ち、相応の重みで画面に現れて誰かの目に入ってしまう。
日本語というのは湿っぽすぎる。母国語というのは、あんまりにもパーソナルすぎる背景を軽々と公に吐露してしまいすぎるような気がするのだ。
では日本語を自在に扱うことができているのかといえばまったくもってそんなことはない。
それでも、物事を勇んで書き始めてピリオドも打たないうちにどこかへ打ち上げられてしまい途方にくれるなんてことは、日本語を使っているときには、ない、少なくとも、たぶん。
日本語で愛してると言ってしまえば、それはもうなにかとりかえしのつかない重さで相手に伝わってしまい、たとえば言っていないはずの結婚しようとか家族になろうとかそういった無駄なものまでついてきてしまうような感じがする、
みんなは恋人に愛してるよって言ったことある?
しかし英語話者たちはたとえば兄弟や友達にさえ軽々とI love youを言ってのけるのだ、なんの他意もなく、ただ、愛してると当たり前に。
思えば、家族だって友人だって愛している。しかしそんなこと、私は日本語で言ったことなど家族に対してもほとんどない。言葉にされないことで伝えているのかもしれない。言葉にしてしまうとどうなるんだろうか。
芝居がかって聞こえてしまう? それならもう、愛してるという言葉じたいには愛してるという意味ほどの価値はないのかもしれない。
日常的に愛を伝えることのできる言葉でないなら捨ててしまえ。
まあ、なんにしても日本語というのは基本的に よく言えば先述の通り花弁のように、悪く言えば水に浸した雑巾のように、水分を含んでいる。意味をずっしりと言葉の端々に最初から染み込まされすぎているのかもしれない。
形式や場面ごとの使い分け、TPOごと決定される言葉の意味。
持て余してしまう。どんなふうに使えばいいのか、未だによくわからない。
私はよく、「かわいそうに。」と言う。
それを元恋人は出会ったばかりのころ、好ましく思っていなかったそうだ。
「かわいそうにって言われるのがいちばん嫌いや」とかなんとか言っていた。
しかし、「きみの”かわいそう”には哀れみの意味はないんやな」と途中でわかってくれた。
私のかわいそうにには、彼の言う通り哀れみなどの見下しの要素は宿っていない、というより、宿らせていない。
ただ、私の周りの人たちが悲しい目や痛い目に合ったりすることに心を痛め、それを伝えて半分慈しんでいるのだ。同情というより同調。自分の世界に所属する人が害を被ったことへの悲嘆。
しかし、そんな言葉の独自の意味を知らない人にはたしかに、心外だと思われるだろう。そんなこと、彼に言われるまで考えもしなかったが。
言葉など、家族や友人、小さな共同体のなかでしか用いられるべきでないのだ。
誤解や誤読、リスクが大きすぎる。
ベクトルを持つ言葉は危険すぎる。小説や詩、お笑いや映画など、創作のなかでだけパブリックには使われるべきだ。
なにかを語ること、ひいては、語らないことまでがなにかを意味してしまう。
わかりやすくない、キャラの濃くない私には、言葉というのは手に余る。
だからこそ創作に従事し続けるし、コミュニケーションに焦がれることをやめられないのだろうが。