描写【17/31】

 

 

大学生のとき、創作の授業があった。

その教室にはもう、有象無象、自己顕示欲をこじらせて、想像力をうねらせて、歪な感じの文系ど真ん中大学生たちが蠢いていた。

じっさい、あれらの前で教壇に立つのはたいへんな努力というか、気力というか、胆力が必要だと思う。

全員が、文章を書くというところに大なり小なりアイデンティティの核となる部分を、設けているのだ。

まあとにかく、自己顕示欲がその場の誰にも負けず劣らず高い私には、あの授業は楽しかった。毎回テーマに沿って課題が出される。2000文字くらいかな、軽いお話を書いて提出して、優秀だと先生が判断したものの講評がされたり、あるいはグループ内でみんなのぶんを読みながら美点欠点について話し合ったりした。

 

その授業のテーマのなかで、いちばん印象に残っているのが、情景描写の授業だ。

当時の私には、それはあまり興味のあるテーマではなかった。人の心情(を通した自分の主張、もちろん)を描くことに夢中になっていたので、情景描写なんて少し退屈だ、と思っていた。無機物の、風景の、描写。なんとなく理系っぽいし、物質世界の事実を文章にするのは、困難で苦痛を伴う。

先生はある作家の小説の一部の、静かな部屋を描写する文章を教材のひとつとして持ってこられていた。埃の舞う一角、陽が差し込んでまっすぐに地面に落ちる影。それはそれだけではやっぱり退屈で、なので、私は、イチョウの木の根が急激に伸びて人々を襲うという短い話を書いた。動きがあるし、突拍子はないし、なにより大学にあったイチョウの木を大好きなので、そのときにはそれがぴったりだと思ったのだ。

そしてそれは先生に気に入られた。褒められたと思う。嬉しかった。どや! と思った。自己顕示欲の満たされる瞬間。

 

でも、否定してくれてもよかったのにと今になっては思う。

これは逃げでしょうと、あなたは動を描けても、静を描けはしないのではないかと。

あなたは自分の感じたことを、そのままの新鮮さで書き留めておくことはできても、それを人と分け合うために、親切に描写することはできないのではないかと。

誰かの頭のなかにもおなじような新鮮さで、空想の風景を見させてやることはできないのではないかと。

 

さいきん、小説を読むときにいちばん心が惹かれる要素は、緻密な情景描写だ。

むしろ今読んでいる小説なんて、スパイが主人公なので、心理描写はゼロに等しい。周りの人物の表情や語調はたびたび描写されるものの、主人公は表情が乏しいキャラクターなので、父母を喪い恋人と愛し合う、そのときになにを考えているか、読者にはぜんぜんわからない。でも、主人公の友人の戦争で痛めた足を引きずる歩き方とか、恋人の目の薄い色とか、パリの街の石畳の寒さと天気の陰鬱さとか、食べ物の湯気、鼻の高さや指に光る記念日のプレゼント、そういうものが物語を立体的に、登場人物を生き生きとさせるのだ。

彼・彼女らの人生に、皮膚の湿度を加えるのだ。

 

だからじっさい、題材はなんだっていい。

推理小説でも、SFでも恋愛小説(ていうか恋愛小説の側面を持たない小説ってめちゃ・少ないんではないか?)でも、スパイものでも戦争小説、群像劇でもなんでも。

描写が美しければ、緻密で親切で、矛盾なく簡潔で、立体的であれば、登場人物に人生の重みがあれば、その物語はおもしろい。

 

イデアの奇抜さなんて、小説にはいらない。いらないというか、そりゃああったほうがキャッチーで、”よい”だろうけど、でも、それはプラスアルファのなにか、派手なアクセントの一色でしかないと思う。

単純な描写力やキャラクター、場所への理解。そういう基礎的なものによって小説は彩られ、立体感を持つのだ。

誰かを没入させるための、世界をしっかり、文章を通してつくらせなければならないのだから。

 

とはいえ逆に心理描写に全振りで物語を進ませるやり方もかっこいいしすごいと思う。そういうやり方で面白い小説だってたぶんたくさんある。